801は、ヤ・オ・イ
「古海、どうしてここへ来たの?」
「謎を解きましたもので」
「入口は、封鎖されていた筈だけど?」
「裏手へ回りました」
「裏も、施錠されていた筈よ?」
「お嬢様、私には、ちょっとした特技がございます」
「ああ、また、あの悪いクセね……」
「まだ、悪用したことはございません。特技と、おっしゃって下さい」
「まあ、今回は、役に立ったわね」
書店3階、言語学コーナー。
「わたしの質問に答えてないわ。あなたはなぜ、ここへ来たの、古海? この、言語学の棚の前へ」
「書籍の分類番号でございます、お嬢様。十進分類法」
「そういえば! あなた、わたしの悪口言ってなかった? さっき、電話で」
「何のことでしょう?」
「とぼけても無駄よ」
「『末広がり+01の異世界バトル』」
「え?」
「タイトルです。南波裕文が、新人賞に応募した」
「それがどうして……」
「『異世界バトル』は、エンタメを表します。しかし、エンタメ売り場は、客が多すぎる。爆弾を仕掛けるのは、難しい」
「エンタメ売り場は、木島さん達が探してるわ。広くて大変なんですって」
「爆弾は、そこにはありません」
「まっ。それ、イヤミね。ヒトの努力をあざ笑う人は、幸せになれないのよ」
「『末広がり+01』。これが、キーワードだったんです。末広がりといったら、八ですよね? +01ですから801……」
分類番号、801
それは、言語学。
ここの棚だ。
だが、典子は叫んだ。
「ヤオイよっ!」
「え?」
古海は愕然とした顔をした。
構わず、典子が続ける。
「今日は奈良橋沙羅先生のサイン会だったの! BL作家の。あ、MLか」
「それが?」
「だから、
「お嬢様。ヤオイ、ではございません。ハチ、ゼロ、イチ、でございます。結論は正しうございますが、そこに至るまでの過程が、力いっぱい、間違っておられます」
「そんなこと、ないもん」
「『末広がり+01の異世界バトル』は、100万語の小説だそうですが、おそらく、ウンベルト・エーコ辺りをめざした、記号論的小説だったんじゃないでしょうか」
「はいぃ?」
「昨今の小説の流行として、タイトルが全てを物語っております。そして、書名に隠された数字こそが、801、即ち、ここ、言語学の棚を暗示しているのです」
「801」に辿りついたのは、典子も古海も同じだった。
そこから、言語学の本が納められている棚に行きついたことも。
だが……。
「同じことでしょ。今日は、尊敬するBL作家の奈良橋先生のサイン会。BLといったら、
「全然、全く、違いますっ! タイトルが表す数字が、
「古海のは、あてずっぽ。わたしが正しいのよっ!」
「いーえ、お嬢様が間違っておられます」
「ふふん」
典子があざ笑った。
「わたしはいつも正しいの。それが証拠に、ごらんなさい。ここに、ほら、紙袋……」
「うわっ、お嬢さま! お下がりください、危のうございます」
古海は慌てて、典子を引っ張った。
庇うように背後に回し、そろそろと後じさる。
その時、フロアの端から、微かな物音が聞こえた。
**
男は、直緒を引きずって、地階から3階まで、一気に階段を駆け上がった。
恐ろしい馬鹿力だった。
……人間離れしている。
それが、階段のあちこちにごつごつ体をぶつけながら、直緒が抱いた思いだった。
ずっと、奇妙な叫び声を上げ続けている。
怖くなかったといえば、嘘になる。
しかし、直緒にしてみれば、典子から男を引き離せた安心感の方が大きかった。
この書店には、高性能爆弾が仕掛けられている。
建物全体を吹き飛ばすほどの威力だという。
わかっている。
それでも、典子のそばに、この男が存在しないということが、直緒にとっては、重要だった。
3階の一番奥は、喫茶室になっていた。
廊下が少し広くなっている。
そこまで来ると、男は立ち止まった。
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、じっと直緒を見た。
ぎらりと、その目がぬめるように光った。
……しゃべってもいいものか。
……でも、声を出したら、男だということがバレる。
女の格好をしている自分が、直緒は、恥ずかしかった。
たとえ、凶悪犯の前であっても。
ためらっていると、男はいきなり、彼を押し倒した。
間髪入れず、上からのしかかってくる。
青黒く見える顔が、岩のように落ちてきた。
とっさに横を向き、その唇を避けた。
……まったく、男ってやつは、
瞬発力を出す為に、体を縮こまらせながら、直緒は思った。
……どうして、押し倒すことばかり考えるんだ!
直緒は、慣れていた。
押し倒されることに。
でも。
これは違う。
こいつは、直緒を、女だと思っている。
……なぜ、自分より弱い者を襲いたがる!
男の手が、胸元に下りてきた。
せっかちに、直緒の胸の上を動き回る。
直緒の胸は、ブラジャー付属の底上げパットのおかげだ。
服に比べ、高価なブラジャーなので、パッドは厚い。
しかし、所詮はブラジャーのふくらみである。
触られれば、右に左に、ふかふか逃げる。
それなのに、男は、魅惑のふくらみが、ちょっと不審なことに、全く気づかない模様だ。
夢中になっている。
自分の行為に。
このシチュエーションに、
直緒のへその辺りに手を下ろし、いきなり、服をまくり上げようとした。
……なにもねえったら!
直緒は身を捩り、逃れようとした。
それが、火をつけたようだった。
服をはぎとろうとする動きに、いっそう、拍車がかかった。
無言の闘争が続く。
抗い続けるうちに、直緒の安物のカットソーの、首元が裂けた。
少し高価なブラジャーの、値段に見合ったレースが覗く。
男の鼻息が荒くなった。
ブラジャーをむしり取ろうとする。
その下になにがあろうが……なかろうが、ブラを外すことしか考えていない。
だが、高価なブラジャーは、留め金がしっかりしていた。
なかなか外れない。
……背中にホックがあるんだよっ。
教えてやりたいくらいだった。
もはや直緒の上の男には、何も見えていないようだ。
何も見えていないし、聞こえてもいない。
ただただ、獲物を襲うことしか考えていない。
直緒は、大きく息を吸い込んだ。
……男って、
わずかに腰を丸めた。
右脚を上へ引き寄せる。
……男って、
……どうしてこう、
……馬鹿なんだっ!
下から、思いきり蹴り上げた。
だが、そこまで思いきり蹴り上げる必要は、直緒には、なかったのだ。
蹴りが急所に決まった瞬間、男の体は、宙に浮いた。
ほっそりとした、だが、強靭な意志を宿した影が立っていた。
「私の直緒さんに、手を出すな!」
影は男を掴み上げ、投げ飛ばした。
「ねえ、時計がついてるわよ」
のどかな声が、言語学の棚から聞こえる。
「時計?」
古海が、蒼白な顔で振り返った。
「あと4分で0だわ」
「お前、まさか……」
古海は、自分が投げ飛ばしたばかりの南波の元へ駆け寄った。
そのえり首を掴んで引き起こす。
「まさか、爆発物に時限装置をつけちゃいないだろうな!?」
くくく、南波が笑い出した。
次第に大きな哄笑になっていく。
「ああ、つけたさ。爆弾がここにあることを見つけたのは、エラかったな。だが、それまでだ。俺に何かあった場合を考えてな、爆発だけはするように、仕掛けといたのさ」
「押しボタンがふたつ、ついてる。白いのと赤いの」
典子の声が聞こえる。
状況を考えると、あきれるほど、のんきな声だった。
古海は、南波を投げ出すと、典子の元へ駆け寄った。
「起爆スイッチと解除スイッチだな。おい、どっちだ。どっちが、解除スイッチだ!?」
「教えるもんか」
「赤と白、どっちだ!」
「誰が」
「直緒さん、」
古海がぎらぎら光る眼を上げた。
「お嬢様を連れて、建物から出て下さい。全速力で走って、ビルから離れて下さい」
「古海は?」
典子が聞いた。
「このビルには、まだ、木島さんたちがいます。私はもう少しここに残って、こいつと対話をします。大丈夫。必ず後を追いますから。さあ、直緒さん。お嬢様をお願いします!」
直緒は答えなかった。
押し倒されたままになっていた体を起こした。
南波に近寄る。
「おい、」
彼は言った。
「どっちだ」
難波の目が見開かれる。
「お前、その声……」
「……」
驚愕が浅黒い顔に広がった。
重ねて直緒は尋ねた。
「どっちが解除スイッチだ」
「直緒さん、早く! お嬢様を!」
「いいえ」
直緒は言った。
「あなたが残るなら、僕も残る」
「わたしもっ!」
なんだか場違いな、うきうきした声が聞こえた。
「わたしも残るっ!」
「お嬢様……」
古海が、絶望に満ちた目を、典子に向けた。
直緒は南波の腕をつかみ、引き起こした。
「さあ、解除スイッチは、どっちだ。赤? 白? 言えっ!」
「……赤」
沈黙が流れた。
それが真実である証拠は、どこにもない。
「直緒さん、だめよ。そんな乱暴な聞き方をしちゃ」
のんびりとした声で、典子が言った。
「人様にものをお尋ねするときにはね、丁寧に優しく、女の子らしい言い方をしなくちゃいけないのよ。ね、古海? あなた、いつもそう言ってるわよね」
「……あと1分!」
殺気立って古海が叫んだ。
「お願いだ。逃げて下さい、ちょっとでも遠くへ! 直緒さん! お嬢様!」
「っ」
直緒は唾を呑みこんだ。
頬を緩め、にっこりと笑って見せる。
こわばらないように、優雅に、しとやかに。
それは、この状況では、たいそう、難しいことだった。
直緒は言った。
「ねえ、教えて下さらない? 解除スイッチの色を」
「10秒前、9秒前、」
合成された声が響き渡った。
「教えてくださいな、南波さん」
「7、6、」
「どうしても知りたいの、教えて?」
「5、4、」
「お願いよ、南波さん」
「……白」
微かな声が、蒼白の唇から洩れた。
「古海、白よっ!」
典子が叫ぶ。
「でも、お嬢様、さっきは赤と。嘘かもしれない!」
「3、2、」
「いいから! 白のスイッチを押しなさい!」
「1、……」
沈黙が広がった。
爆発は起こらなかった。
南波はその場にくずおれた。
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