051 押し寄せる不安





「……あれ、部屋……」


 霧に包まれたような意識の海の底から、悠香がやっと顔を出せたのは、辿り着いてから二時間もの時が経過した後だった。

「起きたか」

 傍らで本を読んでいた友弥が、目をこちらに向けた。

──そっか、ユウヤが私をここまで運んできてくれたんだ……。

 へくしゅ、と悠香はくしゃみを飛ばした。下半身が寒い。気付いた友弥が腕を延ばして、毛布をふわりとかけ直してくれた。

「さっき、近所のお医者さんに往診してもらったんだけどな」

「うん」

「ただの風邪らしいよ。何らかの病気による合併症であるとは思えない、流行性の感染症のタイミングでもない。考えられるとすれば、体調管理がよほど行き届いていなかったということくらいだろう──だってさ」

 悠香はほっとした。帰りの電車の中、得体の知れない病気だったらどうしようなんて真剣に考えたりしていたのだ。

「特に寝不足が窺えます、って言ってたぞ」

 そう告げると、友弥は悠香の顔を覗き込む。「俺、知ってんだぞ。ハルカが毎日のように深夜まで起きてるの。ちゃんと眠ってないんじゃないか?」

「あ、あれは……」

 ロボット作ってたんだからしょうがないじゃん、と悠香は言えなかった。ロボットを言い訳の材料にすることは、どうしてもできそうにない。

 言わなくても伝わったらしかった。友弥は悠香から目を外し、勉強机を顧みた。

「……そんな生活してていいと思ってんのかよ。自己管理くらい、ちゃんとしろよな」

「…………」

 悠香はぎゅっと唇を噛んだ。素直に、痛かった。




 こうしている間にも、時間は刻々と過ぎて行く。

 カチッ、カチッ。定時を刻む時計の秒針の音が、耳を透過して心を直接震わせる。

 目が覚めてからずっと、悠香は毛布を手に天井を見上げていた。普段なら決して注目などしないが、よく見ると天井はお世辞にも綺麗とは言えない。油の染みや傷が、白い面にぽつぽつと分布している。じっと見ていると、ノミのような何かが蠢いているような気さえしてしまう。

 特に意味もなく、悠香は自分とノミの存在を自虐的に重ね合わせた。周囲にはあんなに立派な昆虫クラスメートがいるのに、それを纏めるべき自分ノミはどれだけちっぽけなんだろう……なんて。


 今ごろもう、他の四人は作業を終え、帰途についているのだろうか。今日も疲れたねー、なんて笑い合いながら、同じ駅を目指して並んで歩いているのだろうか。

──寂しい、なぁ。

 悠香はそう思った。

 せめて、誰かに会いたい。陽子だけでいいから顔が見たい。でないとこのまま、自分独りだけがこのセカイに囚われたままになってしまうような気がした。

──確か、ヨーコの家って私の家から三百メートルも離れてないんだった。ちょっとだけでも、外に出られないかな……。

 悠香は声をかけてみる事にした。物は試し、だ。

「ユウヤ……。ちょっとだけ、出かけてもいい……?」

 ひどく掠れたボロボロの声に、友弥は素気無く返す。

「駄目」

 本から目さえ離そうとしない。むう、と頬を膨らませた悠香だったが、それもそうかと素直に引き下がった。


 時間は人を、不安にさせる。

 時を追うにつれて、悠香は段々と寂しさや恐ろしさが募って行くのを感じ取っていた。

──レイちゃんは、私たちを信じてって言ってくれたけど……。

 天井を見たくなくて、横向きになる。壁紙の破れ目から今にも何かが出てきそうで、悠香はまたも寝返りを打った。

──他のみんなは、同じことを思ってくれているのかな……。一度は答えを聞いたけど、人の心なんてカンタンに変わっちゃうし……。それとも、すぐにこんな風にナイーブになっちゃう私の方が、疑り深いだけなのかな……。

 心の中で問えば問うほど、答えが見えなくなった。代わりに浮かび上がるのは、チームのメンバーたちの見せた嫌な顔の数々だった。こんなことをしている間にも、もしかしたら仲間たちは悠香に後ろ指を差して笑っているのかもしれないのだ。或いは、見切りをつけてしまうかもしれないのだ。

 まさかね、そんなこと。そう言って軽やかに笑うポジティブな自分が、今日はどこに行ってしまったんだろう。

「私、嫌な性格だな……」

 小声で呟くと、友弥がぴくりとまた動いた。「嫌な性格?」

「ううん、何でもない」

 そう言って悠香は後ろを向いた。嫌悪感が、二倍増しになった。




 怖い。

 嫌い。

 怖い。

 嫌い。

 周りが怖い。

 自分が嫌い。

 自分が怖い。

 自分が嫌い……。




「ぐす……」

 鼻を啜る音に、友弥はふと気づいて顔を上げた。

 向こうを向いたままの悠香の身体が、小刻みに揺れている。

「……なに泣いてんだ」

 本をそこに置いた友弥は、悠香の顔の側にやって来た。顔を覆っていた毛布を除けると、やっぱり悠香は泣いていた。

「だって……」

 言いかけた途端またピークが来たらしく、嗚咽が激しくなる。しゃくり上げる悠香を前にしても、友弥には何が何やら分からない。どうして急に泣き出したのだろう。

「…………」

 友弥はただ、悠香をじっと見つめることに努めた。直接聞くなんて野暮な手は、なるべくなら取りたくない。何と言うか、それは恥ずかしい。

「……早く……」

 嗚咽の合間に、悠香は少しずつ言葉を漏らし始めた。

「早く……学校行きたい……。早く、一刻も早く、ロボット作りに戻りたい……。私がいなきゃ……私がいなきゃ、またみんなが散り散りになっちゃう……。もう、ばらばらは、イヤなのにっ……」




 何度も声を詰まらせながら悠香が必死に訴えたそれは、今まで友弥にすらも言ったことのなかった、自分の苦しみだった。




 悠香の懸命の努力と自分の助力の甲斐あって、何とかまた悠香はチームを再結成できたのだろうと、友弥は睨んでいた。二日前以来、また見せるようになった笑顔や、昨日の悠香の頼み込みを考えても、今は関係は落ち着いているものと判断できる。

 しかし。

──ハルカの心中ではまだ、あの仲違いは本当の決着を見ていないってことか……?

 友弥はそう受け止めた。

 一時的には再結成したって、再びバラける可能性が潰えるわけではないだろう。しかもリーダーである悠香が放っておけば、そのリスクはさらに高まるわけだ。

 だからこそ、悠香はこれほどまでに無性に不安に駆られ、こうして涙を流しているのかもしれない。いや、きっと、そうなのだ。


「……そんなに学校、行きたいか?」

 友弥は優しく尋ねた。うんうんと頷く悠香に、次なる一言。

「なら泣くな」

 ……悠香はびくっと身体の動きを止めた。

「泣くと熱が上がるぞ。それに、余計に悲しい思いを募らせるだけだ。寝込んでる時の涙なんて、百害あって一理なしだよ」

 知らなかった、とでも言うように悠香は顔を毛布に埋める。目の端が赤くなっているのを見ながら、友弥は付け加えた。

「本番で倒れないためにも、今はしっかり休むんだよ。んで、また登校できるようになったら……その時は友達みんなに、ありがとうって言ったらいいんだ」


 その言葉の裏に込めたメッセージに、悠香はどれほど気付いただろう。そんなことは、友弥には分からない。

 だが、悠香はすぐに目を閉じ、やがて穏やかに眠りに落ちていった。




◆ ◆ ◆




 悠香は単なる風邪。

 しかし、数日間の静養が必要である。その間は登校もしない。


 悠香自身からメールでもたらされたその情報に、そうだろうと分かっていたとは言え陽子たち四人は戸惑った。

 この大事な時期に、戦力が二割も減少するのだ。いや、換算の方法次第では二割どころでは済まされないかもしれない。

 夜中のうちに四人はメールを交わし、戦力減の対策を決めた。もはや、状況は逼迫している。手段を選んでいる場合ではないのである。


 そこで────、




「えっ、私?」

 翌朝、教室に入ってきたところを四人に待ち伏せされた聖名子は、名前を呼ばれて自分を指し示した。

「お願い! ハルカが回復するまでの間だけでいいの!」

 先頭に立ってぺこっと頭を下げる亜衣。悠香がダウンしたことすら知らない聖名子には、何のことだかさっぱりである。

「ちょ、ちょっと待ってよ。それってつまり、私がハルカの代わりにこのチームに加われっていうことなの?」

「ハルカが体調を崩しちゃってさ……」

「えっ……?」

 陽子の言ったことが、聖名子には一瞬理解できなかった。あの元気印が、病気知らずとしか思えなかった健康体が、体調を崩しただって?

──あの子、そんなに頑張ってたの……?

 どうにも想像に苦しむが、目の前の四人の眼差しは大真面目だ。きっと事実なのだろう。

「だ、だとしてもっ」

 聖名子は手を振る。冗談じゃない、そんなことをしたら仲間の部員たちに何を言われることか。

「部外者ならともかく、私は敵チームのメンバーだよ? 自分のチームに意図的にスパイを引き入れるのと同じだよ? それでもいいの?」

「いいよ。内通してくれたって構わない」

 またも陽子の言葉に、聖名子は唖然とする。

「それを覚悟で打診してるんじゃない。あたしたちだって過去に物理部フィジックスのロボットを見させてもらっているし、これでおあいこになるでしょ?」

「そ……そりゃあ、そうだけど」

「そうでなくても完成したロボットの調整しなくちゃいけないのに、新しく一台作る必要が生じちゃって、その上ハルカまで休んじゃって……。ミナの助力がないと、あたしたちは参加できなくなるかもしれないんだ」

「……参加、できなくなる……」

「お願いっ!」

 四人は一斉に頭を下げる。土下座も辞さない構えである。


 敵対勢力である物理部員としては、手伝わない方が賢明な判断だろう。そのくらい、聖名子にも分かる。

──だけど、ねえ……。

 聖名子は自分の物理部での処遇を思い浮かべた。熱意を燃やす渚と違い、地味な自分には結局地味な仕事しか回ってこない。そして本番に至るまできっと、熱意で渚を上回れることはないだろう。

──頼られる気分っていうのも、悪くないよね。どうせ物理部に戻っても雑用係だし、それならこっちで製作に携わっていた方が楽しいかもしれない。

 かくして聖名子は渋々の体を装って、悠香の埋め合わせの役を請け負ったのである。うんと頷くと、四人はほっとしたように顔を見合わせた。心底嬉しそうだ。

 悪い気は、しなかった。




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