狂神暗躍編

第37話 モルダバイトへ


 暗い暗い、どこか。

 気づいた時、周りは真っ暗で何も見えなかったので、その人物はあっという間に恐慌状態に陥った。

 叫ぼうとした。逃げようとした。

 だが、口には猿轡が嵌められていて、呻き声程度しか出せない。

 身体はしっかりと縛られていて、少しばかり身体を捩るぐらいしかできない。

 知らず涙を流しながら、その人物は必死に抵抗するが、結局は何もできなかった。

 ぽつり。

 不意に、真っ暗な闇の中に赤い火が灯った。

 一つだけだった小さな火は、徐々にその数を増やしていく。

 そして闇を駆逐するのに十分な光度となった火は、ここが何なのかをその人物の目に明らかにした。

 壁も天井もしっかりとした石造りの建物の中。いや、黴臭い空気からして、もしかすると地下なのかも知れない。

 そして、この時になってその人物は、自分が全裸で縛られていることに気づいた。

 羞恥に頬を染めながらも、その人物──二十歳前の少女──はどうしてこんな所に自分がいるのかを考える。

 彼女が覚えているのは、勤め先である酒場から自宅への帰り道。家族のいない彼女は、酒場で女給として働きながら裕福ではないものの、満ち足りた生活を送っていた。

 最近は馴染みの若い男性客の一人と仲良くなり、その男性を異性として意識し始めていた。相手もまた自分に優しく、それとなく自分の生い立ちなどを聞いてくるところから、これは脈アリかな、などと少々自惚れてもいた。

 そんな小さな幸せを掴み始めていた時、勤め先からの帰り道で突然何者かに襲われて意識を失ったのだ。

 そして、気づけばここで裸で縛られていたというわけだった。

 不意に、視界の中に複数の人物が現れ、彼女の思考は現実へと引き戻される。

 その人物たちは手には火の灯った蝋燭。そして、彼女を覗き込むその顔という顔には、異様な模様が描かれていた。

 刺青なのか、それとも単に塗料で描いたものなのかは判断できないが、裸で縛られている女性にも、その集団の異様さはしっかりと伝わっていた。

 知らずがたがたと震え出した彼女を、異形の集団は極めて冷めた目で見下ろす。

「このぐっちょむ……か?」

「は。その通りでございます、教祖様」

 教祖と呼ばれた一際体付きの大きな男の後ろから返事が聞こえ、次いで、教祖と呼ばれた男が、無造作に露になっている女性の左の乳房を鷲掴みにする。

「────っ!!」

 声にならない悲鳴を上げる女性。

 ぐにぐにと女性の乳房を握り締める教祖と呼ばれた男。だが、その男の顔には好色なものは一切なく、あくまでも冷めた表情で女性の様子を窺っていた。

「良からるべぇ。このぐっちょむはままいやであるん」

「は!」

 返事を返した男の顔に、明らかな安堵の表情が広がる。乳房から手を離した教祖が下がると、代わりに返事をした男が女性の視界へと入ってきた。

 その男の顔を見た途端、女性の表情に驚きが浮かぶ。なぜなら、その男は顔に異様な模様を描いているものの、最近勤め先で仲良くなった例の男性に外ならなかったのだ。

「喜べ。おまえは我らが神への供物として選ばれた」

 男はそう言うと、実に晴れやかな笑顔を浮かべる。

 集まった人物たちが、一斉に不気味な呪文のようなものを唱え始める。その陰鬱な調べに合わせるように、男は纏っていた黒い外套の下から鋭利な短剣ダガーと取り出した。

 何やら不気味な装飾の施されたその短剣が、蝋燭の赤い光にきらりと禍々しい輝きを宿す。

 集まった人物たちの唱える呪文が更に陰鬱で禍々しくなった時。男は振り上げた短剣を真っ直ぐに振り下ろし。

 短剣の刃が、蝋燭の赤とは別の赤で染まった。




「お腹が減ったのだ!」

 突然そんなことをのたまい出した自らの神を、レグナムはじっとりとした目で見つめた。

「確かさっきの休憩で、携帯用の保存食をがつがつ食っていたのはどこの誰だったか?」

「あんな不味いもの、食べたうちに入らないのだ! 我輩はもっと美味しいものが食べたい!」

「美味しいもの、ねぇ……」

 呆れたようにそう呟きながら、レグナムはゆっくりと周囲を見回した。

 ここはチャロアイトから北へと伸びる街道の上。明るい森の中を縫うように拓かれた街道であり、自然こそ豊かなものの人工物は全く見当たらない。

「こんな何もない街道の真っただ中で、おまえの言う美味しいものがどこにあると言うんだ?」

 レグナムにそう言われて、カミィは──ついでにクラルーも──周囲を見回した。

「周りには豊かな自然があるのだ。となれば、美味い食材の一つや二つ、簡単に手に入るであろうが」

「そうです! ご主人様の仰る通りです! レグナム様、ここはご主人様のため、可及的速やかに美味しい食材を入手してください。そしてできれば、そのお零れをこのわたくしにもいただければ、なお言うことはありません!」

 主従が揃って、期待を込めた眼差しでレグナムを見つめる。

 その視線に晒され、レグナムは一瞬だけたじろぐとがりがりと頭を掻きながらはぁ、と大きな溜め息を一つ。

「……仕方ねえな。確かこの辺には川が流れていたはずだ。そこで魚でも捕まえるか」

 レグナムは街道から離れて木陰に腰を下ろすと、背嚢を下ろして魚を捕まえる準備を始めた。




 現在、レグナムたちはモルダバイトという街を目指して旅をしていた。

 一つ前の宿場町までは、とある行商人の護衛として雇われていたのだが、その宿場町では新たな仕事を見つけることができず、近隣で最も大きな街であるモルダバイトで次の仕事を探すことにしたのだ。

 モルダバイトは隣国のラブラドライト王国との国境に最も近い街であり、旅人の多い街でもある。そこならば、何らかの仕事があるだろうと見越して、レグナムたちはモルバダイトを目指している。

 現在はレグナムとカミィ、そしてクラルーの三人で旅をしているのだが、そのモルダバイトへの途中でカミィが携帯食料に飽きた、と言い出したのだ。

 レグナムは背嚢から取り出した数本の短い棒のようなものを手にして、近くを流れていた川へと移動し、その川の傍で短い棒をてきぱきと繋ぎ合わせていく。

 興味津々といった感じでカミィとクラルーが見守る中、レグナムによって繋がれた棒は、長さ一ザーム(約三メートル)ほどの釣竿へと変化した。

 その穂先に糸を結びつけ、反対の糸の端には毛針を結ぶ。

「ほう。貴様、こんなものを持ち歩いていたのか?」

「まあな。いつでもどこでも食料を調達できるようにってのがオレの師匠の教えでな。その師匠いわく、『十分な食は強くなるための第一歩』だそうだ。そのため、師匠に弟子入りした当初は色々な食料調達法を叩き込まれたもんさ」

 懐かしそうに昔を語りつつ、レグナムは釣りの準備を終わらせる。

 レグナムは器用に釣竿を操り、川の流れの速そうな瀬の上流へと、毛針を流し込む。

 毛針は水面に浮かびつつ川の流れに乗り、瀬へと入っていく。そして瀬の中程まで来た時、ちゃぷんという水音と共に毛針が消えた。

 反射的に釣竿を操りって合わせを行うレグナム。

 釣竿は綺麗な弧を描きつつ、かかった魚をレグナムの元へと運ぶ。やがて、水面を割って十ザム(約三十センチ)弱ほどの美しい橙色の斑点を持った魚体が現れた。

「釣れたのだ!」

 子供のように歓声を上げるカミィ。クラルーも現れた魚の大きさと美しさに目を輝かせている。

 その後、同じ動作を何度も繰り返し、レグナムは十匹近い魚を釣り上げたのだった。




 川の傍で火を起こし、レグナムは釣り上げた魚を手早く調理する。

 腹を裂いて内臓を取り出し、川の流れの中でさっと洗う。

 そして前もって用意しておいた木の枝を串にして、起こした火に翳して焼いていく。

 調味料は塩のみ。付け合わせとして、近くの木になっていた甘酸っぱい木の実を添えることも忘れない。

「さあ、もう食えるぞ」

 差し出された焼き魚に、カミィとクラルーは改めて目を輝かせた。

 そして、まだ熱いその身に早速齧り付く。

「う、美味いのだ!」

「本当、素晴らしい味です!」

 主従から上がった声に、レグナムは満足そうに頷いてから、彼自身も焼き魚を口へと運ぶ。

「貴様は凄いな、レグナム。単に焼いただけの魚がこんなにも美味しくなるなんて」

「素材がいいからだろ? 獲れたての魚を使えば、誰だってこれぐらいのことはできるさ」

 そう言いつつも、褒められて満更でもなさそうなレグナム。彼はまだ焼き上がっていない魚を、順に火に翳していく。

「ところでレグナム。ものは相談なのだが……」

「どうした、カミィ? 何を改まっているんだ?」

 蠱惑的な金の瞳が、上目使いにじっとレグナムに向けられている。

「さっき、貴様がやっていた釣り……あれは我輩でも……で、できるのか?」

「なんだ。釣りがしてみたいのか?」

「うん! やってみたい!」

 新しい玩具を与えられた子供のように、顔を輝かせるカミィ。レグナムはそんなカミィに半ば呆れつつも、釣竿の操り方や毛針の流し方などを教えてやる。

 レグナムに教わった通り、それでもやはりどこか不格好にカミィは釣竿を操って毛針を川へと流す。

 やがて、流れに乗った毛針が小さな水音と共に水中に没した。

「今だ! 合わせろ、カミィ!」

「お、おおうっ!?」

 おっかなびっくり、レグナムに言われた通りにカミィは釣竿を持ち上げた。

 途端、その小さな両手にぐぐんと重みが伝わる。

「な、何かが糸の先で暴れているのだっ!!」

「それが魚がかかった証拠だ。慌てなくていいからゆっくり竿を持ち上げろ」

「こ、こうか?」

「そうじゃねえよ」

 苦笑を浮かべつつ、レグナムはカミィの背後から手を差し伸べて釣竿を操作する。

 ほんの一瞬だけ、腕の中にいるカミィの暖かな体温といい匂いにどきりとするも、レグナムははしゃぐカミィの手を取りながら竿の操り方を教える。

 そうしている内に、綺麗な水の流れの中から大きな魚体が現れた。

「お、こいつは大物だ。絶対に逃がすなよ」

「お、おう、任せるのだ。もちろん、食べる方も我輩に任せるのだ!」

「……まだ食うつもりかよ?」

 小柄で美しい少女の旺盛な食欲に、レグナムが呆れた声を零す。

 それでも、大きな魚が水面から飛び出すと、二人は笑顔を浮かべて互いの拳を打ち合わせるのだった。




「うう……狡いです、レグナム様……レグナム様だけあんなにご主人様と密着して楽しそうに……わ、わたくしもご主人さまともっと密着したいのに……」

 一方、そんな二人を取り残された形の某海月くらげが、羨ましそうに指を加えながら見つめていた。

「そ、そうです! わたくしの毒を上流に流せば、ここら一帯の魚は全て死に絶えるはず……そして、その魚全部をご主人様に献上すれば、ご主人様もわたくしを褒めてくださるのではっ!?」

「すんじゃねえ」

 物騒なことを口走り出した下僕の後頭部を、割と強めに殴りつける某傭兵の姿があったとかなかったとか。

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