030 宿敵との邂逅






「……おかしいな……」


 シャーペンを机の上に放り出すと、亜衣は計算用紙を睨み付けた。

 再計算を始めてから、もう一時間。だが亜衣の考えうる限り、どこも計算結果は狂ったりしていないのである。

 あんな凡ミスをしたというのに、他に間違いがないなんてことはあまり考えられないのだが。それとも、本当に一ヶ所だけだったのか?

「って言うか、もう数字なんて見たくないよ……」

 数字も数式も飽き飽きした。電卓の電源を落とした亜衣は、そのまま机の上に突っ伏した。深夜十一時半の机はひんやりしていて、むしろ寒いくらいだ。


 と、メールが来た。

〔やっほー、何かミス見つかったー?〕

 菜摘からだ。なんでそんなにテンション高いんだと目で詰ると、亜衣はさっさと返信を打って返す。

〔ないみたい。菜摘は?〕

 返答はすぐだった。

〔うちもないよー。あれ一個だけだったんじゃないのー?〕

「だといいんだけどな……」

 誰にともなく、亜衣は溢した。これは果たして、喜んでいい場面なのか戸惑えばいい場面なのか。計算が間違っていないのは、いいことのはずなのだが。

 ともかく、これから先のトラブルの責任の所在が自分にないことだけははっきりしたわけだ。それと、菜摘は語尾を伸ばしたがるだけでテンションが高いわけではないことも。

〔そっか、ありがとね〕

 素っ気なくそう返すと、菜摘からはそれきり何も送られて来なかった。


 時々、見失うことがある。


──私って今、何のためにこんなに夜中まで再計算を頑張ってるんだろう。

 シャーペンをじっと見つめながら、亜衣は自問した。金属質のペン先が、きらりと冷たい光を放っている。

──最初に誘われた時、ハルカは言った。学校の人気を取り戻すため、って。でもそのあと、浅野に否定されたんだよね。そんなことをしても何も変わらない、有名大学合格者数増加のような直接的なことでないと。そう言われて。

  なら、今の私は一体何のために計算をしているの? この時間、もっと他のことに振り向けることだってできたはずだよ。なのになぜ、私はこんなことやってるんだろう。

  もしくは、誰のため? ハルカ? みんな?

  違う。

  どれも違う。


──惰性……だ。


 ペン先の光が、青白くなったような気がした。

 眠い。計算用紙を見すぎたせいか、目がチラチラする。横になったら即、落ちてしまいそうだ。

「……寝よう」

 机を立った亜衣は伸びをすると、最後に後ろを一瞥した。

 机の脇に広げられた図面が、妙に小さく見えた。




◆ ◆ ◆




「うーん……」

 じりじりと高さを上げるアームを睨みながら、菜摘は首を捻る。再計算と新たなモーターの到着を待って改造を施されたリフトアップロボットは、試しに載せた段ボールを天に向かって持ち上げているところだった。

「やっぱおかしいよ、上昇速度が想定より遅い。モーターが弱いのか電池が弱いのか回路が弱いかの、どれかだとは思うんだけど」

「まだダメなの……?」

 うんざりしたような声を上げたのは、壁にもたれ掛かった陽子だ。

「あたしは間違いなく買ってきたし、アイとナツミは間違いなく再計算出来たんでしょ? だったらあと何がどう悪いってのよ」

「回線の問題かもしれない」

 図面をぱらっとめくると、麗はもう片手に部品カタログを取る。何度も見比べながら、そのたびに図面に小さなチェックをつけてゆく。

「何してるの?」

 悠香が尋ねると、麗は作業を続けながら答えた。「必要な電圧とか電流に対して、回線に使ってる導線が悪いのかもしれない」

「私がチョイスミスしたってこと?」

 亜衣の声には、明らかに刺が混じっている。

「ちょっと、そういう言い方しないでもいいじゃんアイちゃん……」

「だってそうでしょ? 私、間違ったこと言ってないよ?」

 そりゃそうだけど、と喉まで出かかった台詞を胃へ落とすと、尚も黙々と確認作業を続ける麗を悠香は見遣った。いつも通りの無表情だ。もしくは今まで考えたこともなかったが、感情を圧し殺しているだけなのかもしれない。


 まずい流れになってきた。

 ここに来て、何だかチームの輪が乱れているのである。陽子も亜衣も、苛立っているのは明白だ。

 そして恐らく、このロボットが完成するまではずっとこんな調子に違いない。

 ダメだ、何とかして空気を変えなければ。なんとか悠香は提案した。

「……みんな、輸送ロボットの方の続きやらない? 時間潰しなんてもったいないよ」

 小さく頷いた陽子と亜衣が、ゆっくり立ち上がるのが見えた。




 その様子を、教室の外から覗いている者がいた。

「あれあれあれー、なんか険悪なフンイキー」

「何だろ……問題でも起きたのかな」

 渚と聖名子である。

 ロボットの製作が九割方完了した物理部は、作業場所をより広い美術室に移してラストスパートをかけている。二人は必要な器具と部品を取りに、物理実験室に戻ってきたのだった。が、部屋の外まで溢れんばかりの暗いムードを前にして、どうしても足が進まなくなってしまったのである。

「こんな空気の中に入るの、やだわぁ……。ミナ、ちょっと行ってきてよー」

「私もやだよ! 何言われるか分かんないし、そもそも私たち敵同士だし」

「それな……」

 腕組みをすると、壁に寄りかかった二人はため息を吐いた。

 以前に渚の言っていたことが、現実になっているのだ。


「──何してるの、二人とも」

「!」

 背中からかかったその声に、聖名子も渚もびくっと肩を跳ね上がらせた。背の高い先輩が、後ろにやって来ていた。

「あ、長良さん……」

「いえこれはその、えっと」

「えっと、じゃないよ。中に入れないの?」

 つかつかと廊下をやって来たのは、物理部ロボット製作班の代表──長良ながら沙紀さきだ。いつまでたっても帰ってこない聖名子と渚の様子を見に来たのだろう、手には設計図を握りっぱなしだった。

「その……中がちょっと入りにくい空気になっていて」

 暗に『だから今はやめた方がいい』と言ったつもりだった聖名子なのだが、長良にはその意図はまるで伝わらなかったらしい。

「空気?」

 がらっ、と扉を引き開けてしまう。


 五人の少女たちが、一斉にこちらに振り向いた。

 それは、悠香たちと長良の、初めての対面だった。


「あら」

 最初の一言を発したのは、長良である。

 突然の出来事に、悠香たちの頭は消し炭のように真っ白になった。声が、出ない。

「もしかして、ロボコンにエントリーしてるもう一つのチーム?」

 がくがくと悠香が頷くと、「そう」と長良は笑う。

「ごめんね、そう言えば今日はそっちがここを使う日だったわね。ちょっといくつか取りたい物があるから、入ってもいい?」

「ぜんっぜん大丈夫です!」

 上ずった菜摘の声が、天井に反響してガンガン鳴った。

 扉を全開にすると、長良は壁際に並んだたくさんの箱のところへ小走りで向かう。ぼんやりとそれを眺めていた悠香の脇腹を、陽子が肘でこっそりつついた。

「痛!」

 けっこう痛かった。

 睨むと、陽子は視線だけで長良を指し示す。

「ハルカ、あの人って……」

「あの人?」

「……多分、物理部チーム──フィジックスのメンバーじゃないの。それも代表格の」

「えっ⁉」

 肘のことはもう忘れて、悠香は長良の背中を見つめた。

──この人が……? 

 北上よりは背が低いが、それでもその落ち着いた所作はオトナにしか見えない。北上が高三という事は、長良は高二なんだろうか。

「あ……あの……」

 思わず、悠香は声をかけていた。長良の首がくるっとこちらを向いてから、自分の発言に気づく。

──って、私どうして今呼んだの⁉ どうしよう、話題も何もないのに……!

「……その、初めまして」

 焦りを懸命に振り払ってそれだけ言い切ると、ぺこりと悠香は頭を下げた。

 長良はじいっと、悠香のいる机を見つめている。さっきまでの剣呑な雰囲気を押し出して、別の空気がこの物理実験室に漲っているみたいだ。何だろう、金縛りにでも遭っているようなこの緊迫感は……。


「その大きなロボット、動かないでしょ」

 長良は唐突にそう言った。

 リフトアップロボットを指差して。


 なぜ、分かった?

 恐らくはその場の全員がそう思ったに違いない。


「そいつに使われてるその電池、普通の乾電池だよね。出力不足だと思う。必要に応じて集めればバカでかくはなるけど、明らかに電圧が高くない。そいつを──そうね、リチウムポリマー電池辺りにでも交換すれば、多分問題なく動作するわ」

 喋りながらつかつかと麗のそばに寄ると、長良はページをめくって一つの電池を指し示す。麗が小さく息を飲み込んだのが悠香にも分かった。

「見た感じ、かなりの数のモーターを大出力で回転させてるみたいね。だとしたら、このくらいのスペックがあれば十分よ。お金さえ揃えられれば、だけど」

 今のは麗に言ったんだろうか。可哀想に、人見知りのある麗は頬を紅に染めてそっぽを向いている。

 亜衣と菜摘は、口惜しげに唇を噛んでいた。再計算の時、電源部の数値は『前提条件』として現行の物のデータをそのまま使っていたのだ。灯台下暗し、根本を疑ってみるべきだったか……。

「あ、ごめんなさい。邪魔だったわよね」

 最後にそう言い残し、長良は部屋を出ていこうとする。


「あの!」


 今度こそ意思を持って、悠香は長良を呼び止めた。踵を返してこちらを見る長良の影が、夕暮れの教室に伸びている。

「どうして、教えてくれたんですか? 私たち、敵ですよね?」

 どうしても、そう聞かずにはいられなかったのだ。

 ああ、そのことか。声を出す前から、長良の顔がそう言っている。

「私は、フェアプレーが好きなの。全てのチームに、完璧なコンディションで臨んでほしい。正々堂々と手に入れた勝利にこそ、価値があると思ってる。あなたたちが本気でアレに挑む気があるのなら、きちんと張り合いのある相手でいて欲しいのよね。

部長が言ってたのを聞いたのよ。あなたたち、物理部うちのロボットももう見たんでしょ? 」

 前に傾く首の関節が、ごきっと鈍い音を立てる。首肯した悠香たちと、西陽にモーター部を照らし出されたロボットとを何度も見比べながら、長良は笑みを崩さずに言った。

「私たちのを参照していながら大した戦果もなしに惨敗、なんてのはやめてほしいなって思うのよ。私たちのプライドもそれなりに傷付くから」


 五人の間に、凍えそうな冷気が流れ込んだ。

 その時になってようやく気づいたからだった。長良は間違っても、親切心のみからミスを指摘したのではないと。

──私たち、完全に見下されてるんだ……。

 悠香は下を向いて唇を噛んだ。こんな屈辱、初めて味わった。こんな敗北感、初めて……。

「あ、ごめんね! 長居しちゃってたわ。私はこれで、おいとまするわね」

 わざとらしく時計を見た長良は部品や工具の入ったケースを手に、さっさと実験室を出ていった。

 五人の誰も、それを止めようとはしなかった。




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