第8章 腐女子と官僚

今が一番デリケートなところ


 「なんです、これは!」


 一乗寺家別邸。

 広大な庭は、清冽な秋の空気を孕んでいた。

 森林を思わせる庭園の奥に、ひっそりと重厚な洋館がある。


 重厚な玄関ドアが開き、一歩中に踏み込んだ途端、黒服の家令は、叫び声を上げた。

「いったいどうしたことです。説明なさい、お嬢様!」


 玄関ホールいっぱいに、段ボール箱が置かれていた。

 何箱も積み重ねられ、足の踏み場もない。


 残された獣道のような僅かなスペースに、一乗寺家令嬢、典子は、這いつくばっていた。

 よれよれの緑色のジャージ……中学時代から愛用……に、赤縁メガネ。直毛に戻った長い髪はくしゃくしゃと絡まっている。


「丹波ガイ先生のご本、丹波ガイ先生のご本はどこ?」

ひっきりなしに、ぶつぶつ言っている。

「うっかり紛れてしまって。アレは、わたしのだわ。誰にも見せてあげないんだから」


「お嬢様、私を意識から遮断してますね……」

脇目も振らず段ボール箱をあさる令嬢を見下ろし、古海はつぶやいた。


 「典子さん、ただいま」

古海の脇からひょいと顔を出し、直緒が言った。


「あっ、直緒さん! お帰りなさい!」

典子は、ぴょんと跳ね起きた。

 そのまま、直緒に飛びつく。

「わあー、直緒さんだぁーー、やっと帰ってきたーーーっ!」


 直緒は、典子の背中に手を回し、ぽんぽんと叩いた。

 優しい声で言う。

「典子さん? また、お風呂をサボリましたね。髪を洗うのも」

「直緒さんがいないとぉー、おしゃれをする気になれなくてぇー」


「おしゃれではありません。基本的な衛生習慣です」

二人を引き離しながら古海が言った。

「直緒さんから離れなさい、お嬢様」


「なによ、古海」

「その人は、私のものです。私のものになったんです」



 「まあ、古海さん! おめでとうございます!」

段ボールの山の向こうから、寿ぐ声が聞こえた。

 何十冊もの薄い本を抱え、メイドの篠原もなみが立ち上がった。

「本谷さんも! とうとう転向したんですね! ハネムーンだったわけですね!」


「お黙りなさい、篠原さん」

冷たい声で、古海は言った。

「今、一番、デリケートなところなんです」


「は? それはどういう……」

 言いかけたもなみは、本谷を見て、口をつぐんだ。

 背の高い古海の横で、まるで塑像のように固まってしまっている。



 「古海、何言ってるの?」

赤眼鏡の奥で、典子が目を丸くした。

「直緒さんはわたしのものなのよ? わたしが欲しくて、採用したの」

「それは違います」と、古海。

「わたしのものなのっ!」

「違う、私のです!」


「直緒さんは、萌えに必要なの!」

「萌え? 何言ってるんですか。もう、直緒さんをあちこち派遣して、他の男にけしかけるような真似は、断固としてさせませんからね!」

「わたしがいつ、そんなことを! 全部自由恋愛だったの!」

「どこがですっ!」



 「ちょっと、二人とも、」

睨み合う真中へ、もなみは割って入った。

「本谷さんが、困ってますよ」


 困っているというのは、生易しい表現だった。

 じりじりとあとじさっていた直緒は、一際高い、段ボールの山の後ろに隠れてしまっていた。



「典子さん。僕はあなたに謝らなければいけないことが……」

微かな声が聞こえた。

 古海ともなみが息を飲む。

 「いいわよ。直緒さんのことなら、たいていのことは許してあげる」

おっとりと典子が応えた。


「ヴァージンです」

 段ボールの山陰から声が聞こえた。


 もなみの腕から、ばさばさと薄い本が滑り落ちた。

「本谷さん、あなた……、なにも、今、ここで……」

「処女作、処女地、処女出版」

「は?」

「僕は前に、『処女』という言葉は、女性にのみ使うと言いました。あの、大河内先生の接待の時。でも、あれ、間違いでした」


「ああ、あの、お嬢様が本谷さんを酔いつぶした時ですね! 話は聞きました!」

「誤解よ、モナちゃん!」

 もなみが叫び、典子がむくれた。


 積み重ねられた箱の陰から、本谷が、顔だけ出した。

「『処女』という言葉は、現代人の感性を超え、遥かに汎用性が高いものでした。同時に、使い方によっては、ひどく差別的にもなりうるんです。僕、今頃、気がつきました。言葉を扱うものとして、本当に、なんと不甲斐なく残念なことでしょう!」


 「直緒さん」

古海が言った。

 すごく優しい声で。

「あなたの、その誠実さが、私は、大好きです」

「……」

 本谷の顔が、見る間に紅潮した。唇をわなわな震わせ、彼は再び、段ボールの陰に引っ込んでしまった。



 微笑みながらそれを見ていた古海が、表情を引き締めた。

 典子ともなみに向き直り、こほん、とひとつ、咳をした。


 「それより、この、段ボールの山です」

こほんと咳ばらいをした。

「この山はいったい……もしかして、ついに、全部売る気になったとか? 腐部屋の、腐本の山を?」

「売るわけないでしょ」


不機嫌な声で典子が応じた。

「探し物をしてるの。大事な大事な、丹波ガイ先生のご本を、うっかりどこかに入れてしまったから。古海、あなたも一緒に探すのよ」


「お断りします」

古海は即答した。

「玄関ホールを腐海にするとは。由緒ある一乗寺家の! 篠原さん、あなたがついていながら、いったいどうしたことです?」

「……古海さんが悪いんですよ。外国に行ってしまって、なかなか戻ってこないから」


「ふ、一足遅かったわね」

典子は、空の段ボール箱に片足をかけた。

 高らかに宣言する。

「この館に、BL図書館を開設することが決定しました!」


「な……、それは、随分前に、却下した筈です!」


 古海がきつく言い返した時、来客を知らせるチャイムが聞こえた。

 だが、古海の耳には入らなかったようだ。

 憤懣やるかたないというように、彼は続けた。


「代わりに、私は盆栽カフェを諦めたのです!」

「古海の盆栽は全部売ったわ」

さらっと典子が言った。

「あんまりお金にならなかったわね」


「あら、お嬢様。欲しかった古日向よう先生の初版本を、全部、手に入れたじゃないですか。新装版と合わせて、一式」

もなみが言った。


 典子が頷く。

「まあね」


 古海が激昂した。

「なんですと! 私の盆栽を全部売った? 私のかわいいあの子たちを、売ったですってぇ!?」


「だって、邪魔だったんですもの! 本を運ぶのに」

「枯れかけてたんです! 手入れする人がいなくなって」

典子ともなみが同時に叫んだ。


 古海は絶句した。

 だが、ごく短時間のことだった。


 にこりと、彼は笑った。

 不気味な笑みだった。


「いいです。代わりに私は、直緒さんを手に入れましたから。ずっと欲しかった宝物を、掌中に収めたわけですから。私にはもう、あの子たちは必要ありません。あの子たちも、きっと、よその誰かの元で、幸せに暮らしていることでしょう」


「古海、それはどういう誤解……」

典子が問いかけた時だった。


 「あの、」

ホールの入口で、新米のメイドが声をかけた。


 一歩も踏み込もうとしない。

 一乗寺家のメイドは、篠原もなみを除き、典子の書籍類モノのある空間には、立ち入りが禁じられているからだ。

 メイド本人の腐敗防止の為である。


 「司書の方がお見えです」

彼女の後ろには、スーツを着た中年女性が、目を丸くして立ち竦んでいた。



**



 「そんな悲しそうな顔しないで」


「……」


「だいじょうぶ。今のままでいいから。ね?」


「…………」


「でも、どうしてもっていうなら……、」


「……?」


「お願いが」


「?」


「これをつけてもらえませんか?」


「……っ!」


「フランクフルトから持ち帰りました。これをつけたあなたを、私は見たことがありません。だから……」


「……! ……!」


「誰が捨てたりなんか、するものですか。大事に持ち帰りましたよ。耳も、しっぽも。ね、ね。お願いだから!」


「!!!」


「なぜ? どうしていやなの?」


「………………」


「……いやそうな直緒さんって、ほんと、ほんと、……かわいい!」



**



 「盗聴器は?」


「それが、電気工事を口実に、屋敷のあちこちに仕掛けたのですか、全く応答がなくて」


「バッテリー切れでも起こしたんじゃないか?」


「いえ、自ら充電するコンセント型のやつです」


「……なにか、感づかれたか?」


「それはないと思います。ターゲットには、何の動きもありません。まるで、盗聴器の匂いのわかる犬でも飼っているようです。そいつのイタズラのような気が、」


「システムを寄越せ。こちらで分析しよう。もちろん、他にも手は打ってあるな?」


「スパイを潜入させました」


「スパイ……、潜入方法は?」


「はい。ちょうど、使用人の募集がありましたので」


「誰を派遣した?」


「調査官W004です」


「W……、女だな」


「この道一筋のベテランです」


「なるほど。引き続き、報告をあげるように」



**



 「許しませんっ!」

朝の爽やかな空気の中、古海の声が響いた。

「伝統と歴史あるこの一乗寺家に、BL図書館など! 断じて! この私の目の黒いうちはっ!」


「そんなこと言ったって、もう、決めちゃったのよ」

積み上げられた大量の段ボールを、典子は指さした。

「所蔵本も集めたし」


「資源ごみの日に出しなさい」

「古海、何を言ってるの? 全部でいくらつぎ込んだか知ったら、とてもそんなことは言えないはずよ?」

「……いくらかかったんですか?」

「内緒」


「私は家令ですよ?」

「あなたがフランクフルトで増やしたくらいかな。それと、盆栽代」

「……、……、」


「庶民にとっては大金でしょ。わたしにとっては、ハシタガネだけど」

「今からでも売れないんですか、腐った本は? 売って、少しでも損を回収……」

「だめよ。売るもんですか」


「だいたい、なぜ、図書館などを! この館に!」

「それはね」

嬉しそうに典子が言った。

「お友達を作る為。BL本がたくさんあれば、腐女子の人が、うちに、たくさん来てくれるでしょ? そして、わたしの友達になってくれるわ」


「ヤマしい本を読んでいる時に声をかけられたら引きます、普通」

「BLは、ヤマしくなんかないわ! 芸術なのよっ!」

「……ひとまず、その件は、置いておきましょう」


 古海は顎で、ホールを指し示した。

 広いホールでは、新しく来た司書が、懸命に、本を分類している。


「人もあろうに、なぜ、あのようなオバさんを。若い男性とは申しませんが、もう少し、見目良い人を選べばよろしかったじゃないですか」

「オバさんじゃないわよ、山田さんよ。時間がなかったから。職安に求人票を出したら、あの人が来たの」

「時間がなかった? なぜ、そんなに急いだんです?」


「あなたが帰る前に、ことを進めたかったからに決まってるでしょ!」

典子は叫んだ。

「古海、今度こそ、BL図書館を開くから! 邪魔立てさせないわよ!」

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