第076話 煙
煙草に火をつける。やさしく息を吸い込み、唇をなでるように吐き出した。煙は、僕と一緒にいられることを慈しむようにまとわりついた。僕は想う。この煙は、彼女そのものなんだ、と。煙は、僕を恨む様子でもなく、かといって憐れむ様子でもなく、そよ風になびく白いカーテンのようにゆったりと辺りを漂っていた。
僕と彼女は刺激を欲していた。何もかもをヤリ尽くして、退屈しきっていた。よどんだ空気のように動かない日常。血流の止まった肉体のような目覚め。肺がつぶれたまま生きているような息苦しさ。それでも僕たちは怠惰に任せるままに生きていた。僕は彼女がいたから生きていた。彼女は僕がいたから生きていた。互いの肉体を貪り続ける蛇のような、永遠に続くような、素晴らしくも最悪の日々だった。
ある日、僕らは薬を飲んで煙になった。夕暮れ時の、静かな山の中だった。車の中で、僕たちは煙になって溶け合い、一つになった。車のシートや足元などの隅々の中だけでなく、お互いの肺へ浸み込み、無数の肺胞を通して血液へ取り込まれて体中を巡った。車の中はすべてぼくらで満たされていて、僕らそのものだった。この中には、世界のあらゆる不幸も、退屈も、肉体の限界も、悲しみも入ってこれなかった。
コツコツと窓をたたく音がした。僕は煙から人間へ戻った。うまく持ち上げられない瞼を向けると、人影があった。話すために窓を開けようと、金属のように重くなってしまった腕を何とか動かした。そのとき、彼女はまだ煙のままで、僕はそれに気づかず窓を開けてしまって、車の窓を開けられてまだ煙だった彼女は世界と混じり合ってしまった。それで彼女の肉体は、空っぽの入れ物になってしまったのだった。人影は心配そうに僕らに語りかけた。僕はマネキンのように同じ姿勢のまま、心配いらない、と答えた。人影はなおも納得していないようだったが、僕が心配いらない、ともう一度繰り返すと、何度か振り返りながら去っていった。僕と彼女は煙だった。僕はマネキンになった。彼女は世界になった。それがその日のすべてだった。
あの日からずいぶん経ってしまった、と思った。僕は短くなった煙草を灰皿に押し付け、火を消した。漂っていた彼女はためらう様に世界へと溶けていき、あとには僕一人だけが残された。相変わらずこの世界は不幸や、退屈や、どうしようもない事柄に満ち溢れているのだけれど、僕はまだ彼女がいる世界から、どこへも行けずにいる。
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