15

 夕日が落ちる頃、答えを出した。


 すごく悩んだ気もしたし、もしかすると初めからこの答えのために考え続けていたような気もする。


 それから、早めの夕食を取った。少し湿っぽい表情をしていた自覚はあったけれど、腕の不調が心因性だと思われていることで、そこまで深く両親には突っ込まれなかった。


 部屋に戻ると、まだ時刻は六時を過ぎた頃なのに、中は真っ暗だった。少し迷ったけれど、部屋の電気は点けないまま、ベランダのカーテンは開けておいた。向かいの窓からは光は漏れてこない。やっぱりそれに、少しだけ寂しさを感じた。


 そしてまた、ベッドの上に座る。けれど、もう考えることはない。迷うとしたら、智己と話してからだ。自分の考えをちゃんと言葉にして伝えて、それからの話だ。


 ひっそりと夜がやってくる。


 昨日と同じだ。

 二回目のひとりの夜だった。


 これまでの夜はずっと幸太郎が隣にいる夜だったけれど、今は違う。


 自分ひとりで、人と向き合って、自分で決める。そんな夜。


 夜がこんなに寂しいものだとは知らなかった。心細いものだとは知らなかった。それでも――。



 こんこん、と窓を叩く音が聞こえた。



*



「答え、出してくれた?」


 真維の隣に座った智己は、ゆっくりと問いかけた。

 その表情は、不安げなような、期待しているような、けれど諦めているような――、そんな、複雑なものだった。


「うん」


 と、真維はしっかりと頷く。そこから続けて。


「智己が、あたしとずっと一緒にいたいって言ってくれて嬉しかった。好きって言ってくれて、嬉しかった」


 噛みしめるように、しっかりとそれを相手に伝えようと、ひとつひとつの言葉に思いを込めて口にする。


「でもね」


 真維は、左隣に座る智己の右手首をぎゅっと握った。


「『永遠』には、ならない」


 はっきりと、そう言って。それを聞いた智己は。


「……そっか」


 と、泣きそうな顔で頷いた。


「……ごめん、困らせて。私――、」

「そうじゃないよ」


 立ち上がろうとした智己を、その手を引っ張ってまた座り直させる。


「……そうじゃないの」


 ゆっくりと、真維は左手を手首から離して、智己の肩に置く。


「『明るい部屋』と『暗い部屋』があるって、そう言ったよね?」

「……うん」

「あたしもね、『明るい部屋』が好きだよ」


 優しく、囁くように。


「でも、『暗い部屋』も嫌いじゃない」


 隣に座る智己の瞳を見つめながら。


「……今みたいに。智己とふたりでいる部屋なら」


 その言葉を、智己はどう捉えたらいいかわからないように、戸惑ったような顔になる。ぎしり、とベッドの軋む音がして、少しだけ真維が智己に近付いた。けれど、智己は少し後ずさる。


「……いいよ、そんな」

「そうじゃないよ。あたしは『明るい部屋』でも『暗い部屋』でもいい。だってあたしたち、もう出会ってるんだから」

「……出会ってる、から?」

「うん」


 真維は力強く頷いて。


「確かにね、生きてれば、幸せになったり、不幸せになったり、いろんなことあるわよ。簡単に始まるなら、簡単に終わることもあるかもしれない」


 真維は瞑目して。


「でも、それならまた始めればいい」


 はっきりと伝えられたその強い言葉に、智己は小さく動揺する。


「あたしたち、もう出会ってるんだもん。だったら何度だって始められる。いつだってふたりで幸せにも、不幸せにもなれる。未来のいつかに、すっごく『明るい部屋』になることもあるかもしれない」

「……でも」


 震える声で、智己は言う。


「すっごく『暗い部屋』になるかもしれない。何度だって終わっちゃって、いつか始められないときが来るかもしれない」

「『暗い部屋』だっていい。始められなくなったら、また始められる方法を探せばいい」


 その何の理屈にもなってない言葉に、けれど智己は反論できない。

 それは、言葉の強さの問題だった。


 結局のところ、智己はどこかで、自分の答えを否定されることを求めていた。だから、真維に初めに拒否されたとき、強引な手段に及ばず、簡単に引き下がろうとした。


 一方、真維は自分の答えを信じていた。たとえそれがどれだけ曖昧なものでも、彼女の気持ちのすべてだったから。


 だからこそ、真維の言葉は智己の答えを覆す。


「あたしね、まだ好きの順番とか全然わかんない」


 少しはにかみながら、真維が告げて。


「だから、まだちょっと智己のことわかんなくて、すれ違うこともあるかもしれないけどさ。でも、一緒にいようよ。一緒にいたい。『永遠』とか、そういうのじゃなくて、これから続く、ちょっとだけ長くて、ちょっとだけ短い人生をさ。ふたりで楽しんだり、苦しんだり。……そうやってさ」



――一緒に、未来に行こうよ。



 本当のところを言えば。


 智己は初めから、その言葉が欲しかっただけなのかもしれない。


 たった一言、友達から、これからの未来を、何が起きるかわからない明日の先をともに行こうと、ただ、それだけを。


 智己はその言葉を聞いて、真維の笑顔を見て、涙がどんどんと溢れてきて。


 けれど。


「……ごめん」


 彼女は、もう。


「一緒には行けない。ごめんね……、真維」




 その右の手のひらについた赤の花弁は、今やもう、祝福から呪いに似て。



*



 一緒に未来に行こう、と。


 部屋の中で痛いほどの静寂を感じながら、悠里が聞き取れたのはたったのそれだけで、ただひたすらもどかしかったけれど、隣に座っていた幸太郎にはその一言だけで十分なようだった。


 それから、涙交じりのふたりの声を聞きながら、幸太郎は立ち上がる。悠里は慌てて囁き声をかけた。


「ど、どこ行くんですか先輩」

「神社だ」


 そう言って、部屋の扉を無造作に開くと、当然のようにその先は桜の園になっている。どんどんと前に進んでいってしまうので、悠里は軽く走るようにしてその背中を追いかけていく。


「な、何するんですか。ていうか、真維先輩たちはどうなったんですか?」

「あいつらはこれからも生きていくことを選んだ」


 きっぱりと言った後、幸太郎は、出すぞ、と悠里に向けて呟いて、悠里が、何を、と尋ねる前にそれは姿を現した。


「――ひ」


 真っ赤な桜。この世の理から外れたような、あまりにも圧倒的な桜を。悠里は眩暈を覚えたが、けれど今度は以前よりも軽く済んだ。


 幸太郎はその赤の桜に迷いない足取りで近付いて行き――。



 べたり、とその樹についた赤の花弁の印に右の手のひらをつけた。


「な――!」


 せんぱい、と声をかける暇もない。

 幸太郎が手を触れた場所から真っ赤な花が無数に咲き誇って全身を一瞬のうちに覆ってしまい、それからぱりん、と硝子のように割れ散った。


 ぐらり、と幸太郎の身体が傾いで、悠里は駆けつけてそれを支える。


「な、何してるんですか!」

「あまり触らない方がいい」


 唸り声のような幸太郎の言葉に、悠里が支える手を思わず緩めると、幸太郎はゆらゆらと頼りなく立ち直る。そこで悠里は幸太郎の姿を改めて見て気が付く。


 異様だった。

 全身の血の気が引いて、深海の生き物のように肌は白く、眼球は薄黄色く濁ったような色をしている。


 大丈夫ですか、と言おうとして、一言も声にならなかった。代わりに悠里は無意識に後ずさった。


 それからまた、幸太郎はふらふらと揺れながら、桜の印にべったりと右の平手をつける。


 その次は、桜の番だった。


 幸太郎が低く唸りながらじっと桜を睨み付けていると、桜の樹が脈打つようにぞわぞわと揺れ出す。これまでの幻想的な桜とはまるで違う。それはまるで生物の血脈のようにどくどく暴れ出す。


 悠里はひどい恐怖を感じた。赤の桜を見たときも、あまりにも巨大なものと対面したような、そんな言い様のない恐れを感じたけれど、今はそれが何か、取り返しのつかない事態を引き起こそうとしているようで。


 思わず震える声で叫んだ。


「ど、どうするんですか!?」


 もう何度目だろう。漠然とした問いを投げかけて、けれど今度は幸太郎の答えよりも早く見た目のはっきりした変化が訪れる。


 周囲の白い桜も、波打つように揺らぎだしたのだ。


 そして、その桜の樹から、無数の人間の手が生えてきた。

 その手のひらの赤の花弁のマークをゆらゆらと、けれど必死に、何か救いを求めるようにかき分けながら。


 呪いのような、光景だった。


 悠里は声にもならない小さな悲鳴を上げて、幸太郎に駆け寄った。幸太郎はぐるぐると、何もないところに視線を巡らしながら、けれど限界じみた表情で集中している。

 それから、低く呟くように悠里に言う。それは、先ほどの問いかけへの答えだった。


「……ここの、接続を、お、が管理す」


 喉から絞り出すような言葉に、悠里はまだ理解が追い付かない。その間に答えが重ねられる。


「よぶん、を。消して、あいつの、も」


 そこで悠里はようやく思い出した。昨夜の幸太郎の言葉。

 『神との接続』『大元』『ムラ』。つまり。


 今、幸太郎は、この場所の接続を、自分が大元に働きかけることによって整理しようとしているのだ。


 理解した瞬間、突風が吹いたように赤の桜が揺れた。それに共鳴するかのように白の桜も揺れ出して、それがどこまでも伝播していく。


 ある種の、理解不能な鳴き声のようにも聞こえた。


 その音とともに、ずるり、ずるり、と桜の樹からぬめるように人が這い出てくる。それらはそのまま這いつくばって、幸太郎を中心にして群がってくる。当然、その幸太郎の隣にいる悠里にも。


「ひ――!」


 先ほどの幸太郎の言葉も忘れて、悠里は幸太郎にしがみつく。そしてそこで幸太郎の体温の異常に気が付いた。

 服越しでも火傷しそうなほど熱くなったり、凍り付いてしまいそうなほど冷たくなったりの体温の上下を高速度で繰り返している。


 悠里はそれに得体のしれない恐怖を感じたけれど、それでも離れることはできなかった。

 べと、べと、と桜の樹から生まれ出た人が集まってくる。一歩、一歩とその距離は近付いて行き、悠里は思わず目を閉じて、あと指先ひとつという距離になって。


 ふっ、と。幸太郎の身体から力が抜けた。


「え――?」


 不意をつかれたように悠里が幸太郎に目を向けた瞬間に。



 赤の桜の色が、鈴の鳴るように抜けた。



 あれほど赤かった桜が、その大半の色が抜けて薄く紫がかったような淡紅色になり。

 一方で白い桜は、同じように色付いていく。


 それから悠里たちの周りに集っていた人間たちも、淡紅色の花を全身に咲かせる。

 それがぱりん、と割れ散って、けれどもうそこに人の姿はない。


 散った破片が小さな光になって、空に上っていく。

 そのひとつひとつが、夜の闇を少しずつ、一粒ずつ晴らしていって、どこまでも遠く空は遥かに晴れ渡っていく。


 そうして、それがすべて終わった頃には。



「……天国みたい」



 光満ち溢れる、桜の楽園が。



 その光景に目を奪われて、少しだけ腕に力を入れて、その感触に気が付いた。

 ふとその方向に目を向けると、幸太郎が困ったような顔をしている。そこで悠里は、そういえばさっき抱き付いていた、と思い出して慌てて離れた。


「す、すみません」


悠里の謝罪に、幸太郎は苦笑で答えた。


「先輩、その髪――」


 楽園になったこの場所で、幸太郎にも変化があった。その髪は、桜と同じ淡紅色に染まっていた。

 幸太郎は指で少しだけ毛先をいじって、ピン、とはじいた。


「……どうなったんですか」


 と、また悠里が大雑把な質問を投げかければ、また幸太郎はその意図を汲み取って応える。


「『永遠』に耐えられる人間なんて、そういないんだろ」


 静かな声は、どこまでも澄み渡って聞こえた。


「泉谷みたいになってから後悔するやつもいるし、きっと無理にここに連れ込まれたやつだっていた。そういうのが積もって、この場所を歪ませてたんだ」

「えっと……、それが『接続ムラ』ってやつですか?」

「だろうな。で、今俺が大元に接続して、もう望んでない分の接続を切ってそれを解消した。空に昇ってったのはもう命が残ってないやつだろうけど、それ以外は……、生き返った、って言えばいいのかな」

「じゃあ、先輩たちは……!」

「解放されてるはずだな」


 よかった、と悠里は胸を撫で下ろした。ということは、ふたりは今まで通りに戻るのだ、と。そこまで理解して。


「あの、先輩は、どうするんですか……?」


 気付いてしまった。

 幸太郎は寂しげに微笑んで。


「……俺はここに残る」


 声が出なかった。そんな――、と。それすらも。どうして、と。悠里がそれを聞くための言葉を探しているうちに、幸太郎は問いかける。


「上沢、この場所を見つけるための条件、覚えてるか」

「あ――」


 言われて、思い出した。自分が持ち込んだ噂話。それは、『永遠を求める者の前に姿を現す』と――。

 あのとき、三人で智己を探しに来たとき。この神社を見つけたのは――。


「じゃあ、初めから――」

「……ま、そういうことだな」

「まい、せんぱいは」

「……どうかな」


 短い悠里の言葉で、けれどその意図を読んだように答えを濁す幸太郎に、また悠里は涙がこみ上げてくるのを感じた。


「……ずるいですよ」

「……」

「何でもわかってるのに、自分のことだけ何も言わずに、ひとりでどこかに消えちゃうんですか」


 ずるい、と泣く悠里は、けれど自分がなぜ泣いているのかわからなかった。

 たった三日だ。悠里が幸太郎と一緒にいた時間はたったそれだけで、結果として真維と智己は帰ってきて、ほとんど見知らぬ人間がどこか遠くへ行ってしまうだけ。

 こんな風に泣く理由なんて、どこにもないはずなのに。


 理由もわからず泣く悠里に、幸太郎は困ったような、優しい顔で。


「……別れは来るんだ。いつかはきっと」


 自分自身すらわかっていない、悠里の心を読んだかのように。


 その言葉が、またわけもなく悠里の心に刺さって、かえって強く泣きじゃくる。幸太郎はますます困った顔をして、けれど静かに唇を開く。


「真維のことが好きか、って。上沢は聞いたよな」


 その声に悠里は顔を上げる。


「お前にだけ、答えを言うよ。誰にも教えるなよ」


 そう言って、一歩近づいて。


 桜の楽園で、幸太郎は秘密めいた、とびきりの笑顔で、こう言った。




「大っ嫌いだよ。ひとつも愛してなんかない」




――ああ、この人は。


  嘘のときだけ、堂々と。





 そう言って、ゆっくりと悠里の前に、薄紫の印がついた右の手のひらをかざして、視界を覆って。


 その手が離されたときにはもう、悠里は幸太郎の部屋にいた。


 きょろきょろとあたりを見回した悠里が、ゆっくりと部屋の扉を開けて、その先は何の変哲もない廊下だった。



 楽園は、悠里の前から消えた。


 たったそれだけの、終わりだった。

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