第0話 ひとくいマンイーター 9

 目を覚ますとまだ6時前だった。

 呼吸が荒い。汗をかいている。

 エジプトの壁画のような奇妙なポーズをしていた。布団も蹴飛ばされてベッドの下だ。

 うなされていたらしい。そういえば、なにか夢を見たかもしれない。

 少しだけ思い出してみようと試みてみたが、意識の覚醒と反比例するように、あっという間に拡散して消え失せてしまう。かろうじて残ったイメージは、黒。あとは、漠然とした恐怖。

 起き上がる。寝汗をかいているのに身体は冷え切っていて寒い。

 ちょっと身体を動かしてみようかとも思ったけれど、部屋は散らかり放題に散らかっていて足の踏み場もない、というほどではないけれども、足の踏み場くらいしかない。準備体操をするにもまずは片付けからかと諦めて、床に積み重なった安っぽくて趣味の悪いお洋服を整理していく。薄手のものは洗濯するためにポイポイ山にして、ジャケット類はハンガーにかけてクローゼットに。ジーンズやスカートはおそるおそる臭いを嗅いでみて、大丈夫そうなのは畳んで引き出しにしまう。服をどけた結果、床から発掘された開いた形跡のあまりないピンピンの教科書や参考書類は学習机の書棚に並べる。学校で渡されたのであろうプリント類は要不要の区別がつかなかったので、とりあえずひとまとめにしてクリアファイルに挟む。前の冬から掛けっぱなしになっているのであろうコートに隠れて、部屋のすみっこにフェンダーのエレキギターとミニアンプがあった。たぶん、この部屋にある物品の中では一番の高級品だろう。

 手に取ってベッドに腰掛ける。アンプに繋がないままで軽く触ってみる。なんとなく、身体が覚えている感じがある。沢城恵の身体がわたしの知らない曲の冒頭のフレーズをぽつぽつと弾く。きっと、熱心に練習していたのだろう。そのスキルが身体に染み込んでいるのだ。この類のある種不随意な、頭脳ではなく身体が覚えたスキル系は、中身が入れ替わっても引き継がれる傾向が強い。そのわりには、ずいぶんと長期間触っていなかったようだけれど。飽きたのだろうか。

 ギターをそっと元に戻して、本来の目的であった準備体操を始めるけれども。

 「固っ……!」

 鉄かよっていうぐらいに身体が固い。脚も全然開かないし、開脚前屈は上半身が本当に垂直の状態からビクとも動かない。運動不足にも程があるだろう。

 いくら一時しのぎのボディとはいえ、最短でも数日はこの身体で過ごさなければならないのである。万が一に備えて身体のコンディションは整えておくに限るが、しかし、これはさすがに骨が折れそうだ。比喩でなく。

 フーフーと顔を真っ赤にして深呼吸をしながらストレッチしていたら、母親がノックもなしに「こんな朝早くからなにをバタバタバタバタやってんのまだみんな寝てる時間でしょご近所にも迷惑じゃないのだいたい起きたところなのちゃんと寝たの(ry」と、また虚無から言葉を放出しつつ部屋に入って来た。

 「おはよー」

 「あら、なに。部屋の片付けをしてたの」

 と言って、母親の動きが止まる。ナウローディング。プリーズウェイト。首がぐるりと部屋を右から左に見回して、また右に旋回する。戦車の砲塔みたいだ。照準は部屋の隅に積まれた洗濯物の山に合う。

 「それ、洗濯するやつ?」

 「あ、うんー」

 「そう。出しておいて。洗濯しておいてあげるから」

 「うん。ありがとー」

 一通りストレッチをこなして洗濯物を抱えて下に降りたらトースターがチーンと鳴るのが聞こえた。洗濯機の前に洗濯物をドサッと置いてダイニングに行くと、朝ごはん。テーブルの上にトーストとマーガリンがドンと置いてあるだけという潔さ。それとインスタントコーヒー。

 「はいこれ」と、母親に千円札を渡される。お昼ご飯代なのだろうけれども、反射的に「いや、いいよ」と断ってしまう。プログラムの一級エージェントであるわたしは、もちろん収入も多い。たぶん、この世帯の誰よりも収入があるだろう。自分より稼いでいるわけでもない母親からお金をもらうことに抵抗を感じて、つい断ってしまったのだが「え、なにが?」と聞かれると、そう答えるわけにもいかない。

 「お弁当。作って持っていくから」

 しかたがないので口からでまかせで誤魔化してみたら、母親が無言で目を剥いて驚いて「まあ、そういうことならいいけれども」と千円札を引っ込めた。どうやら、お弁当を作らないわけにはいかなくなってしまったようだ。

 「冷蔵庫のもの適当に使うよー」

 トーストを食べたわたしはキッチンに行って、戸棚の奥から小さなかわいらしいお弁当箱をひっぱり出す。冷蔵庫から冷やごはんを出してレンジでチンする。その間にたまごを割って、たまご巻にする。ウインナーに切り込みを入れて火を通して、レタスとプチトマトときゅうりとブロッコリー。お漬物もあったのでそれも添える。お弁当箱が小さいので、これくらいでもわりと様になる。うん、まあこんな感じでいいか。

 「めぐちゃん、ひょっとして彼氏でもできたの?」

 ダイニングでテレビを見つつ不思議そうにこちらを伺っていた母親が、思いついたようにそんなことを聞く。

 「別にそんなんじゃないよ」

 と、わたしは答える。まあ、どういうわけかと言えば、娘の中身が別人に入れ替わっているってわけなんだけれども。

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