第5話 さばサバイバー

 電話が鳴る音で目を覚まして自分が寝てしまっていたことに気が付いた。

 「はい」

 自分の意志や意図の回復を待たずに、身体が完全な反射行動で受話器をとる。

 「カラヴィンカです」

 部下の声だ。着信音は内線のソレだったなと今になって思い返す。今日はちょっとしたミッションで外に出ていたはずだが、もう戻っているということだろう。いまは何時だろうかと気になって周囲を見回す。オフィスの自室だ。デスクで作業をしている途中でうっかり座ったまま眠ってしまったらしい。壁掛け時計が午後11時を指し示している。眠っていたのはほんの5分ほどか。

 「もしもし?イフリーテス?」

 「ああ、ごめん。どうかした?」

 寝起きで出遅れた体勢をどうにか立て直す。寝て目覚めるたびに、再び世界に自分を定着させる時間が必要なのだ。難儀な性質だと思う。

 「なにか問題が?」

 「いえ、ミッションのほうは予定通り滞りなく。ただちょっと、偶発的なコンタクトでウェアウルフの個体を保護したんですけど、こいつがなかなかのはねっ返りで」

 カラヴィンカは淀みなくスラスラと鈴の鳴るような心地よい声音で報告をする。耳に心地よさすぎて、かえって意味を捉える気が失われてしまうのが難点だ。

 「なるほど」

 ウェアウルフ、狼男か。日本では多少の珍しさがあるけれども、世界的に見ればそれほどレアな異端というわけでもない。比較的社会に与える脅威度も低いし、ちゃんと自分をコントロールして社会の中で生活している個体も多い。それはつまり、わざわざリスクを冒してまでわたしたちの組織で獲得する必要性も低いということでもあるのだが。とはいえ、ユニオンの方針として、決定的に対立的でない限り、まずは友好的に振る舞うことになっている。

 「いまは拘束していちおう応接室に座らせています」

 「わかった。わたしが話をしてみるわ」

 受話器を置く。スリープモードの黒いディスプレイに髪の長い女が映っている。どこからどう見ても大人の女性で、未だにそれが自分だと認識すると若干の違和感がある。まだ、ちゃんと大人になりきれていない、ということかもしれない。別に髪も寝癖などにはなっていないし、メイクにも服装にも乱れもない。このまま人前に出ても大丈夫だろう。とはいえ習慣で髪に軽く手櫛を通して立ち上がる。ハンガーにかけてあったジャケットを掴み取ってわたしは応接室へと向かった。


 この国には古来より鬼と呼ばれる種族が存在している。

 圧倒的な身体能力と戦闘能力を誇り、極めて強靭で殺すことが容易でなく、そのうえ人を食う。人ならざる人を超えたモノ。人に恐れられ、疎まれる。それ故に、それは社会の中では、あっさりと滅ぼされかねない極めて脆弱で不安定な存在だ。

 力が強いとか、足が速いとか、そういった能力がそのまま評価されるのはせいぜい中学生までのこと。どれだけ足が速かったところで自動車に乗った人間に勝てるわけでもなく、よしんば自動車よりは速かったところで戦闘機を出してこられれば如何に強い鬼と言えどもひとたまりもないだろう。どれだけ鬼という個体が人間の個体よりも強かったところで、それは人間の社会ほどには強くはない。

 だから、わたしたちは組織する。組織はシンプルに、ただユニオンと呼ばれている。

 鬼に限らず、妖怪や悪魔などの様々な人外が種族の垣根を超えて(少なくとも見かけ上は)協調している。

 目的は生存。人間の社会の中にあって、ただ生き延びていくことだけを目的としている。従って、必要以上に人間を敵視したり攻撃したりすることもない。生き延びたければ危険は少なければ少ないほどいい。しかし、時には敢えて、安全のために危険を冒すこともある。

 ユニオンの方針はシンプルだ。手を出されない限りは手を出さない。しかし、手を出されたら全力で仕返しをする。そうやって、あの連中に手を出すのは割りに合わないと思わせる。

 要するにヤクザ稼業である。

 もちろん、それ以外にも人間社会で生きていく以上はお金が必要で、一般に、お金は仕事をすることで得られるものであるから、そういったわけで、われわれは人間社会の要請に応じて仕事をし、それによって収入を得たりもする。そのあたりも、概ねヤクザ稼業と相似である。構成員が主に人外である、というだけのことだ。


 さて、そろそろ説明的な講釈にうんざりしてきた頃合いだろうか。ここまで物語を読み進めてくれた奇特なあなたのことだから、ひょっとすると馬鹿で直情的な駆け抜ける人食い鬼、中萱梓のドタバタ恋愛事情の続きが気になっていたのかもしれないけれど、残念ながら、あの話はあれでもう終わりである。これは、あの物語は結局どういうことだったのか、どういうことが起こっていたのか、どういう世界での出来事だったのかを説明しておこうという多少の親切心、あるいは理解されたいという浅薄で人間的な欲求によって記述されているすこし長めのあとがき、または設定資料のようなものだ。ただなんとなく手に取る機会があったから読んでみただけで、別に面白くもなんともなかっただとか、少しは面白味もあったけれどそこまであの物語に思い入れていたわけではないだとか、既にあまりにも行き当たりばったりでご都合主義的で支離滅裂な語り口に閉口しているところだといった方が、なにかの間違いでこれを読み進めているといったことが仮にあったとしたら、今すぐブラウザを閉じることをお勧めしておく。いつまでもドタバタとばかりはしていられないのだ。ここから先はわれわれの安定的な日常と、退屈で説明的な講釈が続くのみであると予告しておこう。つまり、わたしはそのように楽観的に予測しているという意味だ。


 階段を降りて応接室に向かうと、扉の前でカラヴィンカが待機していた。

 「お待たせ」

 「お疲れさまです、イフリーテス。当該個体は暴れたためとりあえずの対処として今はナイロンタイで手足を拘束しています。おそらく当該個体の膂力が上回ることはないかと思いますが、すこし興奮状態なので気をつけてください」

 ナイロンタイというのはケーブルを束ねたりするのに使う一度締めたら二度と緩まない例のアレで、もちろん拘束に使うのは一般的な細いものではなくかなりの大型のものである。

 「了解。しかしナイロンタイねえ」

 そう言いながら、わたしは応接室の扉を押し開けると同時に前方に転がった。わたしの上をなにかがブンと通りすぎる気配を感じる。

 「やっぱりそうなるわよねぇ」

 転がった力を殺さずにそのまま利用して立ち上がり、反転してバックステップで反対側の壁まで跳ぶ。狼男くんはもちろん拘束を既に解いていて、わたしが扉を開けたところを不意打ちしてきたのだった。ナイロンタイは対テロ戦闘でも使われるぐらいの実践的な拘束具で、たとえゴリラぐらいの膂力があったとしても引きちぎることは難しいのだけれど、刃物があれば少ない力でも簡単に切断が可能だ。そして、狼男の武器はもちろん、主にその鋭利な爪と牙である。いまはかなり人間に近い形態をしてはいるけれど、その指先から鋭利な長い爪が飛び出している。カラヴィンカもひょっとしてアホなんじゃないだろうかと思わなくはない。

 「チッ」

 舌打ちして狼男くんもバックステップで距離を取る。カラヴィンカが素早く部屋に入ってきて扉を閉め、拳銃を抜いて狼男くんに向けた。わたしとカラヴィンカで挟み撃ちの格好だ。

 「どーどー。落ち着いて。まあこの状況で落ち着くっていうのも難しいかもしれないけれど、いちおうこれでもわたしは戦闘じゃなくて話し合いに来ただけなの。ほら、その証拠に、わたしはなにも武装していない」

 わたしはそう言って、両手を開いて相手に見せる。まあ驚いた、という時に外国人がするオーバーなリアクションに近い。

 「拳銃を向けながら言うセリフかよ」

 「あなたに拳銃を向けているのはそこのカラヴィンカであってわたしじゃあない。カラヴィンカは君が攻撃してきたから拳銃を向けただけよ。君がもう攻撃しないと約束してくれるなら彼女も銃を下ろす」

 「……」

 狼男くんはわたしとカラヴィンカを交互に見ると、ひとまず、構えを解いて爪をひっこめた。見かけ上は人間と差異がなくなる。

 「カラヴィンカ。あとはわたしが話をするから、あなたは外に出ていて」

 「わかりました」

 カラヴィンカが外に出たので、わたしは狼男くんにソファを勧める。狼男くんはわたしから目をそらさないまま、そろりそろりとソファーのほうに移動して座った。そのへんの動作もなんとなく狼っぽさがある。

 「拘束しなくてもいいのか?」

 「分かると思うけど、この距離でわたしと向かい合った時点で別に拘束とかは必要ではないからね。たぶん、わたしのほうが強い」

 そう言いながら、わたしもローテーブルを挟んで狼男くんの向かいのソファーに腰掛ける。

 狼男くんは20歳そこそこぐらいに見える。若干グレーがかって見える短い黒髪を逆立てていて、なかなか精悍な顔つきだ。細身だけど筋肉質で、一見して運動性能が高そうな感じもある。もちろん、わたしたちのような人外異形にそういった外見的な評価はあんまり関係がなかったりもするのだけれど。

 「お前は鬼か」

 「そう。全ての人外を統べる最強種、ということになっているね。まあわたしは純血種ではないし、百獣の王のライオンだって本当にあらゆる動物よりも強いってわけでもないのだけれど」

 ライオンと象なら、おそらくは象のほうが強いだろう。ライオンが強いというのも案外イメージでしかないし、鬼だって似たようなものである。それに、何度も言うように、そもそも現代においては強いというポテンシャルは、本当に究極に飛び抜けて強いのでもない限りは、それほど重要なものではない。つまり、わたしにせよこの狼男くんにせよ、その中途半端な強さはむしろ「故に社会から危険視され疎外され弾圧される」という弱点でしかないのだ。とはいえ、その多少の強さのイメージは目の前の狼男くんを従順にさせる程度には有用性もあったようである。狼は上下関係には敏感な動物だ。

 「お前たちはなんだ?世界征服でも企んでいるのか?」

 「ううん、別に。わたしたちはユニオン。自分たちが生き残るために連帯しているだけよ。世界征服とかそういう大それたことを画策すればあっという間に滅ぼされてしまいかねない弱小組織でね」

 「滅ぼされるって誰にだ?警察か?」

 「うん、そうだね。ひとつには警察というか、政府直属の対怪異特殊部隊が居る。わたしたちは侮蔑の意味も込めておにぎりって呼んでるけど。こいつらは分かりやすくわたしたちの敵」

 「おにぎり?」

 「そう、主に鬼を斬るからおにぎり」

 と、わたしは両手の親指と人差し指で三角形を作って見せる。おにぎりのポーズ。

 「対鬼戦闘に特化した陰陽師にルーツがあるからね。もっとも、現代のグローバル社会では鬼に限らず外来種の人外なんかでも分け隔てなく対処するし、攻撃手段も斬るだけとは限らないけれど。銀の弾丸が弱点の子とかも居るし」

 狼男くんは黙ってこちらを見ているだけなので、わたしは気にせずそのまま話を続ける。

 「それともうひとつ。プログラムって呼ばれている組織がある。こいつらは、たぶんこいつらそのものが人間じゃない。人間をどう定義するかにも依るけれど、まあ少なくとも一般的に想定されるような人間ではない。わたしたちよりも上位の人外で、天使とかそういうのに属するものと理解しておくのが簡単だと思う。プログラムはこの世界の維持を目的としていて、別に人間の味方というわけでもない。世界が終わってしまわないように、世界というプログラムのデバッグをする。連中の規定する世界というのにはわたしたちのような人外も仕様として含まれていて、つまり人外であることがすなわち世界のバグというわけではないし、プログラムの攻撃対象になるというわけでもない。だから一概にわたしたちの敵と言えるものでもないのだけれど、連中は極めて悲観的な予測で行動するから敵対することになることが多いわね」

 話が天使とかになったあたりで、狼男くんが露骨に訝しそうな顔をしたのが分かったけれども、残念ながら世界はそのようであるので諦めてそのように受け入れてもらうしかない。

 「ユニオンの存在意義は主にはそのふたつへの対処がメイン。対処方法はどちらも同じ。調子に乗らないように心掛けることと、相手が調子に乗ってきたら徹底的に叩くこと」

 言いながら、わたしは両手の平を上に向けて交互に上下させる。天秤をイメージした動きだ。

 「わたしたちを放置することで残る潜在的な脅威と、攻撃することで被る反撃の実際的な被害。後者のほうを重くして、放置していたほうがマシという状況を作ること。ほとんどそれだけね。逆に言うと、君みたいに特に後ろ盾も持たずに単独で調子に乗っていると、おにぎりかプログラムのどちらかに捕捉されて滅ぼされてしまうのが関の山ってわけ。今回、ユニオンで君を保護したのはただの善意であって、君が望まないのであればこのまま部屋を出て家に帰ってもらっても別に構わない。そのかわり、ユニオンは君が誰かに攻撃されたとしても守らないし報復もしない。逆に、君がユニオンに加入すると言うのであればユニオンは君が誰かから攻撃を受けることがないように守るし、攻撃を受けたなら全力で報復をする。そのかわり、自分勝手は控えてもらうことになるし、基本的にはユニオンのために多少の労働してもらうことになる。もちろん、労働に対してはそれに見合った正当な報酬は出すけどね」

 狼男くんはソファーに座って前傾姿勢で手を組み、上目遣いでじっとこちらを見ながら黙って話を聞いていた。「なにか質問は?」とわたしがきくと、「いや、だいたいの話は分かった」と言う。理解が早い。狼は賢い動物だ。

 「そういうものがどこかにあるはずだ、という予測はしていたし、正直に言えば、探していたと言ってもいい。ただ、ちょっとイメージしていたよりも、なんと言うか、マトモっぽいのは意外だったけどな」

 「マトモかしら」

 「言い方をかえるなら、ビジネスライクって言うのかな。俺としてはもう少し、仲間とか絆とか、そういう泥臭くてアツイ感じのものを想定していたが。この世のどこかにまだ見ぬ俺と同じ境遇の、共に理解し合える仲間が居るんじゃないかみたいな。しかし理屈は同じだ。調子に乗らないようにお互いに制すること。外部から手を出されたら一丸となって徹底的に抗戦すること。単に、想定していたよりもずっと規模が大きい、というだけのことかもしれない」

 なるほどな、と思う。確かにユニオンは連帯してはいるけれども、仲間とかそういう感じではないかもしれない。どちらかと言えば、徹底的な個人主義者たちが生き残るために嫌々ながらも連帯している、という傾向が強い。そういえば狼は元より群れを形成する生き物だったか。そういった固い信頼関係に結ばれた集団に所属することへの希求があるのかもしれない。

 「うーん、ひょっとしたらあんまり好みじゃなかったかもしれないけれども、現実的にはわたしたちのユニオンを上回る安定性を誇る組織はないよ」

 「いや、別に不満なわけじゃあない。まだお前さんたちを完全に信頼したということでもないが、そうだな、強い興味がある、ぐらいの感じだ」

 呼び方がお前からお前さんにランクアップした。好意的に捉えてもらっているというのは嘘ではないような感触がある。

 「なるほど。つまり、加入に対して前向きに検討しているってことでいいのかな」

 「そうだな。少なくとも、もっと説明を受けたいとは思っている」

 「オーケイ。君の場合、とりあえず差し迫った危険に晒されているというわけでもなさそうだから、基本的にはそのまま自由にしててもらっていいんだけれど、無用の争いは避けるっていうのは肝に銘じておいてもらうことになるよ。でないと、むしろわたしたちが君を排除することもあるかもしれない」

 わたしがそう言うと、狼男くんは手を振ってちょっと被せ気味ぐらいに強く言い返してくる。

 「待ってくれ。そこに関してはたぶん誤解がある。俺だってこの歳になるまで人の社会に紛れてどうにか生き延びてきたんだ。もとより無用の争いを好んでいるわけじゃない」

 じゃなきゃとっくの昔に狩られていた、と。それはおそらくは事実だろう。つまり、むしろうちのカラヴィンカがミッションの途中になんらかの事情で狼男くんを刺激してしまったということだろうか。暴れた、と言っていたけれど。

 「いや、アイツじゃない。もっと、黒くて、なんかよく分からないやつだ。たぶん、俺たちみたいにちょっと人とは違う生き物、とかそういう次元じゃない。根本的に、なにかが違うモノだ」

 黒くてよく分からない。それこそ、なんだかよく分からない説明だけれども。

 「それに襲われた?」

 「襲われた、のかどうかすら定かじゃないな。アレになにか意志があるのかどうか、そもそも生物なのかどうなのかも怪しい。とにかく実際に目にしてみれば分かる。アレは普通じゃない。いや、今にして思うと実際に目にしていたのかどうかすら怪しいが」

 と、狼男くんの言うことはだんだんとトーンダウンして怪しい感じになっていく。

 「ふーん、ともあれそのなんだかよく分からないモノと戦闘しているところにカラヴィンカが通りかかったってことかしら」

 「たぶん……そうだな。恥ずかしい話だが、少し錯乱していたんだ。あのカラヴィンカ?っていうのも、なんか黒っぽい服装をしているし、変な感じだろ?」

 カラヴィンカは声に特性を持っていて、話し声を通じて相手の認識に働きかけたりすることができる。直接的な戦闘よりは諜報活動などに向いたタイプなのだけれど、偶然、戦闘態勢の狼男と遭遇してカラヴィンカが先制で認識攻撃をした、ということのようだ。変な感じ、というのはそのカラヴィンカの認識攻撃のことだろう。それを狼男くんは事前に遭遇していた黒いなんらかの仲間と誤認した、ということか。あるいは、その直近の記憶じたいがカラヴィンカの攻撃を受けて変質してしまっている可能性もある。そう考えると狼男くんの供述がどうにも要領を得ない曖昧な感じなのにも合点がいく。

 「うーん、ひとまずその黒いなんかよく分からないやつっていうのは保留かな。さすがに現状だとよく分からなすぎて、対策の取りようもないし……」

 わたしはソファーの背もたれに体重を預け、腕を組みながら独り言のように呟く。たぶん、そういうのはわれわれユニオンではなくプログラムの管轄だろう。わたしたちユニオンは飽くまで専守防衛なのだ。なんだかよく分からないものにこちらからちょっかいをかけるということは基本的にはない。

 「あと……少しだけ気になっていることがあるんだが」

 狼男くんが、なにか言い出しにくそうに、なんというか、こんなことを言うとひょっとして馬鹿にされるんじゃないかと警戒しているみたいな感じで、ポツリと言う。

 「今夜、月は出ているか?」

 わたしはなぜ狼男くんが唐突にそんなことを言い出すのか分からなくて、腕を組んで反り返ったまま、無言で首を30度ほど傾げて見せる。

 「窓があるだろう。確かめてみてくれないか。今夜、月が出ているのか」

 たしかに、応接室には窓がある。ブラインドが下ろされてはいるけれども、そんなものは上げるなりなんなりすればいいだけだし、別にいま狼男くんは拘束されているわけでもない。確かめたいなら自分で見てみればいいだけのことなのに、確かめてみてくれないか……?

 「別に……いいけれど」

 そう言って、わたしは立ち上がって窓のほうに歩み寄る。外を見る前に一度振り返って狼男くんのほうを見たけれど、狼男くんはなぜか前傾姿勢で手を組んだポーズのまま前方に視線を固定している。こちらを見ない。心なしか、冷や汗をかいているような。窓の外を見ることを……恐れている?

 ブラインドを指で押し上げて空を見上げようとする。外は暗く室内が明るいので、窓は室内を反射するばかりだ。顔を目一杯、窓に近づけてみる。空は一面黒い。

 「たぶん、月は出ていないと思うけれど」

 わたしは窓の外を見たままで言う。

 「狼男は……」

 背中のほうから狼男くんの声がする。

 「満月の夜にしか能力を使えないんだ」

 ふーん、ただでさえ直接的な戦闘能力系はそんなに有用でもないのに、それはさらに使い勝手の悪いことだなぁ、なんてわたしは考えているのだけれど。

 「え……なにあれ……?」

 空に月は見えない。

 「今夜は、満月だ」

 なぜなら、空に大きな大きな真っ黒な丸があるからだった。夜空に紛れてしまってよく見ないと分からないけれど、夜空のソレとは明らかに違う、ペイントソフトでベターっと塗ったような純粋で均質な真っ黒の丸が夜空を覆っている。

 夜空に大穴が空いているのだ。

 と、唐突に陽気な着信音が鳴り響き、わたしも狼男くんも驚いて飛び上がってしまう。わたしはジャケットの内側から慌ててスマホを取り出して、なぜか狼男くんと目を合わせる。狼男くんが小刻みに頷いていて、わたしも頷き返すのだけれど、このアイコンタクトの意味はお互いに分かっていなさそうな感じがある。わたし自身も狼男くんになんの意味を送ったのかよく分からない。電話に出る。

 「もしもし……?」

 「ごめんイフリーテス!ちょっと四の五の言ってられない状況でさ!現場に一番近いのがあなたなのよ!」

 電話の向こう側はなにか妙にザワザワしている。声は、よく知った女性のものだ。

 「ちょっ…サ……ストリームワン?そんな勢いでこられても意味が分からないんだけど」

 「とりあえず外に出て!嫌でも意味が分かるわ!わたしもすぐにそっちに向かうけど、なにしろいま太平洋の真上なのよ!」

 電話が切れる。わたしは急いで応接室を出る。すごい勢いで扉を開いて出てきたわたしに驚いてカラヴィンカが拳銃を抜いて応接室のほうに向ける。

 「どうしましたか!?」

 0.2秒思考。あ、そうか。そりゃこの状況じゃ狼男くんがなんかしたって思うのも無理はないか。

 「そっちじゃない!その子はもう大丈夫!別件!カラヴィンカは連絡のつく戦闘要員を片っ端から招集して!」

 「いったいなにが?」

 「わたしも分からないけどなんかヤバいっぽいの!」

 カラヴィンカは納得いかなそうな顔を一瞬だけ見せて、でも拳銃をホルスターにしまって代わりに携帯を取り出す。理解よりも対応を優先。優れている。

 「待ってくれ!俺も行く!」

 狼男くんが応接室から飛び出してくる。恐怖と、それを乗り越えようとする意志が半分ずつ、といった表情。わたしは0.5秒思考。

 「ついてきて」

 駆け出す。階段でまた一瞬思考。上に出るか下に出るか。わたしは上を目指すことにする。三階ぶんを駆け上がり扉を開いて屋上に出る。

 強風が渦を巻いている。

 「いったいなんだっていうのよ……」

 上空ののっぺりとした黒い丸に大気が渦を巻いて吸い上げられているようだ。航空機にあいた穴から機内の空気が吸い出されるように。

 その黒い丸から、まったく同じ#000000の真っ黒なので見分けがつきにくいのだが、小さな黒い丸がポロポロと次々落下してきている。

 「アレだ。俺が遭遇した黒くてよく分からんやつだ」

 たしかにこれは、黒くてよく分からない。

 黒い丸のひとつがグングン大きくなる。違う。大きくなっているのではなく、こっちに近づいてきている。変形して、曖昧な人型になる。相変わらず真っ黒なので、なにがどうなっているのか細かい造形はよく分からない。

 「うわぁ!」

 真っ黒すぎて遠近感が狂うけれど、黒い人型はいつのまにか目の前に迫ってきていて、腕のような部分で攻撃を仕掛けてきた。転がってかわす。次々と追撃が来る。衝撃で屋上のコンクリートがめくれ上がる。

 「わっ!わっ!」

 わたしはコロコロと転がってそれをなんとかかわし続けるけれども、あっという間に端に追いつめられてしまう。

 「あぶねえ!」

 黒い人型の攻撃を狼男くんが間に入って受け止めてくれている。上半身がモリモリと肥大化していて、顔もずっと狼に近い形態に変身している。あ、そいつ真っ黒くろでよく分からないけれど、一応物理的な存在なんだ。

 「しっかりしろよ人外最強の鬼なんだろ!?」

 「ごめんごめん!実はわたし、直接的な戦闘能力はほぼゼロなんだよね」

 「ああんっ!?」

 昔っから土壇場で思考停止しない変な冷静さと、ここぞという時に踏み込める胆力だけはあったので、意外と今みたいな管理職てきな立場には適正があったみたいなんだけど、直接的な戦闘となるとからっきしというか、まあ一般的な人間よりは多少優れているとは思うんだけど、なにしろ周辺の水準がおかしくってわたし程度では全然話にならないって感じ。

 「まあなんていうのかな!全部ハッタリなわけ!」

 「ざっけんなよオイっ!!」

 それでも狼男くんはうおおおおって気合いを入れて、とりあえず黒い人型を投げ飛ばしてくれる。真っ黒くろはなにしろよく分からないのでダメージが通っているのかどうかもよく分からない。すぐに起き上がって(起き上がったのかすらもよく分からないけれども、ひょっとしたら逆立ちとかかもしれない)またこちらに向かってくる。

 「どうすんだよ!?」

 「え~?とりあえず応戦?」

 「マジかよ!?」

 狼男くんが腕を振ると、指先から爪というにはあまりにも長大な刃物が五本ジャキンッと飛び出す。向かってくる真っ黒くろに自ら踏み込んでいって薙ぎ払う。真っ黒くろの腕っぽいパーツが千切れて飛んでいく。続けざまに斬りつける。バラバラになってもう動かなくなる。

 「やったじゃん!」

 「ようやく一体な!」

 そう。ようやく一体である。夜空に浮かんだ真っ黒な大穴からは今もポロポロと同じ真っ黒くろが次々と落下してきている最中だった。とはいえ、見た目はなんかよく分からないけれどもとりあえず物理的に破壊が可能であるということが分かっただけでも一歩前進といったところ。物理的に破壊可能なら、まあなんか、そういうのに特化した人材が思い当たるだけでもかなり居るし。

 着信。出る。

 「あ~もしもし?」

 ちょう聞き覚えのある緊張感のない声。思い当たるそういうのに特化した人材の筆頭。

 「お母さん!?いまどこ?」

 「ん~、カリフォルニア?」

 地球の反対側じゃないか。ザザーンという波が寄せては返す呑気な音が後ろでしている。向こうは今ちょうど朝一番ってところか。海岸を朝のお散歩中とかかもしれない。

 「ちょっといまこっちヤバいことになってるんだけど!?」

 「そうらしいわね~、でもなんてったってわたし今カリフォルニアだしさ。どうにもこうにも」

 「ンな無責任な!」

 「そりゃあ無責任よ。だってもうイフリーテスの名を譲って引退したもの。そういうわけで、頑張ってね、現イフリーテスさん」

 チッと舌打ちして電話を切ろうとしたところで、最後に「あ、でもさっき世界最強戦力がそっちに向かったから、あと20秒くらいで到達すると思うよ」と言っているのが聞こえた。電話を切る。

 また別の真っ黒くろが一体、こっちに向かってきている。

 「どうする!?」

 狼男くんの声。

 「善処!」

 わたしは叫び返す。

 真っ黒くろはまたわたしをターゲットにしているらしい。狼男くんがこっちに走ってきてくれているのが見える。わたしもそちらに駆け出す。全てがスローモーションに見える。わたしは計算している。わたし、狼男くん、真っ黒くろのそれぞれの移動速度。到達予想時間。

 うん、間に合わない。

 あーもうダメだなあって思ったところに、上空から鋭い形状のなにかが物凄い速度で降ってきて真っ黒くろを貫いて粉々にした。グンっと急上昇して空中でバッと翼を拡げて停止する。回転しながらトンっと屋上に降り立つ。

 「松川さん!」

 長い黒髪。黒いトレンチコート。そして巨大な黒い翼。

 「久しぶりね」

 世界最強戦力、吸血鬼、松川常盤。翼を流線型に畳んでカリフォルニアから飛んできたらしい。大陸間弾道ミサイルかよ。

 「松川さん!アレは一体なんなの?」

 わたしは松川さんに駆け寄る。

 「プログラムのライブラリにはこの世界に関するあらゆる記述がある。そのプログラムも今回のコレについてはなにも分からないみたいね。つまり、アレはこの世界のものではない、ということではないかしら?」

 「えっと、つまりはどういうこと?」

 「異世界人、とかそういうことじゃない?まあ、なんだろうと別にいいけれども」

 そう言って、松川さんはサッとさらさらの髪を払う。

 また真っ黒くろが一体、こちらに近づいてきてわたしたちの目の前で人型に変形する。攻撃してくる。松川さんはそれを、素手で無造作に払いのける。軽く払いのけただけにしか見えないのに、真っ黒くろは大きくバランスを崩してのけ反る。松川さんはソレの、顔っぽい部分にまた無造作にハイキックをブチ込む。真っ黒くろはよろめいてうずくまる。

 「アンタたちのせいで、のんびりビーチリゾートの予定が丸潰れだわ」

 松川さんはヒョイと右足を上げて。

 「死にやがれ」

 踏みつけにする。真っ黒くろが粉々に砕け散る。

 1000人の眷属を従える吸血鬼、松川常盤。本来ならばそれは統制のとれた1000人の部隊でしかないはずだったのだけれど、彼女は悪魔的な発想で吸血鬼の能力の新たな地平を切り拓いてしまった。1000人の眷属をひとつの頭脳で統制するのではなく、1000人の思考力で彼女自身が世界を認識するように接続を作り変えてしまったのだ。トップダウン型から分散並列型へ。ひとりで常人の1000倍の計算量を持つ彼女は、リアルタイムな視覚情報からもより多くの情報を得ることが出来る。得た情報を処理し、判断する速度も速い、らしい。彼女がどのように世界を認識し、そこからどれだけの情報を得て、どう処理しどう結論づけているのか、常人の思考力しか持たないわたしたちには想像すら難しい境地だけれど、傍目にはそれは、例えば未来予知、などの能力であるように見える。

 この進化で彼女は世界最強の座に一気に登りつめたのだった。いまとなっては単独でプログラムにも匹敵する能力を持っているのでプログラムでさえも処分ができないらしい。

 それと引き換えに、彼女の本来の松川常盤という人格は、とっくに希薄化し揮発してしまっているはずだ、と予測する人も居るけれども。

 不意に松川さんがヒョイとわたしの後ろに回り込んで、わたしを抱えて飛ぶ。一瞬後に、わたしが立っていた場所に真っ黒くろが降ってきていて屋上に大きなクレーターができている。狼男くんが飛びかかって応戦している。

 「いつかを思い出すわね」

 わたしを抱えて飛びながら松川さんが呟く。そう言う松川さんは、以前よりはちょっと超越的な雰囲気になってしまった感じはあるけれども、やっぱり、わたしの知っている松川さんの延長線上にある人だよなあと思う。

 松川さんがわたしを抱えたまま足を出してクルっと反転する。その足に当たって真っ黒くろが一体吹っ飛んでいく。客観的には松川さんが足を出したところに真っ黒くろが自分から吸い込まれてきたかのように見える。未来予知。

 別のビルの屋上に降り立つ。

 「ほら、援軍よ」

 松川さんが視線でちかくの電波塔のほうを指し示す。よく見ると、電波塔の尖ったてっぺんに、剣を肩に担いで直立している小さな人影が見える。コートかなにかが風にはためいてバタバタと激しく揺れている。

 わたしはアチャーと右手で顔を覆う。相変わらず厨二病ね、と、松川さんは辛辣である。うん、あの人はああいう尖ったところのてっぺんに立つのとか大好きだね。ナントカと煙がどうたらこうたら。

 人影が飛ぶ。空中で真っ黒くろを両断し、それを足場にしてまた跳んで別の真っ黒くろに斬りかかる。それを繰り返してジグザグに空中を移動しながら、こっちに降りてくる。

 「ほっちゃん!」

 わたしはその人を呼ぶ。駆け寄る。そこにまた別の真っ黒くろが襲い掛かって来る。ほっちゃんはわたしの手を引いてクルリと引き寄せながら、もう一方の手で剣を振って真っ黒くろを両断する。

 「俺の世界で好き勝手やってくれてんじゃねぇぞ、三下風情が」

 う~ん、なんだろうね。逆にその三下てきな雰囲気がアリアリな台詞。小物っぽいよ。

 日下部穂高。いちおうこの世界の創造神。のデータがインストールされた泥人形。のなりそこない。

 まあ、これでも世界レベルの強キャラであることには違いがないんだけど。別に最強ってわけではないのがなんとも。今のところ、最強は松川さんだから、自意識と現実の間に齟齬がある感じは否めない。そこそこ売れてはいるけれどもビッグマウスすぎるインディーズのバンドマンみたいなつらさはある。

 「お!ま!た!せ~~~~~!!!!」

 と、上空からなにかが降って来る。着地寸前で謎の逆噴射(なにを?)をして、フワリと屋上に降り立つ。上空を通過する航空機から飛び降りてきたらしい。重力を無視してふわふわと揺れる黄金に光り輝く髪。ベージュのトレンチコートにキャスケット。風にはためいてチラチラと見えるコートの裏地がルイヴィトンのモノグラムで、うーんブルジョワジー。バカみたいに大きな、これまたルイヴィトンのトランクを提げている。

 「サワメグ!」

 わたしがそう呼ぶと、サワメグは振り返ってウインクして、チッチッチと人差し指を振る。

 「もう沢城じゃないデース!いまはレイメグでぇ~ス!」

 魔法少女、沢城恵。略してサワメグ。去年カナダ人シェールガス田王の大富豪、レインハート氏と結婚してメグミ・レインハートになった。いや、だからと言って、カタコト日本語帰国子女芸風になってるのはおかしいでしょ。アンタは純粋な日本人でしょうに。ウザさが二倍増しである。

 「わたしが来たからにはもう安心デース!ちゃっちゃと終わらせマース!」

 サワメグ(レイメグ?)が、トランクを地面に置いてパカっと開く。

 「出ておいで。黙示録の獣」

 あっさりとカタコト帰国子女芸風を投げ捨てて、正しい日本語のイントネーションでそう呟く。

 トランクからすごい量の光が柱になって上空に立ち昇り、それが展開して夜空に巨大な魔法陣を描く。魔法陣は回転しながら拡がっていき、あっという間に夜空の大穴さえも包み込む。

 「食らい尽くせ」

 サワメグの命令で魔法陣から出現した巨大な巨大な赤いドラゴンの首が大口を開いて、夜空にあいた大穴じたいを丸ごと全部呑み込んでしまう。呑み込んで、出てきたときと同様に、あっという間に細かい光の粒子になって消えてしまう。

 吹き荒れていた風がやむ。

 「終わった……?」

 夜空は地上の明かりを写した、#000000よりはいくらか明るい黒。そして、大きなまん丸の満月が浮かんでいる。

 何事もない、いつも通りの平穏な夜だ。

 「いったいなんだったのよ……」

 わたしが呟くと、サワメグがトランクを閉じてパチンパチンとロックをしながら言う。

 「異世界からの侵略デースね。まあ、一切のコミュニケーションが成立していないから、アレに本当に侵略の意図があったかどうかなんて分からないけれども。どっちにせよ、あの大穴のせいでこの世界のエナジーがどんどん吸い出されていたし、向こうの世界のほうがエナジーの密度が希薄だったのね。意図がどうあれ、このままだとこっちの世界が滅んじゃうから、向こうの異世界を丸ごと食らい尽くして滅ぼした」

 ああ、穴どころか、向こうの世界を丸ごと全部滅ぼしちゃったのか。かわいそうに。いや、別にそんなこと、本当はわたしも思ってないけれど。

 「まあ、よくあることデース!」

 そう、これぐらいのことは、よくあることだった。最初に予告したとおり、こんなのはわたしたちのまったく退屈で安定的な日常の一部に過ぎないのだ。

 「あー、久しぶりに動いたらお腹空いちゃった。どうする?せっかく珍しく集まったんだし、これからどっかになんか食べにいく?」

 と、背伸びをしながらメグミ・レインハートが言う。

 「悪いけど、わたしは遠慮しておくわ。いまから戻ればまだサンフランシスコでモーニングに間に合いそうだし」

 そう言って、松川さんはふわっと飛び上がり、空中で翼をバレット型に畳んで、そのままものすごい速度で地球周回軌道まで上昇していってしまう。日本-アメリカ間をカジュアルに往復しすぎである。

 「あーあー、相変わらず付き合い悪いなぁ」

 夜空に消えていく点を見送りながらそう言っていたメグミ・レインハートも、「あ、わたしも旦那が迎えを寄越したみたい。仕方ない帰るか」と、飛来したヘリコプタから垂れている縄梯子に捕まって「じゃ、そんなわけでまたネー!」と、現れた時と同じぐらい唐突に帰って行く。昔っから変わらず、突然やってきて突然消える、嵐みたいな人なのだ。

 「さて、わたしたちも帰ろうか。ほっちゃん」

 わたしはほっちゃんを見上げてそう言いながら、左手を差し出す。左上斜め20度くらいのほう。いいバランス。

 ほっちゃんは、右手に持っていたエクスカリバーをヒュイっと虚空に消して、わたしの手を握る。


 はい、そんなわけで、みなさんどうもご無沙汰しております。中萱梓あらため、日下部梓で御座います。

 うん、そう。実は結婚したんだよ。日下部穂高くんと。

 さて、どこから説明したらいいものか。まあ要するに、わたしはほっちゃんのエクスカリバーで半分にされて腰から下を失ったんだけど、それでも死ななかったってこと。

 この国には古来より鬼と呼ばれる種族が存在している。

 圧倒的な身体能力と戦闘能力を誇り、極めて強靭で殺すことが容易でなく、そのうえ人を食う。

 極めて強靭で殺すことが容易でない。

 クォーターゆえに戦闘能力はからっきしのわたしだけれど、死ににくさに関してはいっちょまえに鬼であったらしい。とはいえ、失った下半身が生えそろうまでに丸二年も掛かったので、当然、高校は中退することになってしまった。

 そんなわけで、正常な社会のルートからは多少外れてしまったわたしだけれども、お母さんのヤクザ稼業を引き継ぐことで、まあなんとかそれなりに生きていくことはできている。

 なにしろ丸二年もろくすっぽなにもできない状態で寝転がっていたので、本だけはたくさん読んだし、あとは神の知識の一端をインストールされたほっちゃんがよくお見舞いに来てはなんぞかんぞと話はしてくれていたので、頭だけは良くなった。うん?なんですかその怪訝そうな表情は。こう見えても、わたしわりと頭が良いのですよ。少なくとも、ロクデナシばっかりの寄り合い所帯をそれなりに運営していける程度には。

 そうそう、ほっちゃんは別に元に戻ったりとかもしてなくて、あのままちょっと厨二病拗らせたみたいなややこしいキャラのまま。

 結局のところ、神をインストールするにはハードウェア的な性能が足りなかったってことなんだろうね。まあ、ちょっと人が変わっちゃったようなところはあるけれども、でも、どっちかって言うと、神をインストールした後のほうが、前よりも人間に近づいたような感じがある。

 それでいいのか?って言われても困っちゃうんだけど。そうね、たとえば、わたしがある映画を見たとして、その映画の影響で考え方が大きく転換したとするじゃない?そうすると、もうその映画を見る前のわたしと、映画を見たあとのわたしとでは、もはや同じ人格とは言えないわけで。でも、そうは言っても、やっぱりわたしはわたしじゃない?つまりはね、そういうことなわけよ。

 まるで人が変わってしまったようだ、なんて言ったところで、結局のところ、人の同一性を規定するのなんて、その身体の同一性なのだ。

 ほっちゃんは、前とはちょっと変わってしまったけれども、相変わらずわたしはちゃんとほっちゃんのことが好きだし、ほっちゃんも、たぶんわたしのことを好きでいてくれているっぽいから。わたしには、そのように見えるから。

 まあ、それでいいんじゃない?


 「あー、やっぱお腹すいたねー。なんか食べにいけばよかった」

 「冷凍のサバなら家にあるぞ」

 「あ、サバいいね、サバ。サバ味噌にしよう」

 

 わたしとほっちゃんは手を繋いで歩く。歩きながら、他愛もない話をする。

 人食い鬼に魔法少女に神のなりそこないに吸血鬼。みんな異常で、異常は異常のままで。

 それでもなんとか、それぞれに、お互いに、いろいろどうにか折り合いをつけながら。

 あっちもこっちもバグだらけで、いつ不意に世界が終わってもおかしくない、ギリギリの危ういバランスの上で、不具合の出たところを対症療法てきになんとか潰したり隔離したり修正したりして、どうにかこうにか回しているだけの欠陥だらけのこの世界で。


 あなたと一緒に、生きていく。

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