022 成績落ちた!?





 その夜。

 菜摘は夕食も早々に自室に閉じこもると荷物を放り出して、パソコンを立ち上げた。デスクトップの巨大ウィンドウが、青い光を放った。

「作図か……」

 ペンタブ要るかな、と呟くと、菜摘は机の下から真っ黒な小型タブレットを取り出した。専用ペンを用いて作図や描画をすることができる代物だ。

 作画に使えそうなオンラインソフトは、予め『お気に入り』にショートカットを入れてある。幾つかを起動し、さぁ作業を始めようかと伸びをした瞬間。

「菜摘、あんた勉強は大丈夫なの?」

 階下からの母親の声に、伸ばした腕の行き先が無くなった。

 突然、何だろうか。

「試験終わったのに今さら勉強してどうするのさー」

 菜摘は大声で返事を寄越した。悠香も似たようなことを言っていたような気がするな、と思った。

 向こうは階段下から叫んでいるようだ。壁でガンガン共鳴しているせいで、まるで母のものではないかのような声が、説教を続ける。

「今さら、ってあんたね……。復習だって勉強のうちじゃないのよ。さっき黒部さんとこのお母さんと話してて聞いたんだけど、」

 声のトーンに何か、長話の気配が感じられた。嫌な予感がする。

「今回の期末試験、全体的に範囲が広くて大変だったらしいじゃない。特に物理とか世界史とかって向こうは言ってたけど、あんたは確か両方とも苦手分野だったわよね? まさか落第点とか──」

 なんだ、そのことか。少し安心する菜摘である。ロボットコンテストへの参加で物理は勉強していることを、両親は知らないのだ。

「大丈夫ー。少なくとも物理は絶対大丈夫ー」

 有無を言わせぬ口調でそれだけ答えると、菜摘はパソコンに向き直ろうとした。この手の長話は嫌だもの。

 その背中を、母の声が刺す。

「遊ぶのもいいけど、あんまり低い成績取ってくるようなら、考えがあるからね。分かってるの?」

 鬱陶しい。今度は返事を返さず、菜摘はヘッドホンで耳を塞いだ。

──全く、これだから親の小言はいちいち腹が立つんだよ。もう済んでしまったことをほじくり返して説教、説教、説教。なんで親ってああなんだろ。

 はぁ、と嘆息する。これだけ不平を言っておきながら、結局菜摘はいつも言ってることには従っているのだ。でなければ、ずっと耳元でネチネチ言われてもっと腹が立つ。それよりはマシだよと、いつも自分に言いわけのように諭しながら。


 イライラが、無意識に菜摘の細い足にトントンとリズムを取らせた。

──私だって、自分で考えて行動することぐらいできるんだ。でも、いつだって自分でやろうって思い立った矢先に、『○○をやりなさい』って言ってくる。徹底してタイミングが悪いだけなんだ。……そう言ったところで、お母さんもお父さんも絶対に信用してはくれないだろうけどさ。

 菜摘の説明に説得力が無いからなのか、向こうに理解力が無いからなのか。そこは何とも言い難いが、恐らくは両方なのだろう。

──ああもう、こうして考えてるだけで腹が立つ!


 ふと我に返った菜摘は、心に浮かんだそんな愚痴の数々を、無意識のうちに起動させたWordに打ち込んでいた。キーボードを叩く指を止め、白い画面に浮かび上がる明朝体の文面を眺めてみる。

──そうか、こうやって書き出してみればいいんだ。

 これぞ本物の徒然草だ。書体を古文書みたいなフォントに替えてみると、無機質な文章はたちまち、誰かを呪い殺さんと書かれた怪文のようになった。

 文字というモノは、フォント次第でその文章が持つ雰囲気をも変えてしまうのだから、不思議だ。

 ふふっ。笑いをもらすと、菜摘は別に開く意味もないそのWordを閉じようとした。

 『文書「無題」は変更されています。保存しますか?』

 という、青白いウィンドウが浮かび上がった。

 別にただの落書きだ。迷わず〔保存しない〕をクリックしかけ……、


 ふと思い直して、〔保存する〕をクリックした。




◆ ◆ ◆




 三日後。

 試験から数えて僅か四日後にしてもう、試験が返される日になった。

 正確には、必ず返ってくるわけではない。採点に時間のかかる国語や社会は返ってこない場合があるし、そもそも今日は別に返すための日ではないからだ。

 山手女子には試験期間後、授業数調整期間が必ず挟まれる仕組みになっている。教師たちはその間、自由に授業を入れることができ、生徒たちもまた教師に授業の要望をすることのできる期間だ。今日はその最終日で、明日は修了式だった。試験を返すには絶好のタイミングと言うわけで、記号やマークシートの答案を採用している英語などの教科は、こぞって今日を選んだのだ。

 マークシートを導入するような教科ほど、テストの点数が成績に直結する。今回は一体何人の生徒が泣く羽目になるのか。そんな怖ろしい噂が、校内を幾つも漂っていた。そもそも、中二が終わった段階で一人も脱落者を出していない悠香の学年は、そうでなくても上の方の学年からは『奇跡の学年』などと呼ばれているらしいのだ。

 そろそろ出てもおかしくないと専らの噂となっている脱落者候補の中には、実はこっそり悠香の名があったのだが、本人がそれを知っているはずはなかった。

 そしてそれは、一見、見事に回避されたように見えた。


「わっすごい! 私、幾何のテスト七十二点だー!」

 悠香の歓喜の声が教室に響き渡った。

「なっ、七十二点⁉」

 思わず目を擦る陽子。「……あってる……」

 途端、周囲のギャラリーが紛糾に包まれた。

「嘘でしょ⁉ ハルカが七十二なら私なんて満点だよ!」

「先生ったら採点の時に位取り間違えたんじゃないの⁉」

「いや、実は満点が二百点とか……!」

 普段の幾何の平均点が二十五点程度の悠香にとって、七十二点とはこのくらいの反応が返ってくる点数なのである。

「ヨーコのお陰だよ! ホントありがとう!」

 そう言って飛びついてくる悠香を避けきれず、首に我が子をぶら下げるオランウータンのようになってしまった陽子は、ちょっと咽せて苦笑いを零した。

──全く、ハルカは飲み込みが良いんだか悪いんだか、さっぱり分からないな。いや、きっとかなり良いはずだよね。さっき物理は七十六点とか言ってるのが聞こえたもの。あんなに勉強したあたしだって、意外な苦戦で八十九点だったのに。

 多分悠香は、やる気になってやれば強いのにやらないタイプなのだ。

 そんな事を考えていると、「次、隅田さん!」と名前を呼ぶ浅野の声が聞こえてきた。きゃっきゃっと騒ぐ悠香の表情が眩しすぎて、陽子は逃げるように教卓へ向かう。


 ……続々と返される他の教科に悠香の顔色が真っ青になるまで、残り二十秒であった。





「え⁉」

 物理実験室に響く、亜衣の叫び声。青い顔で頷く、菜摘。

「それじゃ何、割とマジで成績ヤバいわけ⁉」

「……まだ確定は出来ないけど」

 菜摘は素直に答案を見せる。なるほど、物理以外は悲惨としか言いようのない点数ばかりだ。

「よかった……私ここまで酷くないや」

 率直な感想を述べる悠香に、陽子は非難の眼差しを向ける。「ハルカだって物理と幾何以外は似たようなもんでしょ。人のことどうこう言えた義理じゃないじゃん」

 途端にしゅんとする悠香。このテンションの下がりかたといい、自覚はあるようだった。

「……どうせ私は化学の点数を平均の半分しか取れないロボ製作者ですよ……」

「ハルカのことは、取りあえずはいいよ」

 亜衣の言葉は執り成しているのか、本当に興味関心が無いのか。「今は、ナツミの方をどうにかすることの方が優先でしょ」

「……多分、落第とか追試とかいうレベルではないと思うんだけど。ウチの親のことだから、もう遊ばせないとか言い出してくるかもしれない……」

 基本が能天気な菜摘のものとは思えない、弱気な声が答える。だとしたらまさしく、『絶望的』だ。

「んー……でもナツミなら大丈夫じゃない?」

 悠香のイマイチ緊迫感に欠けるセリフが、漂いかけた沈黙を破った。「プログラミングなら家でも出来るよ。勉強しなさいとか言ったって、実際は自宅軟禁くらいのものなんじゃない? そしたら、パソコンは使えるし──」

「甘い」

 冷たい声は、陽子のものだ。

「あたしが親なら間違いなく塾に通わせると思う」

 こくんと菜摘も頷く。「それっぽいこと、ウチの親もちらつかせてた」

 根拠は、ある。試験終了翌日のあの夜、母は『あんまり低い成績取ってくるようなら、考えがある』などと不気味なことを言っていた。あの時は無視したけれど、本当にあの対応が適切だったとは今ではとても思えない。

「まぁ、その時はその時だ」

 亜衣がボソッと言った。

「最悪、ナツミは抜ける覚悟でこれからやってかなきゃならないって事だよ。最初に作る予定のリフトアップロボット、設計図出来てる?」

「概ね」

「一週間以内に完成するなら、私のパソコン辺りに図面送ってくれない? んで私はそれをみんなに渡す。それがいいって言うか、それしかないわ」

 四人は、無言で頷いた。





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