第082話 夜の森
夏の夜、暗い森の中、私は私でなくなった。
長い長い夜だった。森へ向かう途中では、まだ沈みかけの太陽が空にほんのひとかけら残っていて、それが真っ赤に燃えながら私の影をゆっくりと、どこまでも引き延ばしていた。ほとんど紫色に染まった空で、太陽は少しずつ夜に居場所を奪われ、やがて、別れを告げるように沈んだ。
虫の声ひとつせず、風のさざめきもなく、森は静まり返っていた。私の足音だけがあたりに響いた。木々を抜けて地面へ映る星の輝きだけが頼りだった。太陽がすっかり沈んだあとも、闇は深まっていった。昔聞いた童話のように、パンくずや白い小石でも拾ってこれば、帰り道くらいは分かったかもしれない。振り返ると、来た道は夜に呑み込まれて、跡形もなく消えていた。
森の深く、闇の中に、影が現れた。名前のない怪物。私だったもの。そして、私になったもの。影がゆらめいた。名前のない怪物だった私が近づき、私に牙を突き立てた。臓物を引き裂き、血の滴る肉を貪った。私は抵抗を試みようとしたものの、何もできずに、されるがままだった。私は脱力し、薄れゆく意識の中で、影が、名前のない怪物が笑ったのを見た。
夏の夜、静かな夢の中で、私は私に成りすました。
傍らには、私の死体が横たわっていた。私はそのそばに座り、じっと夜を見つめていた。長い長い夜だった。やがて輝くような闇が覆う空の端に、小さく光が灯った。夜が明けて、私が目覚めたとき、私は私だった死体のことを忘れてしまうだろう。そう思うとふいに愛しさが込み上げ、にわかに別れがたく涙がこぼれた。私が私であることの証明。私が私でないことを知っているのはもう、傍らの、物言わぬ死体だけだった。
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