明け方の消灯
「うん、それ、いいかも……」
村岡がつぶやいた。
口々に礼を言い、女の子たちは去って行った。ほっとして直緒が、古海の膝から下りようとすると、村岡は押し留めた。
「もう、甘納豆がないんだ。ポスターは古海が剥がしてしまったし。日本語のわからないお客さんにサービスする為に、君たち、そのままでいてくれよ」
にわかに暗い目になった。
「スカイプに出るように言ったのは君だろ、古海。おかげでひどい目に遭ったぞ」
「なにがです?」
「私が、胸毛の受けを探すことになった。君の代わりに」
声を出さずに、古海は笑った。
憮然として、村岡は言う。
「お嬢様の身の回りには、そういう人はいないそうだ。ほんとかね」
「知りませんよ、そんなこと」
「とにかく、だ。君らが日本に帰っちまうせいで、私は大変な仕事をおっつけられたんだ……全くこんなことが妻に知れたら……、だから君らにも、人よせパンダ並みのことは、してもらわなくちゃな」
「そんな。僕を乗せてたら、古海さん、重いですよ」
傍らから直緒が口を出した。
「いいえ。少しも重くありません」
嬉しそうに古海が言った。
「でもあなたは、腰が弱いって……」
「ばっ、なっ、なにを、そんな!」
「だって、典子さんが言ってましたよ。薄い本さえ運べないほど、腰痛がひどいって」
「ゆ、許しませんっ! いくらお嬢様でも、そのような根も葉もない大嘘をお
「……だから、BLの主役を張れないとか」
「くりいむメロン先生の大量の本を、私一人で運んだでしょうがっ! 薄い本だって、量があれば、重いんですっ! まったくあの、ヒモノ腐女子は、私が、度重なる腐本の運搬を拒否したことを根に持って、なんたる罵詈雑言! しかも、相手もあろうに、直緒さんにっ!」
「じゃ、腰は大丈夫なんですね?」
「私の腰は、人一倍、丈夫です!」
「よかったね、本谷君」
村岡が割って入った。
「古海の腰は丈夫だから。気兼ねはいらないぞ。あれ、顔が赤いな。風邪でも引いたのか?」
「い、……いいえ」
「気をつけてくれよ。君にはまだ、仕事が残ってるんだ。……今日は、古海の上で、愛想を振りまいててくれ」
「古海さんの、上……」
「君、耳たぶまで赤いぞ。大丈夫か? だって、言葉が通じないんだから、体でおもてなしするしかなかろう」
「……」
「今日一日、古海の上で、頑張ってくれ。頼んだよ」
言い置いて、村岡は、さっさとブースに戻っていった。
「……」
「……」
「あの、古海さん?」
二人とも同じ方向を向いているので、古海の顔は見えない。
一人赤面し、直緒は声を掛けた。
「重くないですか?」
「幸せです」
後ろで古海が答えた。
「あなたの体温が感じられて、とても幸せです。もう、ずうーっと、こうしていたい」
一言言うたびに、古海の息が、直緒の首筋をくすぐった。
直緒は俯き、顔を上げられない。
向き合っていなくて、本当に良かったと思った。
向き合っていたら、お客さんが来ても見えないわけだが。
古海が言った。
「直緒さんの顔を見たい。こちらを向いてくれませんか?」
「い、いやです」
顔が熱い。
目も潤んでいる。
とてもじゃないけど、見せられたものではないと、直緒は自覚していた。
古海はしつこかった。
「ちょっとだけ。顔、見せて下さい」
「いやです」
強引なことはしない男だと思っていた。
だが古海は、左腕を回し、直緒の顎を掴んだ。
そのまま自分の方へ向けようとする。
「やですったら!」
「そんなに暴れたら、首を痛めますよ」
やや強い力で、斜め上を向かされた。
次の瞬間、ちゅっと、唇を吸われた。
「なっ……」
「好きです、直緒さん」
古海が言った。
「ハーイ、ナオ!」
能天気な挨拶が聞こえた。
直緒はぎょっとして、声のする方を見た。
相変わらず嬉しそうなジェフが立っていた。
傍らにはクララもいる。
直緒は慌てて、古海の膝から滑り降りた。
「ジェフ、クララ、こちらは古海さん。古海さん、ジェフとクララです」
「あなたが、ジェフ……」
古海が目を細めた。
「胸毛の、ジェフ……」
「ムナゲ、アルヨ!」
ジェフが大喜びで、Tシャツをめくり上げようとした。
「ジェフ、もういいから!」
慌てて直緒が止める。
「Friend?」
クララが問う。
「
古海が答えた。
「Oh,****」
直緒の方を向き、クララが怒涛の如くしゃべり出した。
「ふ、古海さん、何て言ったの?」
「恋人だって言ったんです」
「こっ、恋人っ!」
「違うんですか?」
「……、……違いません」
「しっかり捕まえとけと言われました。無用の忠告というものです」
そう言って、古海は直緒の肩を抱いた。
……人前で?
直緒は困ってしまった。
思わず体を固くする。
「クララ、ゴメン、ダッテ。ナオ、ゴメン」
ジェフが言った。
その声はフラットで、いつもと同じだった。
それでも直緒は恥ずかしかった。
まっすぐにジェイの顔を見ることができない。
「どうやら、直緒さんは、この女性に、自分の彼氏を盗ろうとしていると思われてたみたいですね」
くすりと古海が笑った。
「直緒さん、あなたはそんなに、性悪なんですか?」
「違いますよっ! 古海さんこそ、ジェフのこと、疑ってたくせに」
「ちょっとだけ」
古海は言った。
「ちょっとだけです」
古海は、ブースの奥を指さした。
ジェフとクララは訳知り顔に微笑んで、村岡の方へ歩いて行った。
「邪魔者は消えた。さ、直緒さん。ここへ戻っていらっしゃい」
結果として、その日、モーリスのブースは、大層な盛況ぶりだった。
来客がある度に、直緒は古海の膝から下りて、ブースの中へ案内し、あるいは、古海が相手をした。
古海は、英語ドイツ語の他、フランス語やロシア語まで、わかるようだった。
直緒は、自分との能力の差を見せつけられる思いだった。
その日が終わる頃までは、日本から送られてきた本は完売していた。
日本に旅行した人や、留学していた人などが買っていった。
だが、全く日本語を解さない人も、買ってくれていた。
「ひょっとして、BL、けっこういけるのかも」
ぽつんと村岡がつぶやいた。
閉会の時間が来た。
みんなで片づけを始める。
「……あれ、売り忘れ?」
古海が怪訝そうな声をあげた。
「ここに段ボール箱が……」
「あっ、それ、開けちゃダメで……」
直緒は叫んだが、一足、遅かった。
古海は箱を開け、ネコミミとシッポを取り出した。
「……なんです、これ?」
「……」
全員無言で、顔を見合わせた。
「直緒さんの匂いがする」
くんくんとカチューシャを嗅いで、古海が言った。
「犬か……」
呆気にとられて村岡が呟いた。
きっ、と、古海が振り返る。
「なんですか、これは。さあ、きっちり説明してもらいましょう」
村岡、ジェス、直緒の三人で、目で送り合って、結局村岡が説明した。
直緒のコスチュームであること。
モーニングにネコミミ、シッポもつけて、バニーガールの男性版のようないでたちで、客寄せをしたこと。
もちろん、いたずらをした客がいたことは、話さなかった。
「典子お嬢様の御指示だから」
最後に村岡が、全てを典子のせいにした。
「ふうん」
古海が言った。
「ふうん」
あとは無言だった。不穏な雰囲気に、クララも加え、4人は身を固くした。
「気をつけろよ、本谷君」
小声で村岡が囁いた。
「あいつ、絶対、Sだぜ」
「……」
そういえば、久條がそんなことを言っていたと、直緒は思い出した。
……気をつけた方がいいんだろうか?
箱をさっさと閉じ、ガムテープで固く梱包すると、古海は立ち上がった。
じっと自分を見つめていた人たちを、驚いたように見た。
「何をしてるんです? 早く片付けてしまいましょう」
片付けが終わると、打ち上げをしようということになった。
「これだけの人がいるのですから、店はどこも混むでしょう?」
古海は乗り気でないようだった。
村岡が言った。
「ジェフとクララのアパルトマンに、簡単なパーティーの用意がしてあるんだ。君も一日一緒にいて、気心が知れたろ? 本谷君も、クララの誤解が解けたようだし」
「私と直緒さんは、明日朝早いですから」
明日は、日本に帰らなければならない。
「大丈夫だよ、空港は近い」
「でも……」
「なんだ、古海。来たくないのか?」
「行ける状態じゃないというか、行きたくないというのもありますけど」
「何が言いたい?」
「いえ」
古海は俯いた。
「なにせ一日、直緒さんを膝に乗せていたから、」
「ああ、腰に来たか」
「違いますっ!」
ジェフが古海を見て、にやりと笑った。
意味ありげに、目線を下にずらす。
ぷい、と古海は横を向いた。
「今回は、一日だけの参加ですし、私はご遠慮します。直緒さん……」
「僕は行きますよ」
直緒は言った。
5日間、世話になったのだ。
初めはギクシャクしたが、このまま別れるのは、名残惜しい。
「直緒さん……」
古海がうらめしそうな顔をした。
**
村岡の妻ののろけ話をあれこれ聞かされ、ジェフとクララの熱い抱擁を見せつけられ、それらをものともせず、好きな本について声が枯れるまで話し……。
直緒がホテルに帰ったのは、明け方近かった。
「古海さん、起きててくれたの?」
直緒はぐてんぐてんだった。
ドアを開けた古海の首に両腕を回し、にっこり笑った。
そのまま、ぐずぐずと崩れ落ちた。
古海はその体を抱きあげ、ベッドへ運んだ。
服を脱がせ、ホテルのローブを羽織らせる。
直緒が眼を開けた。
潤んだ瞳で、うっとり古海を見る。
「ふ……るみさん、……いた。よかった」
「いますよ。私はいつもここに。直緒さんのそばに」
「もう、どこへもいかない……で」
「行きません。安心してください」
「大好き」
「直緒さん……」
口づけようとした体が、くたりと落ちた。
すうすうと寝息を立てている。
ため息をついて、古海は直緒をベッドに寝かせつけた。
上掛けのカバーを顎の下できっちりと折り返す。
そして静かに、明かりを消した。
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