第041話~第050話

第041話 絵画

「ステンドグラスに描かれた聖人は、文字の読めない人間に向けた聖書そのものなんだ」私は、彼が語る言葉を静かに聞いていた。美術館の中は薄暗く、休日にも関わらず人もまばらだった。壁にはいくつも絵が飾られていた。宗教を題材にした芸術がテーマの展示で、その中には絵画だけでなく、彫刻や版画、そして、壁画なども含まれていた。


「絵画というのは、それ自体が体験なんだよ。単に自然風景やデザインの描写というだけのものじゃあないんだ。芸術家の精神世界の体現でもあり、それを鑑賞する人間の体験なんだ。だから、遠い昔、まだ文字の読めない人間が沢山いた世の中、教育というものが民衆から奪われていた時代では、聖書に描かれた宗教体験は、宣教師の説教だけでなく、絵画によってもたらされた。わかるかい、人々は、ここにあるような絵画を通して、奇跡や、苦しみを体験したんだ。人々は、モーゼが海を割るのを見た。ダビデが巨人を打ち倒すのを見た。悪女が予言者の首を求め、そして殺すのを見た。ユダが銀貨一枚のために裏切るのを見た。そして、人々はキリストが復活するのを見たんだ」そういう意味で、宗教芸術は体験そのものなんだ、と彼は言った。私たちは、キリストが磔にされる絵の前にいた。彼は食い入るようにその絵を見つめた。私は少し離れてその絵を見つめた。十字架に、手足を釘で打ち付けられたキリスト。空は暗雲が立ち込めているが、遠くに、光が見える。キリストは苦悶の表情をしているようだが、それが自分の苦痛についてのものか、人類にこれから待ち受けている運命を案じるものなのかは、私には分からなかった。


一通り見終わると、私たちは美術館に併設されたカフェへ入った。彼は話を続ける。


「逆の見方をすれば、奇跡や苦しみ、そして体験が芸術を育てたという考え方もできる。例えば、第二次大戦では多くの芸術家が故郷を追われた。そして、芸術家たちは安住の地を探して彷徨ったのさ。悲劇の時期だったけれども、皮肉にも、それが多くの芸術家を花開かせた。孤独が、断絶が、悲惨な死が、芸術家を育てたんだよ。芸術家たちは、自分を見つけようとして必死だったんだよ。自分が何者なのかを知るのは、恐ろしいほどに残酷なんだからね……」そう言うと、彼は少しばかりぬるくなったコーヒーに手を伸ばした。話は、それっきりだった。


時がたち、いつしか彼と疎遠になった。風のうわさで彼が自殺したということを聞いた。彼は自分が見つけられなかったのだろうか?それは確かに恐ろしく、残酷なことだろう。日が落ちて、街が夕暮れに包まれている。ふと、私は思い直す。いや、それとも自分を見つけてしまったのかもしれない。だとすれば、彼は自分に何を見たのだろうか。


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