099 全ては解決した
翌週の月曜日。
ロボコンが終わって初めての定例教師会議が、いつも通り教員会議室で開かれた。
ぞろぞろ集まってくる教師たちの顔は、二週間前の前回時に比べればずっとましな表情だった。誰もが口にはしていないが、今日の会議の内容の半分以上については既に予想が出来ていたのかもしれない。
「本日も、議題は一つしかありませんな」
一枚だけの紙をぺらりと捲った校長は、独り言のように言うと教師たちを見回した。その動作も心なしか、やや余裕があるようにおっとりして見える。
浅野は紙に目を落とした。そこに書かれているのは、たった一行だけの項目。『ロボット研究会の生徒五名の処遇について』。
──『処分』が『処遇』になったわね。
浅野は気付かれないように、声を殺して笑った。今日の会議が出来レースであるという確信が、前回の会議までは毎度のように感じていた吐き気のような嫌な予感を、すっかり掻き消してくれていた。
なぜって、簡単だ。ロボコン後に悠香たちが開いた実演会に、信濃と千曲が来ていたからである。
「それではご意見のある先生方、挙手をお願いします」
校長の言葉に、ばらばらと手が挙がった。当てられた順に、意見を述べていく。
「先週末の発表を見たのですが、なかなか彼女たちなりに頑張っていたようですね。物理部でもないのにあれだけ立派なロボットを作るとはと、素人ながらに感心しながら見ていました」
「私は行ってはいないですけれど、他の先生方のお話を伺っていると、どうも好印象以外に抱くべきモノが浮かばないような気がするんですよね。そもそもその校内発表にしたって、要望を受けて自分たちで企画から用意までしていたらしいじゃない。校内のあちこちにビラが貼られていたの、何度も見たわ」
「なんでも物理部も念願していたという優勝を飾ったそうじゃないですか。十分、他所に誇っていい結果ではないかね?」
賛辞を贈るたびに、教師たちは浅野に向かって優しい目線を投げ掛けた。二ヶ月前、いや一ヶ月前からは考えられない変化だった。好感度は明らかに上がっている。
そして、明らかに下がった人たちもいる。最後に意見を述べた教師が、笑い混じりに言った。
「議題提案者の先生のお話も、ぜひ伺ってみたいですね」
ふんっ、と自席で信濃が鼻を鳴らし立ち上がった。露骨に悔しそうな表情を浮かべている。
「……確かに、あの生徒たちはよくやっていました」
渋々言わされた、といった感じが見え見えではあったが、これで言質は取れたわけである。
──よっしゃ!
見えないところで浅野はガッツポーズを決めた。
達成感よりは安心感に近いのだろうか。ともかく、浅野は悠香たちを理不尽な処分から救うことができたのだ。それも誰でもなく、彼女たち自身の努力の結果として。
──私は大した指導はできなかったけど、こうして生徒たちが成果を上げてくれると、私までこんなに嬉しくなるものなのね。
顧問をやって良かった、と初めて浅野は感じられた。その向こうで校長が、満足げな顔を皆へ向けた。
「では、該当する生徒への処遇については、『十分注意の上で不問』ということで構いませんな?」
全員が頷き、黒い頭が波のように揺れる。
ああ、と校長は付け加えた。「そういえば前回、ロボット研究会のメンバーの様子次第で生徒たちの扱いをも決める、という話になっていましたな。今回の結果を鑑みた場合、その答えも自ずから明らかだとは思いますが──」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
信濃と千曲が手を挙げた。
「確かにあの五人はきちんと結果を出しましたが、だからと言って他の生徒たちまで同じように信頼をおくというわけにはいかないじゃないですか!」
「そうですよ! 生徒が何か問題を起こすたびに、こうして貴重な教師会議の時間を潰さなければならないんですよ! この会議室を裁判所にでもなさるつもりですか⁉」
理科系の教師たちが、一斉に嫌な顔へと変じた。自分の研究にも一定の時間を要する彼らからすれば、喜ばしい話ではないのだろう。
しかし、高梁の顔が相も変わらず無表情に抑えられているのを見て、浅野は些かほっとした。妙な感覚かもしれないが、あの顔があの顔である限り、浅野には力強い後ろ楯があるような気がしてしまう。
「それはむしろ、逆なのではないですか」
楯の無事を確認した浅野は、さっと立ち上がった。信濃たちの挙げかけた手が、中途半端な位置で漂う。
「裁判所の喩えを挙げられましたが、その裁判所は『疑わしきは罰せず』の原則のもとに動いています。私の口から言えたことではないのかもしれませんが、子供に何かを教えるという行為は即効性を伴うものではありませんから、こちらも心に余裕を持って臨む必要があると思うんです。──つまり、ここを量刑を考える場とするよりも如何にして諭すかを考える場とする方が、結果的には良い未来をもたらすのではないでしょうか?」
言い終えた途端に、あちこちから拍手が上がった。目を丸くした浅野が着席するのと同時に、校長が口を開く。「私も、どちらかと言われれば同感ですな」
「…………!」
「勿論、信濃先生のおっしゃることも理解できます。生徒全てに自覚があり、堕落していないというはずはありませんからな。最もいけないのは決め付けであり、そこはこれからも臨機応変に考えていくこととしましょう」
校長の言葉が放たれたその瞬間、この山手女子という学校の採る道は概ね決まったも同然だった。
信濃と千曲は困ったように互いを見交わした。上手く纏められた、とでも思ったのだろう。やがてその視線は共に、浅野の顔へと振り向けられた。
「……あなたの生徒には
絞り出した信濃の声に、浅野は和やかに微笑んだ。およそ二ヶ月間にわたり緊迫した空気に包まれた定例教師会議の場が、ようやく穏やかな着地を見た。
そこに校長が、最後の一言をそっと置いた。
「──さ、終わりましょうか」
◆
「う────んっ」
視界の先の磨りガラスが、橙色に光っている。
思い切りよく伸びをした浅野は、ドアノブに手をかけた。総合教室棟の最上階、屋上に続く扉が、きいいと錆び付いた悲鳴を上げて開いた。
すぐにほんのりと柔らかな暖かさが、浅野の身体を包み込む。ふぅ、と息抜きをすると、浅野はそこに一歩を踏み出した。
一気に緊張が消え失せ、春の陽の照らす会議室には暫しの沈黙が訪れた。
しかし多くの教師たちはまだそこに残ったまま、物思いに耽っているようだった。
教師たちの憂患はまだ、終わりそうにはない。そもそもこの話し合いの発端は、入試倍率の大幅な低下だ。今回の件を通して、いや通さなくても、山手女子の人気が斜陽気味であるという事実が改めて突き付けられたのに何ら変わりはない。
完全に手放しで喜べるわけではない。そんな風にでも言いたげなその空気から、浅野は早いとこ逃げ出して来たのだ。今は少しくらい、解放感に浸ってもいいだろうと思って。
「眩しい……」
西陽に手を翳し、浅野は呟いた。
と。真横から声がした。
「ええ、眩しいですね」
「!」
浅野の肩が跳ね上がる。十メートルほど横に立って白衣のポケットに手を突っ込んでいるのは、高梁だ。
「せ、先生もこちらに……?」
伸びをしたのを見られたかもしれない。火照る頬を振って熱を冷ますと、浅野は尋ねた。ええ、と高梁は頷く。
「辛気臭い場所が私は嫌いなのでね。お開きになってすぐに、ここまで来ました」
「先生もやっぱり、そう思われますか」
「浅野先生こそ」
少し恥ずかしくて、浅野は照れ笑いを浮かべる。「五人を不問にできただけで、何だか気が抜けてしまったんです。あの子たちの存在を消さないで済んだということが、妙に誇らしくて」
高梁は目をぱちくりさせた。いけない。騒動の渦中にいたこの人の前で話すことじゃなかったか。少し後悔した浅野だったが、今更取り消したって聞かなかったことにはならないだろう。
二人はそのまま暫く黙って、屋上からの景色を眺めていた。地上高二十五メートルの視界には、天空に伸びゆく新宿や中野の摩天楼がいっぱいに広がって映っている。
「先生は、どうお考えですか」
不意に高梁が、そう尋ねてきた。
「世の週刊誌の言うように、我が校は本当に実力が落ちてきているのかどうか。事実、有名大学への現役合格者数は減少してきているわけですが」
質問の意図が分からない。浅野は些か答えに迷って、はてな混じりの声を捻り出した。「……落ちてきては、いるのでは?」
「私はそうは思わない」
ばさっと斬られた。浅野は渋柿を口に含んだような顔をする。
一方の高梁の顔は、相も変わらずPhotoshopで
「先日、ふと我が校の配布する資料を見ていたんです。で、我が校には自らを喧伝するという意欲が、およそ感じられないと思いました」
「それはその、アピールという意味ですか?」
「中傷記事を書くような記者が好んで述べていることですが、今と昔では事情が違います。子供を取り巻く環境は常に変化しているんです。しかしながら親にも教師にも、その自覚は著しく乏しい。名門校だからと胡座をかいている間に、他所の『進学校』は数値ばかりの実績の強調を繰り返し、やがて生徒を奪っていってしまいます。現に今、そうした事態に直面しています」
そこで言葉を切ると、高梁は浅野を見た。
「私は信濃先生等の意見には、ある観点からは賛同します。我が校──いえ、いわゆる名門校の全てがどれだけ努力を重ねたところで、世に蔓延する学歴偏重主義を塞き止めることは叶いません。なぜなら、今の日本社会が、そして日本人の価値観が、そういった
「…………」
「無論、数値を追い求めるなどという愚かなことはしないやり方でですがね。数値追求など、私たち物理課の授業にでも任せていればよろしい」
それは、物理を嫌悪する生徒たちへの自虐か?
まだ話の主旨が見えてこない。口を挟めずにいると、高梁はまた、どこか遠くへと目をやった。
「『自由な教育』というのが何なのか、その真価は何かを、世間の人々は我が校の生徒以上に知りません。知らないのかと生徒を突き放すのではなく、答えに至るための道筋を示すのも教師の仕事です。ならば、世間に対しても同様ではないですか。長い伝統の中で培った内面的教育のノウハウを仕舞い込むのではなく、これからはどんどん外へと発信してゆかなければ生き残れない。そういう時代だと思うんですよ」
「い、言われてみれば……」
「“
浅野は首を振る。フランス語か?
「『高貴さは義務を強制する』という意味の言葉です。転じて教育界では、高い教育を受けた者には得た知識や経験を他人に還元する義務がある、といったニュアンスで使われます。我が校では知識も経験も与えていますし、義務感など無くともそうした意欲のある生徒はたくさんいるはずです。そして教師自身も、伝えたい、教えたいという気持ちにあふれていると思う。しかし、自由を掲げる我々は放任主義だと誤解されがちですから、困っている生徒には手を差し伸べる用意があることをもっとアピールすべきなんです。そうすれば、我が校の教育が長期的に見れば生徒のためになるということにも気付いてくれる人は増えるでしょう」
そうか、と浅野は思った。高梁の言いたいことが今、少しだけ掴めたような気がする。
「今の子たちには、余裕がないということですか」
高梁は首を縦に動かした。
「学歴偏重なんたらに、親は教育者以上に引き摺られている。やれ学歴だ、やれ成績だと、目に見える結果を最も追い求めるのは誰でもない、保護者です。子供の将来を案ずる気持ちがあってこそなのかもしれないが、子供は敏感だ。そうした追い立てと特殊な学校教育の狭間で一番苦しんでいるのは、きっと生徒なんですよ。だから、どっち付かずになる……」
他所のご家庭の教育方針に口を出すのは、自分でもどうかとは思いますがね。
そう付け足すように独りごちた高梁は、相変わらず無表情のままだったが、なぜか少し楽しそうにも見えた。
「そうですよね」
浅野も真似して、横顔で笑ってみた。
「せっかく伝統ある『名門校』なんですし、頭が古い事を美点にすればいいだけですもんね」
「ええ。きっといつの時代にも、そうした真の『学び』を求める生徒はいるはずですから」
高梁はじろりと浅野を見た。
「ま、私としては、二度とこんな話で時間を潰す羽目になる事のないよう、祈るばかりですよ」
その一言を最後に、踵を返した高梁はさっさと屋上を出て行ってしまった。
ばたんとドアが閉まる音が、コンクリートの敷設された屋上に響き渡った。浅野はその時になってようやく、その背中を目で追いかけていた。既に磨りガラスの向こうに、白衣の姿が消えていった後だった。
「……どうして屋上に来たんだろう、あの
ぽつり、浅野はこぼした。黄昏れる趣味が高梁にあったとは思えないが……。
いや、有り得るか。
どっちにしろ、
──やっぱり、変わった人ね。
含み笑いを頬に溜めると、浅野はもう少しそこに留まろうとフェンスを握ったのだった。
夕陽が、眩しい。
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