038 新たな日々へ
翌日から、悠香の日常は再び一変した。
ここまでがらりと変わったことは、きっとかつて一度もない。
早朝に起きて、いつもなら乗れるはずもない早い時間の電車に飛び乗ってから、何十分かが経った。
「はぁ、はぁ……やっと着いた……」
悠香はやっとの思いで学校に着いた。急ぐ気になって急いでみると、荻窪からここまでの距離は意外と遠い。特に地下鉄大江戸線への乗り換えなんか、高低差数十メートルに及ぶ地獄の上り下りだ。友弥はいいなぁ、ほぼ地上の乗り換えで行けちゃうし。すでに中学生活も三年目にして、今さらそんなことを思う。
着いたら終わりではない。早く来た目的は、ちゃんとあるのだから。
「えっと……あったあった」
ロッカーに向かった悠香、自分の箱に詰められた二つの紙袋を引っ張り出す。そこにはそれぞれ、未完成のリフトアップロボットと輸送ロボットが入っている。ついでに使う部品も、入手済みであれば入っている。
今日手をつけるのは、輸送ロボットだ。
「あとは……設計図か」
全ての部品と工具類を引きずり出してしまうと、悠香はきょろきょろと教室を見渡した。始業一時間半前の教室内には、さすがに誰も来ていない。
設計図の保管は亜衣がしていたはずだ。ちょっと調べさせてもらうね、と断りを入れた悠香は、亜衣の机の中をごそごそと漁った。
あった。他のプリントに紛れて、少し折れ曲がってしまっている。その扱いの悪さと、思ったよりも整頓の行き届いていないその有り様に、悠香は苦笑いしつつもやっぱり申し訳なさを感じるのだった。
が、そんなことに構ってばかりもいられない。
「ここだったら、大丈夫だよね」
荷物一式を抱えた悠香は、学生食堂へと向かった。十一時開店の食堂には、この時間は入ることはできても何もないから、めったに人がいない。邪魔されない環境がほしかった。
「よいしょ、と……」
設計図を見ながら、悠香はばらばらと部品を取り出す。どこに何を使い、どの順で接着や溶接をすればいいのか、設計図にはきちんと書かれていた。
こんな近い距離で設計図を見るのは、思えば初めてだ。これまでいつも悠香は、少し離れた場所から何となく眺めたことしかなかった。すぐそばまで目を近づけて眺めた線と図形の塊が、今は明確な未来への道標だとはっきりと認識できた。
全ては、再びここから。未来は変えられるはずなのだ。
「…………あ」
ふと思い付いた悠香は、カバンから適当に引き抜いた紙を小さく折り畳み、ペンケースに入れられるサイズにした。
そしてサインペンを握り、キュキュッと紙の表面を走らせる。
十数文字の文章が、そこに書かれた。よし、と呟いた悠香は、見えるようにそれを布製のペンケースの上に置いておく。
──これで、大丈夫。
ふっ、と息を抜くと、悠香は部品を手に取ったのだった。
輸送ロボットは、発見し捕捉した『積み木』を速やかに掴み、落とさないように運び続けなければならない。
そのために亜衣と菜摘が考案したのが、両側から押さえ込む作戦だった。太いネジの部品を高速回転させることで、取り付けられたアーム部、そしてその先に付いているハンド部を横移動させ、間隔調整をする。ハンドにはマイクロスイッチが取り付けられ、『積み木』に一定の力がかかったのを感知し回転停止を命令する。するとアームは適切な位置で静止したまま、ネジの抵抗の力を借りて目的地まで緩むことなく『積み木』を掴み続けられるのだ。
組み立てそのものは、そこまで大変ではない。しかし問題は、全ての命令系統を司る
大変な、けれど欠かすことのできない作業に、悠香はたった独りで手をつけた。窓の外から差し込む光が、机の上を真っ白に照らし出していた。
◆
始業式翌日から数えてちょうど七日目の昨日で、新学期の授業は全て一通り受講したことになる。
一周回った後の最初の二時間は、倫理に続いて
今年もまた悠香たちのクラス──中学三年α組を持つことになった浅野も、初回の時間に話すべきことや決め事は粗方済ませてしまっていたので、特にすることがない。
「えっと、それでは前回決まらず仕舞いだった今学期の級長は、
黒板に書かれた名前をこつこつとチョークでつつくと、はいと賛成する声が疎らに上がった。次いで、如何にもやる気の感じられない拍手が教室に充ち満ちる。
「じゃあ集会は終わりね。日が長くなってるけど、部活動もほどほどにして早めに帰りなさいね」
そう言い置いて立ち上がろうとした浅野は、ふと忘れかけていた用事を思い出した。みんなが騒ぎ出す前に、慌てて付け加える。
「玉川さん、ちょっと後で来てくれない?」
……奥の方の座席で、見慣れた黒色の髪の毛がばさっと跳ね上がったのが見えた。
寝ていたらしい。クスクスと周りで渦巻く笑い声に、当の悠香は目をぱちくりさせている。
「……後で」
もう一度言うと、悠香は大きく頷いた。寝癖なのかアホ毛なのか分からないが、髪がぴょんと自己主張している。
「呼び出した理由は、分かるわよね?」
ふらふらと歩いてきた悠香に、浅野は尋ねた。
悠香はぐらりと頷く。危なっかしい。
「昨日、呼び出されてたって聞きました」
「それよ。なんで来なかったの? 他の子たちはみんな揃って顔を出したのに」
悠香の顔に、驚きの色が差した。「みんな来たんですか?」
「そうよ、全員ね。玉川さんはどうしたのって聞いても、みんな目を逸らしてたし……」
浅野はまだ、悠香たちが決裂状態にあることを知らない。眉を寄せながら尋ねれば、悠香は悠香で変な顔をする。全てを知っていて、それでいて何も知らないような、そんな顔だ。
「昨日はその、ちょっと体調悪くって」
「……そう?」
「そうです。はい」
どうも語尾が怪しい。何か隠しているな、と浅野はすぐに感づいた。
が、追及しても徒労に終わるだろうなとため息混じりに思った。このくらいの年代の子供というのは、親世代の浅野たちからは感覚的には最も遠いのだ。
「……まぁいいわ。伝えるべき用件があっただけなの」
そう言うと浅野は、机に頬杖をついた。
「先週の土曜日の物理実験室での爆発事故の件は、とりあえず処分保留──って定例教師会議で決まったわ。ただし、すべきだって意見も多いから。これから当分しばらくは、品行方正を心掛けなさい」
悠香は初め何を言っているのか分からないような表情だったが、すぐにそれは安堵に崩れていく。
「よかったぁ……。私、あんなので退学なんてなりたくないです。しかもこんな時に」
「処分になってもさすがに停学程度よ」
思わず浅野も笑ってしまう。
笑いながら、悠香の顔を窺った。この話をした時、昨日の四人は何とも言えぬ微妙な反応を示しただけだったが、悠香は心から喜んでいる様子だ。単なる表現力の差異以上の何かを、そこには感じなくもない。嫌な予感が頭を過ったが、浅野はさっさとそれを掃き捨てた。
「行っていいわよ」
悠香はこくんと頷くと、後ろを向いてたたっと走って行っ──
ドンガシャーンッ!
机に蹴つまずいていた。
周りの友人たちに声をかけられながら、恥ずかしそうに立ち上がる悠香。
その姿を見ながら、浅野はもう一つの違和感を心の中でもてあそんでいた。
──そんなに眠いのかしら、あの子。他の寝てる子と違って六限の始まる前からあんな調子だったし、夜更かしでもしてるのかな。悪い生活習慣になっているなら、声をかけた方がいいのだろうけれど。
首を捻った浅野は、ふと目の前の席から誰かが自分のことを見つめているのに気がついた。
「どうしたの、相模さん」
麗は、浅野の問いかけにはっとしたように身体を動かした。そして、小声で言った。
「……いえ。何でも、ないです」
「そう?」
答えが返ってこなかったので、浅野は社会課の研究室に戻るべく再びプリント類をまとめ始めた。
麗はまだそこにじっとして座ったまま、友達と笑い合う悠香の姿を眺めていた。
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