第6章 わたしのしもべ
見栄えのいい男と爽やかな営業スマイル
ぎらぎらと照りつける陽射しも、6時を回れば、さほど耐え難いものでもない。
緑濃い木陰の駅前コンコースを、もなみは、歩いていた。
耐え難いのは……。
「駅ビルの書店が、閉店するんですって。四階の右手奥壁際の、本棚ごと買い取れないかしら」
前を歩く、フリル過多のピンクのワンピース姿の
「帰りたくない~! せっかく街まで来たのに、執事喫茶に行ってない~!」
後ろからついてくる、キティ―ちゃん柄のキャリーバックを引きずった、その弟。
駅から続く地下道から、続々と人が、吐き出されてくる。
これから遊びに行く人たちだ。
……本当だったら、私だって、今ごろ、
……楽しい楽しい夜遊びへむけて、カウントダウン。
しかし、もなみは未だ、勤務中だった。
本来今日は、内勤定時上がりのはずだったのに。
もなみと、その女主人・典子、そして典子の弟の創の三人は、人波に逆らって、駅へ向かっていた。
BL作家、
これから電車に乗って、このやっかいな主人たちを、邸まで送り届けねばならない。
自家用車は使えない。繁華街に車で出向くのを、典子がいやがるからだ。
その典子は、作家先生と握手をしてもらい、この暑いのに、両手に手袋をはめている。
嬉しさのあまり舞い上がっている。歩くスピードも、いつになく速い。すでに、かなり前方を歩いている。一人でどこかへ行ってしまわないよう、目が離せない人なのに。
もう、くたくただった。
サイン本3冊は、店の緑のビニール袋に入れられたまま、もなみが持っている。
1人1冊しかサインしてもらえないので、もなみまで買わされたのだ。
「閉店する本屋の棚ごと買うですって?」
もなみは前を歩く女主人の背中に向けて大声で言った。
「持ってる本ばっかでしょ。これ以上増やして、どうするつもりですかっ! BL本をっ!」
「BL図書館」
典子がくるりと振り返った。
「わたしはまだ、諦めてないわよ。腐女子の殿堂、BL図書館を作るの!」
そう言うと、踊るような足取りで、歩いて行く。
もなみはぶつぶつとつぶやく。
「……BL図書館はダメだって、古海さんとバーター取引したんじゃなかったでしたっけ? たしかあの人も、盆栽カフェを諦めたはず。古海さんと言えば……」
一乗寺家家令・古海の、蒼に近い三白眼を思い出し、身震いした。
後ろを振り返った。
「創さま、執事喫茶はいけません。そんなとこに行ったら、私まで、古海さんにお説教くらいます」
創が口を尖らす。
「内緒にしてればいいじゃん」
「先日、コスプレ撮影会の写真を、屋敷中に自慢して歩いたのは、誰ですかっ! 光の速さで古海さんにバレて、お説教くらったたばかりでしょうがっ!」
説教くらったのは、創ばかりではない。
もなみもだ。
その時のことを思い出し、中学生相手に、本気で腹をたててしまった。
だが、創は、全然応えていないようだ。
妖しい目をして、ぼうーっとしている。
ラフライクのお姫ちゃんの衣装を思い出している模様だ。
あきらめて、もなみは前へ向き直った。
衝撃は、その時、襲ってきた。
鋭い痛みが、左の二の腕辺りを走った。
「あ……」
思わず、手で抑えた。
「どしたの?」
少し前を歩いていた典子が振り返った。
叫んだ。
「血っ! 血よっ!」
……お嬢様、あなたは簡単に、鼻血を出すじゃありませんか。
……人の血を見たからって、そんなに騒ぐなんて。
そう言い返そうとした。
できなかった。
喉が押しつぶされたようになって、声が出ない。
「あなたたち! なにしてるのっ! 救急車をお呼びなさい! はやくっ!」
集まりかけた野次馬に向かって、典子が叫んだ。
「わたしの命令を聞きなさいっ!」
腐っていても。
ヒモノであっても。
さすがは、天下の一乗寺家令嬢だった。
何人かが、大慌てでスマホを取り出した。
「おじょ……大丈夫ですから……」
掠れた声で、もなみは言った。
「どきなさい」
だれかが、典子を脇へ押しのけた。
「意識はありますね」
落ち着いた声が、モナミに語りかけてくる。
「私は、看護師です。安心して」
そう言って、熱い痛みが鼓動を持つようにうねっている腕をそっと上へあげた。
体のどこかからタオルを取り出して、モナミの腕の根元を、きつく縛った。
「モナちゃん、大丈夫?」
何度蹴られても近寄ってくる仔犬のように、典子が覗きこんでくる。
「ナイフか何かで、切り付けられたようですね」
その人は言った。
頭はスポーツ刈りで、たくましい体つきをしている。
涼しげな瞳が、もなみの顔を覗きこんできた。
「大丈夫ですか?」
……どストライク。
そんな場合ではないのだが、もなみは思った。
少しだけ、平常心が戻った。
「切られた、ですってぇ!?」
代わりに、我を忘れて叫んだのは典子だった。
「モナちゃんがっ! いったい誰にっ!」
「どうやら、対向してきた人波の中の誰かがやったようだね」
男が言った。
その目がもなみを離れ、道端に転がっていた緑色の袋に止まった。
薄いビニールから、男同士が上半身裸で抱き合う絵柄が透けて見える。
「あれ……」
「ちが、アレはお嬢様の……」
弁解したいのだが、喉に何か塊が詰まったようで、声がろくに出ない。
「あの袋、」
男は袋を指さした。
「そこの書店のものだね。やっぱり!」
……やっぱり?
……だから、違うってば!
あせればあせるほど、口が回らない。
「最近、緑のビニールの手提げ袋を持っている女の子が、狙われているという噂が。つまりその、そういう中身が透けて見える……。突き飛ばされたり、足を引っ掛けられたり」
「あ、ネットで読んだ、その噂」
「私も」
野次馬の中から、賛同の声が聞こえた。
「カバンに仕舞うようにって、お店に張り紙があったわ」
「ついに、ナイフで切りつけたか」
もなみの脇のイケメンが、暗い目をした。
「腐女子狩り……」
誰かが言った。
「そうだ。腐女子狩り!」
「腐女子……」
声はさざ波の如く、広がっていく。
「おねえちゃま、僕、見た!」
一際甲高い喚き声が、響き渡った。
創だ。
キャリーバックを横倒しにして、その場で飛び跳ねた。
「あのビル! あそこの本屋に入っていった!」
今、自分達が出てきた書店を指さす。
「あの人ね! わかった!」
典子の声がする。
「うちの大事なモナちゃんをっ! 許さないんだからっ!」
そう言うと、典子は、書店目指して一直線に駆け出していった。
ピンクのスカートが翻っている。
「お嬢様、だめ……っ!」
「おねえちゃま、僕も!」
走りかけたシャツの裾を、もなみは、やっとのことで掴んだ。
血だらけの手が、白いシャツを汚した。
声を絞って、もなみは叫んだ。
「だれか! おねがい! お嬢様を止めて!」
その声は、町の喧騒と、野次馬のざわめきにかき消された。
**
営業の
「遅かったな、佐々江さん」
担当編集の
眼鏡をかけた、線の細い、優しい面立ちをしている。
体育会系で、いまだに筋肉質の佐々江とは対照的だ。
「すまない。土曜の夕方じゃないと、どうしてもって、先方が。先生には、あとでお詫びを言っとくよ」
上着とカバンを足元に置いて、佐々江は言った。
急いで歩いてきたので、暑い。ネクタイで絞めたYシャツの襟の間に指を入れた。
仕方ない、という風に、木島が肩を竦める。
「クールビズじゃないのか?」
にこやかに作家とファンを見守りながら、口の端だけ言う。
編集の木島は、おしゃれな男だ。
ノーネクタイのストライプのシャツは、清涼感を醸し出している。
佐々江は肩を竦めた。
「俺ら、営業だからな。上着なしってわけにはいかない」
足元の、黒い上着を軽く蹴った。
サインを終えた作家が立ちあがった。
顔を輝かせたファンの手を、両手で握る。
思わず佐々江はつぶやいた。
「一人ひとり、こうやって握手を?」
「そう。200人近くいたんだ」
「時間がかかるわけだ……」
「すごいね、ML人気……」
木島は顔を輝かせている。
老舗総合出版社、
文藝出版社から始まったので、比較的、硬派な書籍を出版している。
その門壇社主催の、初めてML本のサイン会だ。
BLが売れているのは、知っていた。
爆発的に売れるわけではない。細く長く売れている。
それを横目で見て、しかし、門壇社には、なかなか参入のチャンスがなかった。
今頃参入しても、他社の二番煎じは免れない。
あの門壇社が、とまで言われて出版する本が、よその三流出版社の後塵を拝する事態は、どうしても避けなければならなかった。
現実問題として、著者の確保が難しかった。
ノウハウもない。
そうした時に、この木島が企画を出したのだ。
……BLを卒業した女性達へ。
……大人の男同士の恋。
Men's Love, ML。
もちろん、木島が考えたジャンルではない。もともとあるジャンルだ。
ただ、BLに比べて、あまり知られていなかった。
木島はまた、著者をも引っ張ってきた。
そうして書かせたMLが、大変な売れ行きを見せている。
「奈良橋先生、ごくろうさまでした!」
部長の池谷が、大きな顔いっぱいに笑顔を浮かべて、作家に話しかけている。
営業の佐々江と、編集の木島、そして編集部長の池谷。門壇社からは3人、男でそろえた。
入力やら使いっぱしりやら、女子スタッフも、たくさんいるというのに。
奈良橋先生のサイン会なら、是非、自分も行きたいと申し出た、他部署の女子社員だっていた。
男だけで揃えたのは、門壇社としての戦略だった。
幸い、担当の木島は、見栄えのいい男だった。
営業の佐々江も、鍛えられた体とさわやかな営業スマイルで、そこそこ人気がある。
ただ、編集部長だけは、誰か別の人間にした方がよかったのでは、というのが、みなが思ったことだ。
誰も口に出しては言わなかったが。
対して書店側から参加した二人は、女子だった。
学校を卒業したてのような若手と、もう少しだけ落ち着いて見える子。
若い方が松本さんで、年上の方が香坂さんだ。
打ち合わせの時に、顔を合わせている。
「お疲れでしたでしょう、先生。別室にお茶の用意が……」
香坂さんが奈良橋先生に声を掛けた。
書棚の向こうから、男が、つかつかと歩み寄ってきた。
「申し訳ございません、サイン会は終了しました」
松本さんがそう言いながら、男に近づいていく。
「動くな!」
野太い声が響き渡った。
なにひとつ、考える暇もなかった。
佐々江がはっと思った時、松本さんは男に抱え込まれていた。
その首筋には、鈍く光る大ぶりのナイフが当てられていた。
「……」
松本さんは、声も出ない。
男が叫んだ。
「店内に高性能プラスチック爆弾を仕掛けた。爆発させたくなかったら、俺のいうことを聞け!」
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