「再出発」2

「おい恵利、あんま飲みすぎんなよー!」



背後からそう叫ぶ慎の声を無視し、トイレの扉に手を掛ける。この旅始まった時からそうだったけど、慎の言葉なんか届かない。



扉を開け中に入り、思わず目を丸くした。



フロアーの内装と同じで、無駄に金きら金なトイレ。そして中央には何故か、マーライオンが居た。そのマーライオンを指差し、噴出すようにして笑う。



「なんれー?なんれマーライオンらろー?」



うそ臭い色で光るマーライオン。口からは引っ切り無しに水が流れていた。



「うっ――。」



咄嗟に口を押さえその場にうずくまる。マーライオンを見ていたら吐き気を催した。



「気持ち、悪い」



ふらふらしながら洗面台に行き、水を流しながら吐いた。あまりの苦しさにどんどん涙が零れてくる。あの日よりも酷い。こんな姿を彩が見たら、呆れちゃうかもしれない。 私には高すぎたドンペリゴールド。30万円のお酒が、無意味だというように流れていく。



ジャーっと流れる水の音を聞きながら、何故か今まで旅で出逢った人達が脳裏を過ぎる。



梨香さん――

梨香さんは無事オーストラリアに辿り着けたのかな?

私のこの姿を見たら、酷く心配するだろうな。



それにこんな時は、勇作君に方言で叱られたい。秋田に居た頃に朝まで飲んだ事もあったけど、こんなに気持ち悪くなった事はなかった。

キリが良い所で、梨香さんや勇作君が止めてくれていたのかもしれない。



二人の喧嘩、また見たいな。



池上君――

きっと今、大変な時なんだよね。

なのに私、こんな所に来てこんなに吐いて馬鹿みたいだよね。

この姿を見たら、私を嫌いになっちゃうかもしれない。



池上君に笑って欲しいって言ったけど、無愛想な池上君でもいいから会いたいって、ずっと思ってるの。 咳込みながらその場に座り込み、涙を流した。



「お腹痛いよぉー」



そう言いながら子供みたいにわんわん泣いた。吐きすぎてお腹が痛い。



「私、何してるんだろう――。」



酔っているせいもあり、自分の感情が上手くコントロール出来ない。

拭っても拭っても、涙がどんどん流れてくる。



そんな中思った。やっぱり慎と関わると、ろくな事ない。

早く東京ここを出ないと――。 私には、この街が似合わない。



扉が開く音がして、泣き顔のまま振り返る。

そこには、口をぽかんと開けたキャサリンが居た。



「あらやっだぁ!やっぱりぃー!」


「キャサリンさん」


「なぁにぃー?吐いたのぉ?だからってぇ、こんなとこ座り込んでぇ」



そう言って駆け寄って来た時、ふわっと花の様な香りがした。それは慎やこのお店に居る人達の咽る様な香りではなく、人の心を落ち着かせる様な安らぎの香り。



「ごめんなさいキャサリンさん。ドン金が流れちゃった」


「えっ、ドン小西がどうしたって!?」



キャサリンさんに伝わり易い様に言ったのに――。

そう思いながら首を横に振った。



「ドンペリゴールド。吐いちゃったの、あれのせいで」



泣きながらマーライオンを指差した。

それを見たキャサリンさんは、呆れる様なため息を吐く。



「ライオンちゃんのせーじゃなくってぇ、ただの飲みすぎでしょぉ?まぁ、確かにあれは吐き気を催すわね。この間だってキャンディが――。」



何かをブツブツ言いながら、自分の鞄を漁り出した。そして、目が覚める程に明るいピンク色のハンカチを取り出す。差し出されたそれをそっと受け取った。

サラッとした触り心地で、何だか高そうなハンカチ。それで涙を拭う中、キャサリンさんは文句を言いながら水道の蛇口を閉めた。



「やっだぁ、水道トラブル5000円ーって、クラシアンが来ちゃうじゃなぁい」



ぼーっと誰も居ない壁を見つめ、ぽつりと問い掛ける。



「キャサリンさん―― 私、一体何をしているんでしょうか?」


「何よクイズぅ?スーパーひとしくん人形使っていぃ?」



ひとしくん人形って何――。

そう思ったけど、構わず話し続けた。



「私は、こんな事をする為に旅に出たんじゃないんです」


「そういえばあんた、吐いたら呂律回るようになったわねぇ」


「この間までは大阪に居て、その前は秋田に居て、次は暖かい所に行く予定だったんです――。」



そう言っていたら、慎のせいで予定が狂ったのが腹立たしくなってきて、再び涙を流してしまう。ピンク色のハンカチを顔に押し当てると、キャサリンさんと同じ良い香りがした。



「ネチ子、女なのに寅さんみたいな事やってんのねぇ」



そう呟いた後、私を見てあーあと嘆く様なため息を吐く。



「あんたさぁ、笑い上戸の次は泣き上戸?ちょーう、やっかいなんですけどぉ」


「こんな姿を彩が見たら、きっと呆れちゃう」


「彩?ああ、あんたの妹ぉ?だってその子AV女優でしょぅ?こんな事くらいで呆れるたまじゃないでしょぉー」



思わずピタッと泣き止んだ。キャサリンさんは言っちゃったと言わんばかりに、慌てて口を手で押さえる。その様子を見て、何故キャサリンさんがそこまで詳しく知っているのかを悟った。



「もう―― 慎!だから嫌なの!」



そしてわーんと更に泣き喚く。

キャサリンさんは耳を塞ぎ、困ったような表情をしていた。



「言ったでしょう?慎ちゃんはあんたの事、心配してんのぉ。だから信用出来るあたしに全部話して、あんたの子守を頼んだのよ」


「子守なんて、必要無いんですってばー」



大体子守って何なのよ。どうして慎はそこまでして私を引き止めるの?

何も出来ないじゃない――。 慎は私の悲しみを、分かろうともしないじゃない。

それ所か、悲しみに怒りのオマケをつけてくる。



「小さい頃から慎ちゃんと一緒だったんでしょぉ?なのにあんた、慎ちゃんの事が分からないのぉ?」


「分かってます。分かってるからこそ腹が立つんです」



小さい頃は優しくて、もっと人の気持ちを汲取れる子だった。だけど今は、何処かへ行きたい私の気持ちを無視して無理やり引き止めようとしてる。そして彩への“悲しみ”を、気にするなと言い放つ。 香水をプンプン漂わせて、まるで騙す様にして女の人に愛想を振りまく。高そうなアクセサリーを身に纏い、この荒んだ夜の街と共に生きる慎。



それを見ていると、責めずにはいられなくなるの。



バカ慎――

彩を、忘れちゃったの?って。



「まぁいいわぁ。この際、涙と一緒にモヤモヤ吐いちゃいなさい。このままだと美容にだって悪いしぃー」


「キャサリンさん、私―― 何か出来たのかな?彩を死なせない様に、何か出来たんじゃないかな」



キャサリンさんはただ黙って背中を擦ってくれていた。

その様子を見て、酔った人を相手にする事が慣れているんだろうと思った。

そして側にあった紙ナプキンを手に取り、私の鼻に押し当てる。



「はいはい、鼻かみなさぁい。チーン」



なんだか年頃の子をあやすお母さんみたい。 出逢ってあまり間がないのに、こんなに迷惑を掛けるとは思ってもみなかった。これじゃ本当に子守だと思い、情けなくて更に泣けてくる。



「あ・の・ねぇ!言っておくけどぉ、きっと同じよ」



怒る様にハッキリとした口調でそう言われ、俯かせていた顔を思わず上げる。



「昔観た映画でね、今の記憶を持ったまま人生をやり直すっていう映画があったのぉ。その主人公はね、やり直す為に過去に戻ったのに、結局同じ人生を歩むのよ。人間ってそんなもんだと思わなぁい?」



何かを返そうとしても、泣きすぎて声が上ずってしまう。

何も返事が出来ずじっと目つめ返す事しか出来なかった。



「あたしだって過去に戻って男になったら、また女になる努力をするわぁ。それでまた美容師を目指して、挫折して、結婚を夢見るゲイバーのママになるの」



そう言うと、優しい眼差しで私を見つめた。



「人生苦味があるからこそ、幸せを噛み締める事が出来ると思わない?それを知っているからこそ、過去に戻っても同じ苦さを味わいたいと、そう思うのよ」



その言葉には何処か説得力があった。きっと私には経験した事のない、苦くて辛い道を歩んできたのだろう。そう思うからこそ、もっとキャサリンさんの言葉を聞きたいと思った。 上手く生きる事の出来ない私に、何かヒントを与えて欲しいという思いがあったのかもしれない。



「あんたみたいなネチ子はねぇ、どうせ三年後になっても五年後になっても、何時いつの時だって過去に戻りたいって言うの。そんなの時間の無駄だって思わなぁい?」



ふと考える。三年後、五年後、私は何をしているのだろう?と。

何時いつまでもこんな風にして、悲しみに暮れる日々を送っているのかな――

彩を想って泣き続けるのだろうか?そんな事を考え顔を俯かせた。



するとキャサリンさんが私の肩に手を添える。顔を上げ見つめると、何時になく真剣な表情で私を見ていた。そして強い口調で言う。



「嫌だって言ってもあんたは生きてんだよ!グチグチ考えて落ち込むよりも、今生きていられるって事を、もっと大切に考えな!」



はっと目が覚めた様な気持ちになる。

呆気に取られてしまい、気付けば涙も引っ込んでいた。



「もぉやっだぁー、あたしったら酔っ払い相手に真剣になってぇ。ちょ―― そのハンカチで鼻水拭くなよオラ、お気になんだから」



ドスが利いた声混じりの台詞。恐いと思っていたのに、今ではなんだか可笑しくて笑みが零れてしまう。



「さ、トイレになんて座っちゃってはしたない。女なんだから女らしくしなさぁい」



キャサリンさんに支えられながら立ち上がり、席に戻った。 泣き疲れた私は睡魔に襲われ、気付けばキャサリンさんの膝の上でうとうとしている。なんだか母親の膝で眠る様な、そんな安心感を抱きながら眠りについた。

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