ガールズ・トーク
8章「やさしくやわらかい人」で、
モーリス出版社 元社員・片桐薫
に、お茶に連れ出された
新人メイド・はるちゃん
の、悩み事相談から始まります。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
悩み?
それは、職場の人間関係です。
怖い上司がいるんです。
私は一乗寺家のメイドです。まだ働き始めたばかりです。仕事にはあんまり慣れてないかも。
それで、しょっちゅう、古海さんに叱られてます。
古海さんは、家令です。お金の管理が主な仕事です。それなのに、メイドの仕事にまで口を出してきて……。
怖いです。がみがみがみがみ。それはもう、怖い人です。
相談できる人? メイドの先輩がいます。篠原もなみさん。私の教育係です。
もなみ先輩は、古海さんのアレは、単なる欲求不満だから、気にするなって。
でも、ひどいと思いませんか? 古海さんは、私が文学少女なのが、気に入らないんです。
ええ、久條泰成の大ファンです。純文作家の。彼、すごいイケメンで、かっこいいんです。
学校に行ってた頃、私、いじめられっ子だったみたい。お母さんが、そう言って、悩んでたから。
私? よくわからないです。
だってずっと、久條先生のご本を読んでいたから。
無視もひそひそ話も仲間外れも、そういえばあったけど、でも、全然、気になりませんでした!
そんなの、どーでもよかったんです。
だって、私には、久條先生のご本があったから!
先生は私の、ヒーローです!
え? 薫さん、久條先生のこと、知ってる?
フランスまで評判が届いてるんですか!?
すごい! さすが、久條先生!
久條先生の小説? よよよ、読んでますよ!
えと、あらすじ、全部言えます。本の後ろに書いてあるあらすじ、暗記してますから!
もちろん、本だって、全部、持ってます! どれも、発売初日に買ってます!
典子お嬢様とは、ツイッターで知り合いました。
お嬢様は、久條先生のご本のあらすじを知りたがってて。
で、わたしが教えて上げました。
そしたらお嬢様は、メイドに採用してくれました。
もちろん、アカウントは本名じゃありませんよ。やだなあ。そんなこと、するわけないじゃないですか。
どうやって、名前や住所を知ったか? ……はあ。そういえば、そうですね。お嬢様、きっと、魔法を使ったんだと思います……。
引きこもりやってて、家に居場所がなかったから、メイドに採用されて、嬉しかったなあ。
え? いじめや引きこもりのこと、よく知らない人にぺらぺらしゃべっちゃって、大丈夫かって?
大丈夫ですよ。だって、みんな、なにかしら抱えてるもんでしょ? もなみ先輩だって、小さい頃、虐待……あ、はっきり聞いたわけじゃないです。つか、先輩、全然気にしてないし。
今度、お嬢様の会社が、久條先生の本を出したんです。
フランクフルトで、とてもよく売れたって、本谷さんが。
本谷さん。ご存知ですよね?
あなたの後任です。
お嬢様の会社の、社員さんです。
あのね。私、サイン本、貰っちゃった!
しかも、直接手渡しで!
ナマ久條先生は、ド迫力のイケメンで、目がね。まつ毛長くて。
それでもって、本を渡す時、すごく優しくて。私をじっと見つめて、ありがとう、って。
信じられる?
ありがとう、だって!
きゃっ。
もうね。
好き好き好き好き、だぁーい好き!
久條先生、私は一生、先生についていきます!
……え?
そういえば、サイン会にはお嬢様に連れて行ってもらったんだっけ。お嬢様の会社の本だから。
……お嬢様にも一生ついていくかって?
何、言ってるんですか。もなみ先輩以外のメイドは、お嬢様のお部屋に近づいちゃいけないんです。
会社にも、社員さんにも。
つまり、本谷さんですけど。
古海さんに、厳しく止められてるんです。
古海さんは、本が嫌いなんです。
だから、私が先生の御本を読んでると、ものすごぉく、不機嫌になります。
特に、久條先生のサイン本ね。
『悲恋』っていうんですけど、この本、表紙を見ただけで、古海さん、不機嫌を通り越して、露骨にキョドるんです。
壁にぶつかるわ、段差もないのに躓くわ、ドアに挟まれるわ……。
あんまり様子がおかしいんで、もなみ先輩が、本にカバーをつけちゃいました。
もったいない話ですよね!
……。
よく知ってますね。
表紙の写真、本谷さんの写真です。
ええ、確かにちょっとアレですけどね。まるで、ヌードみたい。後ろに別の男の人が立ってるし。
……裸で。
でも、芸術なんです!
だって、久條先生の御本だから!
なんだかね。
古海さん、久條先生と張り合ってるみたいなんです。
ほんと、身の程知らずですよね!
イケメン度でも、筋肉マッチョムキムキ度でも、それにもちろん、文学の才能でも、到底勝ち目なんてないのにね!
本当、変な人。
変、っていえば、古海さん、かりんとうばかりくれるんです。意地悪した後に。
え? 違いますよ。
古海さんが直接くれるんじゃなくて。いつも、もなみ先輩が渡してくれるんです。さっき、古海さんがくれたよ、って。
だから、次に会った時にお礼を言うと、すごく照れくさそうな顔をします。そこだけ見ると、普通の人に見えるのが、不思議。
おまじない?
よく知ってますね。
「かりんとう」は、悪魔祓いのおまじないです。つか、この場合は、意地悪な上司祓いですね。
ええ、もなみ先輩が教えてくれました。
は? 悪意の源がわかった?
……それって、どーゆー、
ええっ! 悪魔祓いのおまじないは、間違い?
ででででもっ!
このおまじないのおかげで、私は古海さんに殺されないですんでいるわけでっ!
大丈夫? 古海さんは、人殺しだけはしたことない? 他にはいろいろやってるけど?
って、それ、どうなんですか? やっぱり悪い人だったんですね!
殺される……。
古海さんに、殺される。
なぜって、私……。
だ、だいじょうぶです。お茶を飲んだら、落ち着きました。
いい香りのお茶ですね。
はい、せっかくだから、ケーキも、いただきます。
あ!
このお菓子、おいしい! ふわふわしていて、ステキに甘くて。それに、いちごやチョコの飾りが、とってもカワイイ!
ああ、本当に、いい天気。
お屋敷の外でお茶するのって、久しぶり。
あなたは、典子お嬢様の、前の部下ですよね。
本谷さんの前の。
モーリス出版社の、社員だった。
私の話、内緒にしてくれますよね?
……。
実は、私が古海さんに殺されるかもしれないって思うのには、理由があるんです。
コワイ話なんです。
絶対絶対、古海さんには秘密にしてくれますね?
それは、本谷さんのことです。
あなたの後任で、久條先生の本の表紙になった……。
そして、古海さんが、とても大事に思ってる、謎の人です。
……古海さん、しょっちゅう、突き放されてますけど。
ええ、たくさんのメイドが目撃してます。手を振り放されてるところとか、突き飛ばされてるところとか。
とにかく本谷さんは、古海さんを、どつくことのできる、貴重な人材なんです。
……私。
その本谷さんの、恋人と間違えられちゃって。
本谷さんのおじいさまに。
そのうえ、事故です、本当に事故だったんですけど、あの人の胸にもたれかかってしまって。
こんなことが古海さんにバレたら、間違いなく私は、殺されます。
……怖いよう。
**
晴海は、心の底から、怯えていた。
おまじないが無効?
そしたら、これから先、自分は何を武器に、あの黒服の魔物と戦えばいいのか。
絶望に浸りながらも、ケーキを、もう一口、食べた。
甘く濃厚に、口の中でとろけるようだった。
世の中には、こんなにおいしいものがあるのに、と、泣きたくなった。
向かいに座った薫さんが、ほほ笑んだ。
今度、辛いことがあったら、このケーキの味を思い出すといいわ、と、薫さんは言った。
なぜって、かわいくておいしいお菓子には、人を幸せにする魔法がかけられているから。
ほら、これは、魔法のケーキよ!
魔法のケーキ?
晴美は、しげしげと、皿に残ったケーキを見た。
温められた皿の上の、あまいあまい、お菓子。
体に染み渡るほどおいしくて、その上、食べてしまうのがもったいないくらいに、愛らしい。
もしかしたら、魔法のケーキというのは、本当なのかもしれなかった。
また一緒に、あまいお菓子を食べましょ。
そう言って、薫さんは笑った。
心に残されていた、最後の霧が晴れたような気が、晴美は、した。
なんでモーリス出版社を辞めたのか、晴美は聞いてみた。
薫は、ゆったりと笑った。
そして、話し始めた。
**
「それは、臆病です。もっとまっすぐ、貪欲に、求めなさい。なぜ、幸せから逃げようとするのです」
背の高い黒服の青年はそう言うと、背を屈めた。
銀縁の眼鏡の奥の目が、すっと細くなる。
顔を覗きこまれ、お仕着せにも似た紺色の服を着た人影はたじろぐ。
「わたしは臆病ではないし、逃げてなんかいない」
「ああ、世間一般からみたら、あなたは勇敢なんでしょうね」
青年の声には、からかうような響きがあった。
「なんといっても、あのお嬢様……一乗寺典子の下で働いてきたのだから」
「典子さんのことを悪く言うのはやめて!」
「悪くなんか言ってませんよ。褒めているのです。本当にあのお方は強い。その強さを、本人が自覚していないだけに
「褒めているようには聞こえない」
「どうしてどうして。大企業にケンカを売る。ひっそりと生きている人に光を当て、流行の渦に叩き込む。受け容れられないと言われても、強引に売りつけようとする……」
「わたしたちは、信じているから」
「信じている? 何を?」
「それによって、救われる人がいるということを」
「ふん」
青年は鼻で笑った。
整った顔立ちが歪み、悪魔のような表情が覗く。
しかしそれはすぐに消え、育ちの良さそうな善良さが取って変わった。
見せかけだけの善良さだ。
「それは、自分の幸せを犠牲にしてまでなすべきことですか? そもそも、己を犠牲にして誰かを救えると考えるなんて、傲慢ではないのですか?」
「自分を犠牲にするなんて、思ってないから」
「本当に? では、彼はどうです。あなたにプロポーズした、あの人は」
「……」
「あなたの選んだ道の先に、彼はいますか?」
「……彼の為よ」
「賢明です。ここは、日本ですからね。息苦しさはお家芸だ」
軽蔑するように青年は言った。
薄い酷薄そうな唇から、尖った白い歯が覗く。
「特に、彼のいる社会は。閉鎖的で横並び。良くも悪くも平均から外れると、足を引っ張られる。それがどんなにちょっとでも。ましてやあなたのような性向をお持ちの方を家に入れたならば……。そうですね。彼の為を思えば、身を引くのが賢明だ。しかし」
青年は背中で腕を組んだ。
屈んでいた背筋が伸び、本来の身長が甦った。
「あなたの幸せはどうなのです? 本当にそれで、いいのですか?」
「……」
「このさき最後の息を吐き出す瞬間まで、その決断を、一度の後悔もしないと誓えますか?」
「……」
「誓えますまい。それでいいのです。未来永劫を誓うのは、詐欺師だ」
「……だって、今さら、」
「試してみたらいい。ただ、やってみるだけでいいんです。」
「……どうやって? なにから始めたらいいの……?」
黒服の青年は、薄く笑った。
「ただ、彼の腕の中に飛び込みさえすれば、それでいい」
「そんなに簡単なことじゃないでしょ」
「それが、臆病だというのです」
きっぱりと青年は言った。
「あなたは幸せが怖いから、一度つかんだ幸せに裏切られるのが怖いから、逃げているのです。あなたは臆病だから、典子お嬢様のそばにいるんです」
「……」
黙り込んでしまった薫を見下ろし、一転して、諭すような優しい口調で青年は言った。
「それに、失敗しても、大したことじゃない。また、ここへ戻ってくればいいのです。典子お嬢様は、ずっと、ここにいる。たぶん」
「……典子さんを裏切って利用するような真似、できない」
「裏切りではありませんよ。困った人ではありますが、そんな風に思うほど、あの方は、狭量じゃありません。幸せを求める人を、裏切り者だと思うほど、ね。それに……」
「それに?」
「それにあなたが……不幸にも……戻ってくることがあったらなら、単純に喜ぶと思いますよ。その時、たとえあなたが傷心であっても、あの満面の笑みを見れば、心はたちまち、癒されるでしょう」
「……」
初めて、薫の顔に理解の色が浮かんだ。
黒服の青年と薫は、顔を見合わせて微笑んだ。
深い合意がなされた。
「さ。お行きなさい」
薫はおとなしく頷き、樫材のドアへ向かった。
立ち止まり、振り返った。
「典子さんのこと……よろしくお願いしますね」
「はい」
「あの方が悲しい思いをしないように。いつまでもあの方でいられるように。そして、人々の善意に包まれて、幸せに生きて行けるように。あなたが、見守っていてあげて下さい」
青年はため息をついた。
「これも、前世からの腐れ縁なんでしょう。大丈夫。ええ、ええ、大丈夫ですとも。たとえこの身がもろともに腐ろうとも、決して、あの方を見離したりしません」
「あなたが腐るのですか?」
薫はおもしろそうに微笑した。
「それは……見ものですね」
「はやくお行きなさい」
むっとしたように青年は言った。
華やかで幸福そうな笑顔を残して、片桐薫は、部屋から出て行った。
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