美女と野獣



 ……むちゃくちゃだ。

 直緒は、椅子に座っていた。


 体を包む、優美なグリーンのドレス。

 つややかな絹の肌触り。体にぴったりと密着したロング丈。

 動きにくいこと、この上もない。


 ……なんて、非実用的な服なんだ。

 いや。

 もちろん、問題はそんなことではない。

 問題は……。

 ひっきりなしに、ダンスの申し込みをしてくる、正装した男たち。


 ……ったく、典子さんのお父さんは、いったい何人に、娘にダンスを申し込む許可を与えたんだ?


 申し込みがあるたびに、俯き、首を横に振らなければならない。

 目元に仮面をつけ、髪はウィッグでごまかした。

 しかし、声まで変えることはできない。

 「恥ずかしさのあまり言葉も出ない、内気な令嬢」を振る舞うしかなかった。


 中にはしつこい男もいて、断っても断っても、引き下がろうとしない。

 男性達も、さまざまな仮面をつけている。

 一乗寺社長は、ダンスを申し込む側にも、仮面着用を義務付けた。

 男性を身近で見て、典子が怯えるといけないからだ

 典子の父親は娘のことを、いったいどれだけ臆病だと思っているのだろうか。


 彼らが装着しているのは、単に目元を隠すだけのものだけではない。

 もちろん、そういう人もいたが、中にはかなり奇抜なものもあった。

 ミッキーマウスやピカチュー、クマモン……。お面としかいいようのないものをつけている者もいる。

 オスのクジャクと同じ理由だろう。

 目立ちたいのだ。


 ……これでは仮装舞踏会だ。

 ……仮面舞踏会ではなく。

 心の中で、直緒は校正した。


 典子は、気に入った男とダンスを踊るように、父親から言われたそうだ。

 でも、顔が見えないのでは、気に入った男もくそもないものだ。

 とりあえず、社長ちちおやの査定は済んでいる。この中から選ぶ限り、どれでもよいということだろうか。


 改めて、怒りが湧く。

 同時に、典子が気の毒でたまらない。


 直緒自身、ドレスを着て座っているのは、いやでいやでたまらない。

 まず、体に密着した感じがして、変に動いたら形が崩れそうで、動きにくい。それでいて、すーすーと風通しがよく、不安だ。


 女性の服は、本当に着づらい。

 あちこちから、人が、じろじろ見ている。

 なんだか、見世物になった気分だ。

 でも、知った人はいないことだし。

 こんなことで典子の為になれるのなら、我慢しようと、直緒は思う。



 ……ん?

 射すような鋭い視線を感じた。

 直緒をじっと見つめるあの少年は……創君?

 さっき見た、典子の弟だ。

 と思った瞬間、少年は、身を翻して、人混みに消えて行った。


 ……典子さんじゃないと見破られた?

 でも、弟はしっかりシメとくと、典子は言っていたことだし。

 ……後でフォローしてもらうしかないな。


 それにしても、マスクで隠していても、なおかつ、男どもの顔がにやけて見えるのは、気のせいか。


 ……しかも、この俺を見ながらにやけるなんて。

 いっそのこと、はりたおしてやりたいと思った。


 延々と首を横に振っているので、くらくらしてきた。

 喧騒と相まって、軽い吐き気もする。


 椅子の置かれている場所も、問題である。

 さすがに壁際ではあるが、ダンスホール内に堂々と座って、壁の花をやっているのは、直緒一人である。

 一乗寺家令嬢です、誘ってください、と言っているようなものだ。

 おまけに、周りには誰一人、助けてくれる人間はいない。

 別邸の使用人なら、たいていは顔見知りだ。こんな時は、気を使ってくれるだろうに。


 ……古海がいてくれたら。

そう思って、ふるふると頭を横に振った。

 今一番、会いたくない人間である。


 ……ゆるく見えるけど、チャラくない。

 ……ちょっと遊ぶには、最高の相手。


 いやいやいやいや。

 直緒は慌てて、暴走し始めた思考を止めた。


 むしろ。

 あんな……

 あんな、本を見た後だから。

 典子さんの、あんな本……。



 典子とメイドのもなみが、一乗寺社長に呼ばれて部屋を留守していた時のことだ。

 直緒は、ヒマだった。

 といって、女性の部屋を嗅ぎまわるわけにもいかない。

 所在なく座っていると、典子が本宅に持ってくるように頼んだ、薄い本が目に留まった。

 本を持って来いは、直緒を呼びつける為の口実だったと、今ならわかる。


 直緒は、本が好きだ。

 本があったら、手に取らずにはいられない。

 典子の本だけど、仕事の資料だからよかろうと思った。


 ……ご実家のパーティーにまで。

 本当に、仕事熱心な人だと感心して、手に取り……。


 ……。


 また一人、正装し、仮面をつけた男がこちらへむかってくる。

 ……男はいやだ。

 ……男は怖い。


 男性として、再起不能になりそうだった。

 早く終わってほしいと、祈るような気持ちで、直緒は願った。



**



 「お嬢様!」

もなみは、長テーブルでチョコレート・シュークリームをむさぼっている典子を発見した。


 ちょっと目を離した隙に、いなくなっていたのだ。

 ツリー状に積み重ねられたシューを、ひとつずつ手で剥がして、口に詰め込んでいる。


「こんなとこにいたら、ダメでしょ。お嬢様はあそこにいることになってるんですから!」

小声で言って、もなみは、目線でダンスホールを示した。


 ホールは、今、もなみたちがいる回廊の下にあり、吹き抜けになっている。

 そこでは、緑色のドレスに身を包んだ直緒が、今しも、一人の男の申し込みを、首を横に振って断っているところだった。

 「ああ、あ、本谷さんも気の毒に」

思わずもなみはつぶやいた。


 口をもごもご動かしながら典子が言う。

「素敵ね、直緒さんのドレス姿。すとんとしたデザインだから、体の線が出て、セクシーだわ。直緒さん、細いし。動くと布に波ができて、とってもきれい。後で、一緒に写真を撮ってね、モナちゃん」

「なにを呑気な……」


もなみは、典子のチョコレートで汚れた手を見て、顔をしかめた。


「その手、ドレスで拭かないで下さいよ」

「大丈夫よ。子どもじゃないんだから。よそ行きの服でそんなことはしないわ」

「鼻血も出さないで下さいね。……あっ!」


 もなみはあわてて、テーブルの上を見渡した。

 以前典子は、ナイフとフォークが、重なるように置かれているのを見て、鼻血を出したことがあったのだ。


 典子は、不思議な取り合わせで、鼻血を出す。

 ソケットとコンセント。

 ボルトとナット。

 定規とコンパスを見て鼻血を噴出させた時は、不可解を通り越し、深遠な哲学に触れた気さえしたものだ。


 幸い、立食パーティーなので、ナイフやフォークは、種別ごとにカトラリーボックスに収められている。

 もなみは、ほっと胸をなでおろした。


「ささ、控えのお部屋へ戻りましょ。お菓子なら、私が持っていってあげます」

「ええーーーっ」


 もなみは、典子の耳元に口を寄せた。

 厳しい口調で囁く。


「お嬢様がここにいるとバレたら、なんにもならないでしょ。せっかくの本谷さんの女装も水の泡。そうなったら、いくらなんでも、本谷さんがかわいそうです」

「そ、それはそうね……」

「会社、辞めちゃうかもです」

「いやよ。そんなの」

「だったら!」

強引に腕を引っ張った。

「痛っ! モナちゃん、痛い!」


 しぶる典子を、ダンスホールの吹き抜けを見下ろす場所まで連れてきた時だ。

「モナちゃん、あれ……」

典子が指さした。



**



 直緒の前の人並みが、ささっと割れた。


 Tシャツの上にジャケットを羽織っただけの、この場にはカジュアルすぎる装いの男が、近づいてきた。

 大柄な男だ。上背があるだけでなく、服の上からも、筋肉がついているのがわかる。

 男は仮面をつけていなかった。

 整った顔立ちだ。だが、引き結んだ唇や、切れ長の目が、酷薄過ぎる印象を与えていた。


 ……あれ?

 ……この顔、どこかで見たような?

 直緒は思った。

 既視感があるが、思い出せない。実際に会ったことはないようだ。


 男は黙ったまま、直緒にダンスを申し込んでいた男性を押しのけた。

 押しのけられた男性は何か言い返そうとした。だが、ぐっとひとにらみされて、口をぱくぱくさせただけで、引き下がった。

 

しつこい誘いだったので、直緒はほっとした。

 ……この人も、俺にダンスを申し込むのだろうか?


 直緒を見て、男は目を眇めた。

 腰を屈め、直緒の耳元に口を寄せた。

 そして、言った。

「一乗寺典子じゃないな」


 ……ばれた?


 一乗寺家専属のメークアップアーティストは、完璧な仕事をしていた。

 もともと、女性と間違えられることも多い容姿をしている。

 短時間で、直緒の顔は、女性のそれと変わらない仕上がりを見せていた。

 それも、メークアップを施した専門家自身が、モデルにスカウトしたがったほど、可憐に、女性らしく。


 しかし、それが典子に似ているかというと……。


 再び声が降ってきた。

 「あんた、男だな」


 狼狽して、直緒は顔を上げた。

 すっと、男の手が伸びてきた。

 無言のまま、目元の仮面を取り払われる。

 男が、まともに顔を覗きこんできた。

 目と目が合った。

 筋肉の盛り上がった両腕が、直緒を抱え込むように影を落とす。

 そのまま、壁に押し付けられた。



**



 「あれ、」

本谷に近づいていく男性に、もなみは見覚えがあった。


 彫りの深い顔立ち、Tシャツにジャケット姿。

 典子と二人で、花瓶の陰から覗き見した男だ。


「さっきのひとですよね」

「あ、」

典子も思い出したようだ。


 男は、本谷にダンスを申し込んでいた男性を押しのけた。

 小太りで、かなり年上の男性だった。

 しつこい申し込みだったので、もなみは、胸がすっとした。


 しかし。

 続く場面に、もなみは目を疑った。

 何か囁いたかと思うと、男は、本谷の仮面を外した。

「うそっ! まずっ!」

 そして、椅子ごと本谷を、壁に押し付けたのだ。

「うわっ、なに、あれ……」


 ……いい男ほど、変態が多いとか?

 ……あ、でも、今、本谷さんは、女装中。

 ……じゃ、変態じゃない? ってか、女だとダマされただけ?


 男は両腕を壁に押し付け、本谷をがっちりと囲い込んでいる。


 「か、壁ドン……」

傍らでかすれた声がした。

 「初めて見ました。あれが噂の壁ドンですか」

そう言って典子を振り返り、もなみはぎょっとした。

「お、お嬢様……、鼻血……」


「あ」

「うわっ、大変、ドレスに垂れる!」

「それどころじゃないわっ! 直緒さんがっ! 直緒さんがっ!」

流れる鼻血をものともせず、典子が叫ぶ。


 確かに大変だった。

 男は、直緒の両腕を壁に押し付けていた。

 腰を斜めに屈め、座っている直緒の顔に覆いかぶさるようにしている……。



**



 女の子を壁に押し付けたことなどない。

 強引に、腕を掴んだことも。

 ましてや無理やり唇を奪おうなんて……。


 自分はいつも、優しく、誠意をもって、女性と接してきたはずだ。

 それが裏目に出て、見事にふられたわけだけれども。

 それなのに、なんの因果で……。


 でかい男だ。しかも、体を覆っているのは、筋肉だ。

 唇が……男の唇が、自分の口元に降ってこようとしてる。


 男が男にキスをすることについて、直緒にはもう、疑問の余地はなかった。

 ただ、相手が男であろうが女であろうが、こんな風に、自由を奪われての強引なキスはいやだった。


 両手は壁に押し付けられている。すごい力だ。

 椅子に座ったまま、背後は壁。


 反撃の手段は限られていた。

 膝を蹴上げるしかない。この角度だと相手の急所を狙うしかないが、この際、卑怯だとかそういうことを言っている余裕はなさそうだ。


 思いきり右足を上げようとして……足が布地に阻まれた。

 ……緑のドレス。

 体にぴったりとした、絹のドレス。

 それが、直緒の足を拘束している。


 直緒の動きを察し、男がにやりと笑った。

 悔しいけど、整った顔立ちだ。

 それが、動物的な笑いを浮かべた。

 思わず背筋が、ぞくりとした。

 ……逃げられない。



**



 「お嬢様。早く、お部屋へ」

もなみは典子を連れ出そうとしていた。


 客たちが、ホールの様子に気を取られている間に。

 本谷があの様子では、いつ何時、身代わりがバレるか、わかったものではない。

 こんなところに、血だらけの令嬢を置いておくわけにはいかなかった。


 「いやよ。みすみすこんなご馳走を……」

「お嬢様はもう、本日必要分のカロリーを超えて摂取されました。チョコ・シューの食べ過ぎです。だから、鼻血が出るんです!」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 直緒さんが大変! 直緒さんと、あれは……」


 典子の最後の大声に気がついたのか、かぶりつきで下の様子を覗いていた客たちの何人かが振り返った。


 「……あの緑の服のお嬢さんは、一乗寺家の令嬢じゃなかったのか」

「じゃ、どなたですの?」

「令嬢の友達じゃないか?」

「ああ……考えてみれば社長が、大事なお嬢さんを、あんなところに一人で置いておくわけがない」

「美女と野獣。面白い余興じゃないか」

そんな囁きが聞こえた。


 ナオという名のおかげで、誰も男だと気づいていない。

 それにしても……。


 「一乗寺家令嬢」は、ここにいるというのに。

 チョコレートと鼻血でべとべとの顔をした女の子、

 が、まさか社長の掌中の珠、一乗寺典子だとは。

 ……誰も思わない。


 人々は、ちらりと典子の顔を見るなり、慌てたように目を逸らす。

 決して目を合わせまいと、固い決意を持って。

 まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。

 たとえどんなに豪奢なドレスを着ていても、いや、ピンクのフリルとレースは、かえって典子をヘンに見せている。

 ような気が、もなみはする。


 が。


 ……よかった。

 ……この人が、社長令嬢だとは、誰も気づいてない。

 ひとまずもなみは安堵した。



「社長は、ほんと、お嬢様がかわいいんだな。決して、人前にはお出しにならないもんな」

つぶやきが漏れ、温かい笑いが、回廊を満たしていった。


 「なるほど。あれが、壁ドンか。娘が言っていたぞ」

さっきの典子ともなみの会話が聞こえたのか、感に堪えぬと言う風に、誰かがつぶやいた。

 「お嬢様が教えて下ったんですね。親子で仲がよくて、うらやましい。お父さまを大事になさる、素敵なお嬢さんですね」

「そんな、君、あはははは……」

「で、丼はどこなんですの?」

「丼?」

「だから、壁丼かべどん。恋人同士が、壁に向かって丼ご飯を食べるんでございましょ? 宅の息子は、そう教えてくれましたわ」

「……」


「そっ、それにしても、きれいなお嬢さんですね。緑のドレスがよくお似合いだ」

「ほんとに、上品で可憐で」

「セクシー……」

「いや、美しいという言葉がぴったりだね」

「あれ、どこかの女優さんじゃないかな」

「相手の男も、なかなかのイクメンだよ」

「え? イク……」

「まあ、あなた。違いますわ。イケイケドンドンですわ。今夜のお夜食は、ソーメンでよろしくて?」

「馬鹿だな、お前。ここでしっかり食べて行きなさい」


「そ、それにしても、豪華配役による寸劇ですね。いずれも、名の知れた劇団の俳優なんでしょうね」

「うむ。さすがは、一乗寺社長」

「ほんとうに」

「たいしたものだ」


 一乗寺社長を称賛する声が、回廊のあちこちで湧き起こった。



 ……?

 その時もなみは、階下の様子をまるで気にしていない人の姿に気がついた。

 シャンパングラスを手に持ち、カパッ、カパッ、と、面白いように空けている。

 典子をひとまずその場に残し、もなみはその人物に近づいて行った。

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