039 気付けなかった思い
その日の放課後の芸術教室には、まったりとした空気が漂っていた。
美術や書道の授業で使用される芸術教室は、キャンバスなどを設置するためにそれなりの広さが確保されている。物理部は毎年五月近くになるとここを借り、ロボットの最終調整をしているのだ。
その調整も、もう大詰め。あとは本番に向けて、実戦的に使用しながらロボットを少しずつ改良していく。
「ここに今いるのが、ロボット班。物理部の中でも一番規模の大きなプロジェクトチームよ」
つい一週間前に入ってきたばかりの新入生たちに向かって喋りながら、長良は芸術教室のドアを開いた。
途端、もわっとした怠けムードが溢れ出してくる。
「うわぁ……」
新入生たちは口々に嘆息した。それは目の前の大型のロボットについてのものか、それとも目の前のだらけた部員たちについてのものなのか。後者だったらひどいイメージダウンになってしまう。
長良は呆れ顔でみんなをたしなめた。
「ほら、新入生が見に来てるんだからシャキッとしなさいよシャキッと」
その長良に、渚が報告する。「長良さん、駆動モーターの振り子部分の調整しときましたー。これなら『積み木』を持ってる状態でも横転はしないと思いますよー」
「あ、前に言ってた奴ね。ありがとう」
「それとミナが、サーモグラフィーとコンピューターを繋ぐ回線が劣化で切れそうって言ってたんですけど」
「有り得ない話じゃないな。このロボット、冬前から組み始めていたもの。交換が必要そうだったら言って。予算の空きとか見なきゃいけないから」
「うぃーす」
……頭上で交わされる未知の会話に、新入生たちはただただ圧倒されている。
私も小さかった頃、あんなだったな。不意に懐かしい気持ちになって、長良は微笑んだ。色々なことを知りすぎた今では、あの幼くて広大だったセカイを思い出すのはすっかり難しくなってしまった。純粋だったあの頃に憧れる気持ちも、ないではない。
「みんなは理科系の部活を希望しているんだよね。ここ物理部に入れば、毎日こんな風に研究開発に携われます。お薦めよ♪」
わざとらしく語尾を吊り上げると、新入生の感嘆に混じって背後から含み笑いが聞こえてきた。十中八九、部員であろう。いま笑ったの覚えてなさいよ、後でとっちめてやる。恥ずかしさに顔を赤くしながら、長良がそう心に決めた時だった。
芸術教室の入口に、高梁が入ってきた。
「あ、先生」
素っ頓狂な声を上げる渚を見た高梁は、次に長良へと目を移す。
「新入部員の勧誘中か。これは悪かった」
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
むしろちょうどいい機会だ。長良はもう一度新入生たちに向き直ると、高梁を指し示す。
「この人が物理部の顧問をしてくださっている、物理課の高梁先生です」
「どうも」
にこりとも笑わないで高梁は会釈する。萎縮するのではないかと長良はヒヤヒヤしたが、新入生たちはかえってざわついた。なんかイケメンじゃない? ──とかいう声まで聞こえてくる。そんな目で見たことのなかった長良は思わず仰ぎ見てしまい、高梁に変な目で眺め返された。
「どうだ、ロボットの調子は」
高梁の低い声に、隣の渚が元気よく返事する。「いやもう、絶好調ですよ! 動作試験も問題なくクリアしてますしー」
「そうか、それは頼もしい」
棒のように突っ立ったまま、表情を微塵も変えずに高梁はそう答える。
──この人の淡白さも相変わらずね……。本気でそう思ってるなら顔に出しなさいよ、本当。
今に始まった事ではないが、長良はやれやれと肩を竦める。こんな事だから多くの生徒に『怖い』と誤解が生じるのだ。もっとも本人に、それを気にしている様子は見られないけれど。
が、高梁の心情は、長良が思っていたのとやや違ったらしかった。
「いやもう、ロボコンとか余裕じゃないですか? あたしたちのロボットが一番の出来ですよ! 誰が何と言おうと!」
ケタケタ笑う渚を真上から見下ろした高梁は、低い声で言った。
「……
「はい?」
「そんな心意気では足元を掬われる。常に相手の下にいる気持ちでなければ、勝負には勝てない」
渚は驚いたように顔を上げていた。いや、それは長良も同じか。
「で、でも去年のロボットよりもずっと、今年の方が性能はいいと」
「性能の良し悪しで勝てると思ったら大間違いだ。あのロボコンは、特にな」
「…………」
黙ってしまった渚と長良、それに怖々とやり取りを見守っている新入生たち。
全てを見回した高梁は、
「今年の君たちならやれるはずだ。だが最後の最後まで気は抜いてはならない。長良、君はそれを一番よく知っているはずだろう」
そう言って、立ち去って行ったのだった。
「あの先生、あんなキャラだったっけ……?」
渚が、ぽつりと言った。
渚の物言いに慢心が見てとれるのは、さすがに長良でも分かる。けれど高梁が気づいているというのはささやかな驚きだった。そもそも渚の言う通り、あれはあまりとやかく説教を噛ますような人間ではなかったはず。
──ただ。
長良は目の前の
◆ ◆ ◆
がちゃり、軽い音を立ててドアが開く。
「お帰りなさい、レイ」
中から覗く母の顔に、麗は小さく頷いた。
「……ただいま」
「外はまだ暖かいわね」
外の香りを嗅ぐように、母は息を潜める。この辺りの空気が、麗も好きだった。都会らしいゴミゴミさのない、静かな場所だから。
「さ、入りましょう」
母は手招きする。こくんともう一度頷くと、麗は中に足を踏み入れた。
麗の住むこの街は、茨城県つくば市。関東最大の研究機関集積地区『つくば研究学園都市』を有する都市だ。中心部にあたるつくば駅前では様々な研究所が成果を自慢しあい、まるでSF世界のような近未来都市の風景に変貌している。
つくばエクスプレスに飛び乗れば、東京の秋葉原までは一直線だ。交通結節点である秋葉原からなら、東京のどこへでも──果ては海外までも遠くはない。その地理的な利点に注目し、多くの研究機関がここに籍を置いている。
件のロボコンの主催者である宇宙航空研究開発機構のつくば宇宙センターも、名前の示す通りここに立地している。麗の家族がここにいるのだって、NASA勤めの父が頻繁にこの街の研究施設に出入りしているからだ。
もっとも、今は本部の研究所に呼び戻され、
「今日もまた、早かったのね」
ここ数日、母は毎日のようにそう言う。
「うん」
「前はよく、遅く帰ってきていたのに。何か事情でも変わったの?」
そうでなくても、滅多に出掛けなかったあなたが遅くまで帰らなかっただけで妙だったのに。ここまでが、いつも通りのデイリー会話だ。勘繰られていると麗は思ったことはないが、あまりいい気持ちはしなかった。
「あ、そうそう」
黙ってしまった麗に、母は言う。
「お父さんがね、さっきテレビ電話をくれたのよ。余裕が出てきたし朗報もあるから、久しぶりにレイと話したいってね。そろそろかけ直してくる頃なのだけど」
「お父さんが?」
唐突だな、と麗は思った。
言われてみれば確かに、父と話すのは久しぶりだ。最後に見た顔は年賀の挨拶の写真だったから、懐かしい思いもある。でも、何かきっかけでもないと、ろくに連絡も寄越さない父であったのに。
「ほら、かかってきた」
母の言葉にパソコンを覗き込み、ボタンをいくつかクリックする。ヴィン、とディスプレイに映像が点った。
グレーの髪の毛に水色の瞳、彫りの深い顔。父、ハドソンだ。
──「やあ、レイ」
「こんばんは、お父さん」
二人は英語で会話を交わす。父も日本語には不自由していないのだが、そうするのがこの相模家のルールだった。
──「こうして会話するのも久しぶりだが、元気か」
「別に、何とも。お父さんは?」
──「私は上々さ。実は最近、手掛けているプロジェクトが軌道に乗り始めてからずっと、興奮冷めやらぬ夜が続いているんだ」
それが理由か。麗は確信に近い答えを得た。
確か、米国と日本が新たに共同で打ち上げる無人宇宙船の計画に参加していると聞いたことがある。麗は小さく息を吐いた。だから電話をかける気になったのだろう。
「それなら、良かった」
──「ありがとう、レイ。……それはそうと」
「?」
──「近頃、下校がずいぶん遅いと聞いた。クラブ活動にでも精を出しているのか」
なんで、知っている?
おおかた母経由の情報だろう。麗はちょっとだけ母を振り返る。母はそっぽを向いたまま、洗濯物を畳んでいる。
「うん、まぁ」
──「なんだ、煮え切らない返事だな」
「……部活というわけじゃ、ないから」
──「そうなのか?」
父の声が、一瞬だけ曇ったように聞こえた。いや、きっと気のせいだ。画面の中の映像は、笑っている。
──「……まぁいずれにせよ、何かを始めたんだな。それはすごくいいことだ。内容は知らないが、頑張り通すといい」
それ以上、麗は顔を上げていたくなかった。
でなければ、ついた大嘘が簡単にバレてしまいそうに思えた。
違うの、本当はもう私、参加してないの。あのチームはもう、解体してしまったの。……心の奥だけでしか、そんな本音は叫べない。
だから代わりに、麗は尋ねた。
「……お父さんも私くらいの頃、何かにうんと熱中したことがあった?」
自分が問い掛けられているのに気付けなかったらしく、父は目をぱちぱちとしばたいた。
その目が、ふっと遠くなり、優しくなった。
──「熱中? ああ、あったさ。私の場合はオモチャの自作だった」
「オモチャ……」
──「オモチャだよ。電気式で動くような機械仕掛けのオモチャを自力で作っては、周りに自慢して回っていた。楽しかったなぁ」
「それをして、何か大人になってから役に立った?」
次から次へと疑問が沸き上がる。
──「立ったさ。何せ私は技術者だからね、おかげで工作機械は初心者の頃から扱えたんだ。周りに比べればずいぶんなアドバンテージだったさ」
「そっか……」
──「あの頃はまだ、あの
「……そういうものなのかな」
──「ああ、そんなものだよ。あくまでも趣味なんだから、レイもレイの楽しいと思えることをすればいい。大体、楽しいと思わなければ始めもしないだろう?」
「…………」
画面を前に、麗は固まった。
父のたった一言で、それまで頭の中から消え去っていた記憶が、瞬時に脳裏に蘇った。
それは、二ヶ月近くも前に悠香に話を持ちかけられ、参加すると応じたあの時まで遡った。
分からない。
どうしてあの時、参加するなんて言ったんだろうか。
普段ならあんなに集団行動に消極的だった
麗には分からなかった。
──「……どうしたんだ、レイ?」
「見てほしいものがあるの」
麗は立ち上がり、戸惑う父を他所に二階の自室へと向かった。目的物は机の上に放置されたままの、設計図だ。
すぐに一階へ取って返すと、カメラの前にそれを掲げる。
──「……これは?」
「設計図。ロボットの」
へえ、と父は小声で呟いた。
──「レイの『部活』は、これを作っているのか」
「よく、見てほしいの。必要な電力の大きさと、駆動性能を維持するために下回らなければいけない重さが書いてあるでしょう?」
──「ああ、これだね。なるほど……強力な電力が要る分、どうしても電池は大きくなる。だからそれを逆手に取って、大型の電池を後部の重石として使用するというアイデアか。なかなか巧緻なやり方じゃないか。しかし、これでは……」
語尾の様子で、麗にはすぐに分かった。父はさすがだ。ちゃんと、見抜いている。
「お父さんなら気づくと思ったの。一次電池は話にならないし、市販の二次電池でもコストを考慮に入れてしまうと、その起電力でその重さを達成できるモノなんて見当たらない。だから私たち行き詰まって、どうしようもなくなってしまって……。鉛蓄電池でも手に入ればいいんだけど……」
その時、生まれて初めて麗は誰かに相談をした。
はっきりとそう思った。する気でしたのは初めて、という話だが。
無論、ロボットの相談ではない。麗が言葉の裏に込めたのは、それが本意ではない。
ふうむ、と父は髭を弄りながら画面の向こうで唸っていた。
が、手を叩いた。
──「……なんとかなるな」
「なる?」
画面の向こうの父は、ニヤリと笑う。顔に刻まれた皺には、その奥に確かな自信がある事の裏付けのようだった。
──「複合昇圧電池というのを聞いたことがあるだろう」
ぴくり、その名前に麗は反応する。知っている。
「……確か、従来型の化学電池の技術じゃなくて新式の量子技術を用いているとかいう……」
──「ほう、よく知ってるじゃないか。さすが我が娘だ。あれは大きさに対する電気容量の大きさ、起電力、充電速度の速さなど、あらゆる点において従来の化学電池や物理電池を上回っている。何より充電可能な二次電池だから、実験を複数回行う分には乾電池なんかよりよほど効率がいい」
それなら大丈夫なのだけど、と麗は思った。
『量子電池』という電池がある。これは、日本のベンチャー企業によって二年前に発表がなされた、近未来電池技術の一つだ。特殊な半導体への紫外線の照射で、そのバンドギャップ内に電子を捕まえる『電子捕獲用準位』を形成し、そこへ電子を入れたり出したりすることで充放電を行う電池で、従来の電池の技術を超える革命的なものであった。多くの優位性を有していたこの電池を改良し、最大の問題であった出力電圧の低さを極めて高い値にまで改善させたのが、父の指摘した『複合昇圧電池』なのだ。人類史上最強の電池、とまで言われたこの電池は、現在ではウェアラブル端末などに使用され、その性能は名実ともに保証されている。
だが、そこには麗の挙げた電池以上に、大きすぎる壁がある。なにぶん技術確立がなされたばかりで生産ラインも出来ておらず、この電池はべらぼうに高いのだ。リチウムポリマー電池など、まるで比較にならないくらいに。
「そんなお金、私たちには……」
──「なに、私の方で購入してやるさ」
父の声で、壁は一瞬にして消し飛んだ。
麗は慌てる。「……そんな、悪いよ」
もうチームも、ロボットもないのに。勢いで出かかった言葉をぐっと飲み込んで耐えると、代わりに吐き気が上ってきそうだった。
──「何を言ってる。お金をかけて解決する問題なら、かけるに限るさ。お金や知識というのは使うべき時に使うんだ」
「…………」
──「その様子だと、コンテストか何かにでも出すのだろう。その時になって故障、なんて心配は、複合昇圧電池ならばほぼ不要だしな」
「え、で、でも……」
──「注文はこちらでしておこう。二日後には
麗が何も言えないでいる間にも、話はどんどん進んでいく。
申し訳なくて、情けなくて、麗は終始ずっと俯いていた。まだ、買ったわけじゃない。今ならキャンセルできる。理性が声を枯らしてそう叫んでも、麗の耳には届かない。
珍しく苦悩の表情を浮かべる愛娘を前にして、父はいったい何を思ったのだろう。
──「こんな理由で挫折するなんて、勿体ない」
父は言った。
──「やるなら精一杯、とことん頑張りなさい。レイと仲間の間に何があったのかは知らないが、その私からのプレゼントがあれば再開は可能になるはずだよ。……勿論、レイを含めた仲間みんなにやる気があればの話だがね」
ぎくりと震えた麗の肩越しに、父は母にも呼び掛ける。
──「近いうちに、日本へ帰ることになるだろう。その時まで、よろしく頼む」
「分かっています」
くす、と母は微笑んだ。手を振った父の姿が、ぱっとディスプレイから消えた。
麗はまだ、パソコンの前に棒のように立ったままだった。
「本当なの?」
母に訊かれても、何も返事をしなかった。
父の消えていったディスプレイが、真っ黒に輝いている。
父が与えてくれたのは、何だったのだろう。
電池? 必要物? それ以上の何か?
「……もう少し、考えてみる」
それだけ言うと麗は立ち上がり、二階へ向かう階段を一段一段ゆっくりと、踏みしめていった。
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