第092話 自分

本当の自分なんてものがあるとすれば、きっと、どこかに置き忘れてきてしまったのだと思う。例えば、電車やバスの中であるとか、どこか道を歩いているとき、段差につまづいた拍子に落として、そのままになってしまったとか、自分でも気づかないうちに、失くしてしまったのだろう。きっと交番へ行ったって見つからない。


失くしたことの大切さに気付くのは、いつだって、ずっとあとになってからだった。どうして、あのときもっと大切にしておかなかったのだろう、といつも思う。誰も教えてくれなかった。あれが本当に大切なものだったなんてこと。


夢を見なくなったのは、いつごろからだったか忘れてしまった。昔は眠るたび夢を見ていた。色鮮やかな世界だった。それは過去であり、未来であり、現在だった。いつしか、眠りは疲労と現実に押しつぶされてしまった。今はもう、夢を見ない。いや、見ようと思っても、見ることができないといった方が正しいかもしれない。


眠るたび、いつも思う。私は自分というものを失くして、いつかまどろみの中で、闇に溶けて消えてなくなってしまうのではないか、と。そして空っぽになった私が今まで通りの、すり切れたレコードみたいな日常を繰り返していても、誰も気づきやしないのではないだろうか、と。

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