040 後悔と涙と
一方、杉並の玉川家では。
「ただいまっ」
玄関から響いてきた絶叫に、台所に立っていた母はぴくりと反応した。
「お帰りなさ──」
言いかけた母の目の前のリビングを、大きな荷物を抱えた悠香がダッシュで通過した。二階へと走って向かったみたいだ。
「…………?」
訳の分からないまま、母は階上を見上げた。昨日もそうだったが、あんなに急いでいる悠香なんて、久し振りに見たような気がする。大抵いつもリビングでだらだらしては、お菓子を要求したりテレビを観ていたのに。
もっとも悠香に異常が見られるようになったのは、ここ数日来の出来事ではない。父ともども、勉強もしないで何をしているんだろうと母は疑いの目を向けていたつもりだったのだが、悠香に気付く気配は今のところ一切ない。
「あの子、どうしたのかしら」
思わず呟くと、食卓でノートを見返していた友弥が口を開いた。「趣味でもできたんじゃないの」
「なのかしらね……。ちょっとユウヤ、探りとか入れられないの?」
「嫌だよ、なんで俺がそんなことをしなきゃいけないんだ」
「でもほら、ユウヤだったらあの子もそこまで抵抗ないし……」
「そんなに言うなら母さんがやればいいじゃん」
めんどうくさい仕事を引き受けたくなかった友弥は、母の希望をあっさり切り捨てた。ついでに言うと、既に自分は知っているからという理由もある。
しぶしぶといった顔で料理に戻った母を横目に、物理のノートを復習しながら友弥はため息をついた。
──ったく、ハルカもハルカだよ。
今日から数えること、三日前のことだ。それまで夕食前ぎりぎりくらいの帰宅が当たり前のようになっていた悠香が、早い時間になって帰ってきたのは。
それだけでも十分に変に思えたが、何より変貌していたのはその目だった。どんよりと曇ったその瞳は、まるで何もかも一切を受け付けない意思の現れかのように、風景の全てを反射していたのだ。しかもそのことに気付いていたのは、四人家族の僅かに友弥一人だけだった。
この世の終わりを迎えたような顔のまま、何に対しても興味を示さず無反応だった、あの日の悠香。翻って昨日は今日と同じように威勢よく、しかしどこか一心不乱そうな様子さえ窺えた。近頃、悠香の心の中が友弥にはちっとも読み取れない。そしてそれは恐らく友弥以上に、母も父もそうなのだろう。
ただ。
──あれでも、毎日毎日同じ顔してだらけてた頃に比べれば、よっぽど生き生きして見えるんだけどな。
内心そっと言い添えると、友弥はすっぱり思考を断ち切って単語帳を開いた。
「えっと、これは……右から二番目の
狭い部屋の天井に、独り言と細かな音が微かに響いている。
自室に籠った悠香は早速紙袋を開封し、続きになっていた作業を再開しているところだった。下へ降りたのはついさっき、夕食を食べた時だけだ。
「うー、図が細かすぎてよく分からないや……」
ぼやきながらも手は動かす。いま取り組んでいるこの配線は、コンピューター部分の核となる肝要な部分だった。電子工作の経験がまるでない悠香にはなかなかのハードさだったが、麗の残してくれた配線図を見ながら何とか頑張っている。
抵抗器やらダイオードやらコンデンサーやら、微細な部品をじっと見ていると目がちらちらする。やっとまた一本をねじ込むと、悠香は深呼吸しながら後ろの背もたれに寄りかかった。勉強机の上が、カタカタ揺れた。
「疲れた……」
見よう見まねで目元をマッサージしてみたが、適当だから効き目があるはずもない。目の周りに漂う違和感が、何とも言えず気持ちが悪い。
と言うか、さっきから基板を見ていて、拭い去れない違和感を感じているのだが……。
「──そうだ、ハンダ付けをしてないんだ」
作業開始から既に二時間半、悠香は今ごろになってようやっと気がついた。そうだ、ハンダ付けだ。ハンダと呼ばれる導電性の合金で、基板に嵌め込んだ部品やコードを溶接しなければいけないのだ。すっかり忘れていた。
──でも、あれって確か、専門の道具が要るんだよね。そんなもの私、持ってないし……。
準備悪いなぁ、と悠香は呟いた。こうなったら仕方ない。電子工作の方は一旦置いておいて、先に組み立て作業を済ませてしまおう。今朝の作業で積み残した分だ。
「こんな面倒な作業を続けてられるなんて、やっぱりレイちゃん、すごかったんだな……」
ぽつり、言葉が零れた。
麗はすごい。図をいちいち確認することもなく、すいすいと部品を差し込んでは溶接していく。
あの手際はきっと、どれだけ悠香が研鑽を積んでも追い付くことはできないのだろう。やる側になって初めて、悠香はそう感じた。
いや、麗に限った話ではない。陽子だって組み立て作業のスムーズさでは悠香の上を行くし、亜衣のように綺麗に部品と部品を接着することも悠香には叶わない。菜摘のプログラミングに関しては、もはや触れるまでもない。
──みんな、それぞれにすごかったんだ。北上さんの言う通りに。私がちょっとやそっとで至ることのできないくらいのレベルに。
ぎしぎしと椅子を揺らして天井を眺めながら、悠香は思った。
何もかも、自分自身が携わって初めて理解の及ぶ範囲だった。今更分かったって遅いでしょと、あの日の四人の顔が記憶の彼方で冷笑している。
──そんな中にあって私は、努力もしないままにリーダーを気取ってたんだ……。
つう。
また伝った涙を、悠香はぐしゃっと腕で拭った。
拭ったそばからまた、新たな一滴が流れ落ちた。
北上に励まされてようやく気力を取り戻し、ここまで頑張ってきた。しかし時間を追えば追うごとに、悠香は自分の無力さと仲間の偉大さを思い知らされていた。
ロボットなんて一人でも作れると北上は弁を垂れたが、それはきっと麗のような人だけだと悠香は思う。現に今、あらゆる場所から困難が生じ、心理的ダメージを伴ってロボット製作の行く手を阻んでいる。結局のところあれは、理想論でしかなかったのだろう。
それでも、と思う。悠香は励まされたあの日、確かに北上と約束したのだ。
──北上さんの言う通りなら、私はきっとまたみんなを取り戻せるんだよね……。だったらそれを信じて、がむしゃらに頑張るしかないんだ。私には、それしか道はないんだ……。
昨日と言い今朝と言い、気持ちが凹むたびにそう繰り返してきた呪文のような文句が、今度も頭の中で明滅した。またみんなで笑い合いながら夢を目指せるかどうかは、全て自分の小さな肩にかかっている。鼻を啜り上げた悠香は、起き上がって他の部品を並べた。図面を端に追いやり、工具を握る。
その時、視界がぐらっと揺れた。
「あれ……」
おかしいな、設計図が七枚くらいにダブって見える。再び目を擦った悠香だが、それは余計に激しくなる。
それよりも、脳の奥の方がぼやけてしまって、風景が、よく見えない。
「あ、やば…………」
悠香は、吐息にも、親い、声で、言っ、た。
「ね……む…………」
カチャリ、と落下音が聞こえた。
◆
それから、どのくらいが経っただろう。
「おーいハルカ、聞いてんのかー?」
声を上げながら、友弥が二階へ上がってきた。さっきから何度も『風呂に入るか入らないか』と問いかけているのに、全く返事がなかったのだ。
入らないなら入らないで、風呂の換気だとか色々としなければならない。いずれにしてもはっきりしろよな、と友弥はドアを睨んだ。さては、音楽で耳を塞いででもいるのだろうか。
「開けるぞ、ハルカ」
それでも返事がなかったので、あっさりドアを開く。
煌々と灯った照明に照らされて、勉強机でぐっすりと眠りこけている悠香の姿が目に入った。
友弥は途端に嫌な顔をする。
──またかよ、このパターン……。
何をしているのかと思えば、こういうことか。友弥はやれやれと嘆息しながら、椅子を引いた。こんな所で寝ていたら風邪を引いてしまうだろうに。とは言え布団を適当に掛けておくだけというのはさすがに雑だと思い、仕方なくお姫様抱っこ風に悠香を持ち上げる。軽っ、と思わず本音を口にしながら、その華奢な身体をベッドの上に置き、布団をふわりと載せてやった。
「ぁう……」
何事か言いながら、悠香は布団の中で猫のようにくるりと身体を丸めて小さくなる。友弥は少し痛くなった腕をぐるぐると回すと、悠香がさっきまで座っていた机を眺めた。
ばらばらと散らばる不思議な形象の部品たち、そして折れ曲がり汚れている図面。ははぁ、ロボットというのはこれを作っていたんだな。すぐに悟った友弥は、それらをじっと見て回った。
それにしてもこれは、本当に中学三年生が作ったものなのだろうか。
そう感じてしまうくらい、図面はよくできていた。最初に悠香に話を聞いて以来、気になって開催要項を自分でも見ていた友弥には、それが『積み木』を掴むための機構であることは一目で分かった。
悠香はよほど熱心に取り組んでいたに違いない、と思った。眠いなら寝ればいいのに、とは思わなかった。夢中に何かをしていると、眠気というのは自覚がなくなるものだから。
──楽しそうだな、
ふふっと含み笑いを漏らすと、友弥はぱちんと部屋の照明を消した。まだ点いている電気スタンドも消してしまおうと、手を伸ばした。
手前に置かれている筆箱の中から覗いている一枚の紙が、不意に目に入った。
『陽子と亜衣ちゃんと菜摘と麗ちゃんと、楽しかったあの五人でまた、ロボット製作を頑張れますように。』
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