この世の奇跡を守れ



 ……これは!


 一目来客を見て、参事官秘書、倉科くらしな久美くみはうなった。

 心の中で。


 ……の言ったとおりだわ。

 ……異世界からの使者。冷酷な騎士。

 ……なんて美麗な。


 振りまかれる濃厚な色香に、久美はくらりとした。



**



 きっかけは、10月に開催された同人誌即売会「6月の庭」だった。

 久美はそこで、自作の漫画を売っていた。


 一応、久美は公務員である。同人誌を販売していることは、職場には内緒にしている。納税できるほどの黒字は出していないのだが。


 「6月の庭」でも、久美はヒマだった。

 お客がちっともつかないのだ。


 もしかして一冊も売れないのかも、と焦り始めた午後2時、久美の机の前に人が立った。

 おずおずと薄い本を手に取り、ぱらぱらとめくり始めた。


「官僚BL?」

その人は尋ねた。

 久美は大きく頷いた。

「一冊、下さい」


それが、山田ハナコとの出会いだった。


 本を買ってもらっただけだったら、それだけの縁だったろう。

 しかしその時、久美は、猛烈にトイレに行きたかった。

 即売会は午前11時から午後3時まで。

 一人で参加していた久美は、席を空けるわけにはいかない。


 トイレくらい、気合で我慢するつもりだった。

 その間に、大事なお客様、将来の読者様がいらしたら困るではないか。


 しかし、お昼に一口飲んだウーロン茶が、理不尽に冷たかった。

 残り1時間。

 耐えきれる自信はない。


 「み、店番……頼めますか?」

 脂汗を流し、机の下でしきりと足を組み替えている久美を見て、ハナコは小さく頷いた。


 トイレから戻った久美は、ハナコが意外と年輩なので驚いた。

 うつむいてページを繰る姿は、とても若く見えたから。


 話してみて、もっと驚いた。

 彼女も公務員だったというのだ。

 「退職したばかりだけど」

小さな声で、ハナコは付け足した。


 目を上げ、小首を傾げた。

「あなた、私が持ち逃げすると思わなかったの?」

「持ち逃げ? 何を?」

「お金とか?」


 釣銭用の現金は、せんべいの空き缶に入れてあった。

 久美は笑った。

 自信を持って答えた。

「全然。だって、私の本を買って下さる方に、悪い人がいるわけないもん」


 驚いたことに、ハナコは久美の本、シリーズ物を全セット、売り切っていた。

 久美がトイレに行っている、僅かな時間に。


「さっき、知り合いが来たの。その人が買っていったわ……」

なぜか言いにくそうに彼女は言った。

「え? まだ近くにいらっしゃる?」


 久美渾身の力作、2・26事件を題材にした、警官と青年将校の悲恋の物語だった。薄い本ではあるが、5巻完結の、連載長編だ。

 それを、全セット、買い上げてくれるなんて。


 でも……。

 一人でそんなに買って、どうするのだろう。


「あっという間に一巻立ち読みしてね。おもしろいから、お父様の会社の人にも配るんだって」

ハナコが言った。


 深い感動が、久美の全身を包んだ。

「是非会って、直接お礼を言わなくちゃ」


 ハナコをその場に残し、久美は慌てて、その人の姿を探し始めた。

 だが残念なことに、すでに会場には、その人の姿はなかった。


 「彼女とは、あんまりお近づきにならない方がいいわよ……」

がっかりして席に戻ると、ハナコが言った。




 すっかり意気投合し、即売会終了後、二人でホテルのケーキバイキングへ行った(売れ残った本は、宅急便で送り返した)。

 口にフォークを運ぶ合間合間に話をし、お互いの情報を少しずつ、開示しあった。


 決定的だったのは、ハナコが、藤堂参事官を知っていたことだった。

 「絶対デキてると思うのよね、あの二人」

ラズベリーソースをたっぷりかけたアイスクリームを口に押し込みながら、久美が言った。


 小説のモデルの話をしていた。

 実の所、男同士のその二人が、本当にできているかどうか、久美は知らない。

 知るわけない。

 そんなことはどうでもよかった。

 妄想の原料にさえなれば。


 ミルクレープの層を剥がしていた山田が、首を傾げた。

「あの二人って? あら、あなた、そんな冷たいものを食べると、後でお腹が冷えるわよ?」

「大丈夫。……私の上司と、羽鳥って警視。ほんと、鳥の羽のように、きれいな人よ」


「羽鳥警視!」

ハナコの目に、驚愕の色が浮かんだ。

「じゃ、あなたの上司って、……藤堂雅彦……参事官?」

「え?」


まさか身バレするとは思っていなかったので、久美は慌てた。

「なぜ知ってるの?」

「だってあの二人、いかにもって雰囲気じゃない? いいえ、前にはわからなかったわ。でも、今は違うの。私にはわかる。あの二人は、絶対、デキている」


 山田は断言した。

 そのあまりの自信に、久美は、藤堂参事官と羽鳥警視は、本当にできているのだと、納得してしまったくらいだった。

 だが。


 ……そ、そこじゃない。

 ……なぜ、藤堂参事官、私の上司の名が、この人の口から?


 驚きと疑念を抱きつつも、久美は、叫ばずにはいられなかった。

「そうよ! きっと、勤務中にも愛し合ってるんだわ。だって、よく二人きりで、参事官執務室に閉じ籠っているもの。しっかりと鍵をかけて」


 幸い、バイキングの喧騒に紛れて、久美の声は、すぐにかき消された。

 目を輝かせ、山田が言った。


「藤堂参事官が攻めで、羽鳥警視が受け。よね?」

「もちろん!」

久美と山田は、深く頷き合った。


 マロンのロールケーキに取りかかった久美に、山田は、つい最近まで、警察庁に勤めていたことを明かした。

「でも、心境の変化があって、カイシャは辞めたの」

抹茶のタルトを大きく切り崩しながら、山田は言った。


 カイシャ、というのは、警察を表す隠語だ。

 この人は嘘は言っていない、と、久美は確信した。



 結局、ハナコが7個、久美が13個、ケーキを平らげた。

 あらかたモトは取ったな、と久美は思った。


 「あなた、食べ過ぎよ。ストレスがたまってるのね……」

空になった久美の皿を見ながら、痛ましそうにハナコが言った。



**


 それを機会に、二人は連絡を取り合うようになった。

 会うと必ず、藤堂参事官×羽鳥警視の話になる。


 いろいろなことを想像し、それを話し合った。

 特に、窓から外を眺めている二人の姿は、山田のツボだったようだ。


「私も描きたい」

彼女は言った。

「描けばいいじゃない」

すかさず久美が応じた。


 「でも私は、久美ちゃんみたいに絵が上手じゃないから……」

「絵なんてどうでもいいのよ。萌えさえあれば」

「そういうものでもないのよ……」


妙に悟ったように山田は言った。


「ああ、せめて私に、文章が書けたなら……」

「書けばいいじゃない!」

「あら、駄目よ。就職してから三〇何年、ろくに小説を読んでこなかったし……つい最近、BLを読み始めるまでは。……私ね。久美ちゃんの漫画、絵だけじゃなくて、|お話(ストーリー)も、大好きなの……」


「じゃ、二人でストーリーを動かしましょうよ。時代背景を調べたり、ネームを考えたりね! それでもって、ハナちゃんも、作画も手伝ってくれたら嬉しい。背景とか、トーン処理とか」

「え? む、無理よ、無理。そんな、私になんかに……」

「デジタルだから大丈夫! 失敗しても、何度でもやり直しできるわ!」

「ほ、本当に?」


「ええ! それに、もし将来、ハナちゃんが小説を書きたくなったら、それにわたしが挿絵を描くのも、きっと楽しいと思う」

「将来……私にも、将来が……?」

「あたりまえじゃない! 萌えある限り、未来は続くの!」

「!!!」


対面で座っていたテーブルから乗り出し、山田は久美をハグした。


「『お庭』に、一緒にお店を出すことを目標にしましょうよ」

笑いながら久美は言った。

 照れくさそうに、山田も笑った。


「この年になって、生き甲斐ができるなんて。お友達ができるなんて!」

「何言ってんの! 腐女子に年齢は関係ないわ!」

「そうね。私、頑張る!」

「二人で官僚BLを盛り上げましょう!」


 30代の久美と、還暦間近の山田。

 年齢の差を超え、二人は、熱く誓い合ったのだった。





**



 昨日、その山田から連絡があった。

 ある人物を、藤堂参事官と面会させて欲しいという。


 「そりゃ、無理よ。藤堂と面会したいのなら、決められた手順でアポを取らなきゃ」

「そしたら絶対、断られるわ」

きっぱりと、山田は言い切った。

「そんな人を、なぜ?」

「どうしても断れない人からのお願いなの……」

電話線の向こうで、ため息が聞こえた。


「まさか、ヤバい筋からの依頼じゃ?」

「違う」

即座に否定した。

「モーリス出版社の、一乗寺典子という人なの」

「モーリス?」

その名に聞き覚えがあった。

「あの、国賊の?」

上司が、そう言っていたのを、久美は思い出した。


 山田の声が、微妙に揺らいだ。

「国賊? まあ、そうともいうかも。でも久美ちゃん、久美ちゃんは、BL弾圧に賛成じゃないでしょう?」


 山田と出会ってからも、BLの弾圧は、一層激しさを増していた。

 今では、書店でBLを見かけることはない。

 BL作家のブログも、凍結されたように更新がない。


 久美は答えた。

「仕方ないわ。少子化が改善されるまでの辛抱よ」

「久美ちゃん。私、カイシャを辞めた理由、話したかしら?」

「いいえ。ただ、心境の変化って聞いたわ」

「典子さんと、映画を観たの」

「国賊女子と映画を観たの?」

「ちょっと、声が大きい!」

「大丈夫よ。今、自宅だし」

「でも……」


公安警察に勤めていた経歴からか、山田はひどく用心深かった。


「ものすごいショックだった。あんな……なんていうか……不自然? 神の摂理に反する? 第一、不衛生じゃない! 両方とも、いろんな病気になりそうだわ!」

「……いきなり、凄いところからはいったのね」

「あら、そう? 典子さんは、私の為にセレクトしたっていってたけど」

「……」


「私、もうこれ以上、見たくないって言ったわ。だけど、典子さんは、決して諦めなかった。あの手この手で、いろんな作品を、私に見せたの」

「無理強いはいけないよね」


「もう、ご飯も喉を通らなくなってしまって。しばらく入院してたわ」

「まあ!」


「毎日毎日、病室の窓から空を眺めて。ショッキングな映像を、一刻も早く、頭から消そうとしたわ。でも、どうしても消えてくれないのよ! ふと気がつくと、|そのこと(・・・・)ばかり考えていて……」

「ハナちゃん……|あれ(・・)は、|妄想(フィクション)なのよ?」

「わかってる。でも、考えずにはいられなかったのよ」

「よっぽどディープな作品だったのね」


「そしたらね。ある日ふと、病室から見上げる空が、とても青い、ってことに気がついたの。青くて高くて、澄んでいたわ。そして、……ええ、わかったの。いつもいつも、そのことばかり考えてしまう理由が!」

「えっ!?」


「Lよ!」

自信をもって山田は断じた。

「Bだけじゃだめなの。大事なのは、L! もちろん、Bが大前提よ? だって、この年齢(とし)になると、女の手練手管が鼻についてしまって。男の子には、早くお逃げなさい、って言いたくなるし」


「Bは大事だわ」

「でも、Lあってこその、Bなの!」

「そうよ!」


「典子さんの見せてくれた映画、不衛生だし、用途の違うところに無理やりはつっこむのはどうかしら、痛くないのかしらって、見ていて辛かったけど、でも、確かにそこには、Lがあったわ。どこから始まったって、LはLよ!」

「ハナちゃん……それ、」

「萌えよ! 愛に満ちた穏やかな世界……そこには諜報も戦争もいがみあいもないわ! いえ、あるかもしれないけど、愛を盛り上げる為の、単なるシチュエーションにすぎないの!」


 山田のあまりの気迫に、久美は息をのんだ。


「何て静かな、優しい世界! こんな奇跡が、この世の中にあったなんて! 久美ちゃん。それまでの私は、間違ってた。心療科の病室で、青く透明な空を眺めながら、私、悟ったの!」

「ハナちゃん……」

「もうすぐ還暦だけど、前にあなたが言ってくれたように、決して遅すぎるということはないわ。むしろ、手遅れになる前に気づけて、本当に良かった。仕事だけで人生が終わってしまう前に知ることができて、本当によかった!」


「……なんて素敵なお話なんでしょう」

「だからね、久美ちゃん。協力してくれない? 決して迷惑はかけないから」

「えっ!?」


 改まった口調で、山田は言った。


「BLを知らなかったら、仕事の重圧で、私、壊れていたかもしれない。だから……ちょっとアレな人だけど、典子さんは、私の恩人なの」


「……そうだったのね」


「それに、彼女が、『お庭』で、久美ちゃんの本を買ってくれた人だよ」

「えっ!」

「おもしろかったって。是非、他の作品も読んでみたいって」


 殺し文句だった。

 山田の頼みを、久美には断ることができなかった。





 今朝、藤堂参事官のスケジュール表から、都知事との会談が削除されていた。

 代わりに、|悠里美布留(ゆうりみふる)という未知の人物との面会が設定されていた。

 参事官の全ての予定を把握している久美にも、全く覚えのないスケジュール変更だ。


 参事官クラスの情報は電子化され、NASで共有されている。

 つまり。


 ……システムをいじられた?


 サイバーセキュリティ―センターの網の目をかいくぐって、何者かが、ハッキングしたのだ。

 最後の砦は秘書。

 有能な秘書である久美は、スケジュールの不正な書きかえに気がついた。


 しかし。


 「お待ちしておりました。こちらへ」

彼女はそう言って、客の前に立って歩き始めた。

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