第060話 影男

私は、ある男の影になった。アスファルトを焦がすような太陽から、男の体を中心に逃げまわりながら、男の一挙手一投足を凝視して、動きを模倣し続ける。影というのは、影の本体の動きを、まったくの時間差なく映していると考えるのは誤りである。実際のところ、影の動きを凝視していれば分かるかもしれないが、ほんの一瞬ほどではあるけれども、少しだけ遅れて影の主人である本人の動きを追っているのである。街中を行き交う、影、影。そのどれもが、影を作りだした肉体、あるいは物体をもち、それらの論理に従って緻密に動き続けている。椅子や机の影だって動いている。太陽が、動かないわけはないのだから。


影になるという事は、肉体に従属するという事ではない。しかし、肉体の論理にがんじがらめになる訳であり、影自身の動きや考えをする余裕が十分に残されているとは言えない。影になるという事は、その肉体に限りなく近い存在になるという事だが、同時に、決してその肉体そのものになる事が出来ないという事を知っておかなければならない。影になることで、可能性を手にし、影になることで、可能性を失ってゆくのである。私は動きを模倣する。だが、ある時それに疲れて、模倣を止めて動かなくなった。男は影を失ったまま、その事にも気づかないまま、どこかへ行ってしまった。私は交差点に焼き付いた、何かの影である。私は新しく模倣する相手を待ち続けている。出来るなら、また、影のない人間がいい。

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