野放しの腐女子
もなみが部屋から出てくると、典子の姿がない。
……どこへ?
あの方を一人で置いておいてはいけないと、家令の古海から、きつく言い置かれている。
……だったら、自分が張り付いていればいいものを……。
ただでさえ、本宅は、パーティーへの来客でごったがえしている。到着した客の名を呼ぶ、張りのある声が、次々と玄関ホールから響いてくる。
パーティーの準備か、本宅での仕事がたまっているのか、古海の姿はまた、消えていた。
……ということは、今、お嬢様は野放し?
慌てて、あちこちきょろきょろした。
見覚えのあるピンクのフリルが、ちらりと見えた。
廊下にでんと置かれた、花瓶の陰に隠れている。
花瓶には、見ごたえのある美しい花々が零れるように咲き誇っている。
著名な華道家、
「お嬢様!」
「しっ!」
モナミが声をかけると、唇に人差し指をあてて、くるりと振り向いた。
「どうされたのです?」
なぜ、一乗寺家令嬢ともあろうものが、花瓶の陰に隠れているのか。
典子が手招きしている。
「あれ……」
典子に言われて、もなみは、蔦に似た巨大な葉っぱの間をのぞいた。
廊下の突き当りの窓際に、背の高い、筋肉質の男性が立っていた。黒系のTシャツの上に、カジュアルなジャケットを羽織っている。
物憂げに、大きな窓から外を眺めている。
舞踏会の客であろうか。それにしてはラフな格好だと、もなみは思った。
傍らに、盆にグラスを乗せたボーイが立っている。
まだ若い、高校生くらいの年齢だ。長い前髪がうっとおしく、もなみの好みではなかった。
ボーイが男に何か話かけた。
男が振り返った。
「わっ、イケメン!」
浅黒い肌の、彫りの深い顔立ちだ。
「あれえ? どこかで見た顔……」
典子が首を傾げる。
男は盆からグラスを取り上げると、一息で飲み干した。
ボーイは少し上向き、男が赤い液体を飲み干すさまを見守っている。
「あっ!」
もなみははっとした。
ボーイが、空いている右手を、男のジャケットのポケットに手を滑り込ませたように見えたからだ。
「大変! お嬢様、掏摸ですよっ!」
「しっ!」
「こともあろうに、一乗寺家本家の使用人が掏摸、」
「違うったら! 黙って!」
「でもっ!」
「いいから、見てて!」
ボーイの不埒に、男も気づいたようだ。
ポケットの中に右手を突っ込んだ。
しかし、彼はそこから、小さく折りたたんだ紙片を取り出した。
何かのメモのようだ。ボーイが突っ込んだものとみえる。
「だから、掏摸じゃないのよ……」
「え……?」
「うーん。あれは、メアドのメモね。やるわね、あの子」
感心したように典子がうなる。
「さすが一乗寺本家。人を見る目があるわ」
「お嬢様。あれは、両方、男です」
「だからよっ!」
「まったく、また腐った妄想を……」
はっと我に返った。
「お嬢様、こんなところで立ち見していると、また、古海さんに叱られますよ?」
典子を花瓶から引き離そうとする。
「いやよ。まだ続きがある筈……」
「ありません、続きなんか! 男同士なんですよ? 何もあるはず、ないです!」
「あるっ! 絶対、あるっ!」
「ないっ!」
言い争う二人の横で、かつかつと勇ましい足音がした。
アクアブルーのカクテルドレス姿の女性が、歩いていく。
寄り添っていた二人の男性が、ぱっと離れた。
「お嬢様、隠れて!」
もなみは、典子を、大きな花瓶の葉陰に押し込めた。
ばたばたと慌てた足音がした。
ボーイが盆で顔を隠すようにして、走り去っていく。
アクアブルーのドレスの女の子が、イケメンのジャケットの袖に、自分の腕を絡ませた。
「なあんだ。ノンケか……」
難解な専門用語を、典子がつぶやいた時。
ぱっと、その手が振り払われた。
呆気にとられた女の子を一人残し、ジャケットの男性が、こちらに近づいてくる。
「うわっ、まずっ!」
典子を押さえつけ、葉陰に小さくなった。
男が立ち止まる気配がした。
一瞬の静寂。
もなみは、恐る恐るアンスリュームの葉陰から顔だけ出した。
そこに立ち止まっていたイケメンと、ばっちり目が合った。
男はにやりと笑った。
背後から、女の子の金切り声が聞こえた。
男を罵っている。
呆然とするもなみの手を、典子が掴んだ。
「モナちゃん、逃げるわよ!」
全速力で走り出した。
典子に引きずられるようにしては走りながら、もなみの目は、一乗寺家本宅の執事の姿を捉えた。
家族ルームからから出てきた彼は、ドレスの裾をめくって走り去って行く令嬢とメイドの姿を、呆れたように見送っていた。
男が、執事に話しかけるのが見えた。
「あ、あの、お嬢様、なんで私達、逃げているんですか?」
階段を駆け下りながら、もなみが尋ねた。
確かに、覗き見は褒められたことじゃない。
しかし、逃げるほどのことか?
もなみは合点がいかない。
「なぜ? なぜって……」
息を切らせながら、典子が言う。
「条件反射? 習性? 惰性? あれ?」
典子は考え込んだ。
「なんでだろうね……?」
それでも立ち止まろうとしない。
仕方なく、もなみも走り続けた。
走りに走って、典子の部屋に逃げ込んだ。
ドアを開けると、本谷が振り返った。
赤い顔をして、何かを隠した。
しかし、典子ももなみも、本谷どころではない。
ぜえぜえはあはあと、呼吸を整えるので、精いっぱいだ。
「あ、じゃあ、僕はこれで……」
本谷は言った。
二人が息を切らしている理由を聞こうともしない。
まるで、典子とメイドが走って自室へ駆け込んでくるのは、日常茶飯事だと言わんばかりだった。
「駄目だったら」
典子が叫ぶ。
「直緒さんにはね、大事な使命があるのっ!」
「大事な使命?」
「これよ!」
まだ息を弾ませたまま、典子は、続きの間のドアを開けた。
そこには、トルソーに着せられた、目の覚めるように美しい、緑色のドレスが置かれていた。
「……なに?」
「直緒さんのドレス!」
「へ?」
「これを着て、直緒さんが踊るの!」
「!」
……ああ、あ、言っちゃったよ。
もなみは心の中でため息をついた。
……これで本谷さん、会社、辞めるね。
「ば、な、それ……」
本谷は言葉も出ない。
激しくせき込んだ。
「だって、それ、女性のドレス……」
苦しい息の間から、言葉を吐き出す。
「いいえ、これは、直緒さんのです」
きっぱりはっきり、典子が言い切った。
「直緒さんのサイズに合わせて作ったんだから」
採寸の日……。
もなみは、その日を思い出す。
意気揚々と、典子は、本谷をデザイナーのアシスタントの待つ部屋へ連れてきた。
素早く、アシスタントの女性と、目顔で頷き合う。
それから、採寸をするのはいやだと、だだをこね始めた。
「ほら、お嬢様。こんな風に、メジャーを当てるだけでございますよ。ほら、ほら」
アシスタントの女性は、素早く本谷の腰回りにメジャーを巻いた。
「肩幅も、ほら……」
ワイシャツ姿の本谷は、素直に、されるがままになっている。
「ねね、典子さん、ちっとも怖いこと、ありませんよ」
あまつさえ、本谷はそんな風に、典子を宥めたりしてる。
優しい声で。
一通り直緒の体のあちこちにメジャーを当てると、アシスタントの女性は、目で、典子に微かな合図を送った。
「それじゃ、わたしも測ってもらおうかな……」
典子が言った。本谷は、ほっとしたように、ため息をついた。
はたしてそれから数週間して、ドレスが届けられた。
もちろん、2着。
ピンクのと、淡いモスグリーンのと。
グリーンの方は、ハイネックだった。
「本当は、デコルテの開いたカクテルドレスにしたかったんだけど。喉仏があるから、仕方ないか」
典子は、緑のドレスを着たトルソーの回りを一周した。
自分のドレスには見向きもしない。
「直緒さんのは、試着はできないけど、あのお針子さんの仕事は、完璧だから」
そう言って、典子は満足そうに、両手をこすり合わせたものだ。
「……悪魔」
思わずもなみはつぶやいた……。
……。
「さあ、直緒さん。これに着替えて」
「いやです」
「だめよ。着替えるの」
「いやですったら」
「上司命令です!」
「それでも……いやです」
「直緒さん……」
典子の声が変わった。
「創で失敗した腐男子化計画、このままわたしが黙ってひき下がると思ったら、大間違いよっ!」
「?」
「いいから、着替えなさいっ!」
……お嬢様、めちゃくちゃ言ってる。
もなみは思った。
しかし、あれでけっこう、お嬢様は、癇癪持ちだ。子どものように、地団太踏んだりする。
本人も、後から後悔したりするのだけれど。
「本谷さん、」
もなみは、割って入った。
「私からもお願いします。どうか、お嬢様のために。お嬢様が不幸にならない為に」
「……どういうことですか?」
本谷の目が、大きく見開かれた。
……
「ダンスを申し込ませる」
さっき、一乗寺社長は、呼びつけたもなみに言った。
「典子と交際したいと言ってきた男に、何人か、声をかけてある。一乗寺家のパーティーで、典子に、ダンスを申しこむようにって」
「お嬢様と交際したい……っですって? それはどういう……」
……ヒモノのお嬢様と?
……腐っているのに?
……交際したいって!
本当は、その男性達は、いったいなんでまた、典子となんか交際したがるのですか、と聞きたかった。
もちろん、聞けるわけがない。
一乗寺社長は頷いた。
「それはもちろん、一乗寺家令嬢としての典子と、結婚を前提にした交際をしたい、ということだ」
「け、結婚?」
「うむ」
社長は誇らしげに続けた。
「わしが、典子にダンスを申し込む許可を与えたのは、えり抜きの男たちばかりだ。財力ばかりじゃないぞ。能力も兼ね備えた、一乗寺財閥にふさわしい男たちばかりなのだ」
「カオはどうですか?」
「かお? 顔なぞ、ついていればよろしい」
いや、そこ、大事なとこだろう、ともなみは思った。
装備はカオから。
でないと、典子は萌えることができないではないか。
……あ。
……結婚相手に萌える必要はないのか?
もなみは尋ねた。
「実際に、お嬢様とご面識は?」
「あるわけない」
一乗寺社長は、即答した。
「わしが、大事な娘に、不用意に男を近づけたりするわけがなかろう」
……出た。
……親馬鹿発動。
「お嬢様はそれをご存じで?」
「いや。あの子は内気で恥ずかしがり屋さんだから。ただ、気に入った男とだけ踊るように、言っておいた」
……内気?
……恥ずかしがり屋さん?
持波の頭の中に、大きなクエッチョンマークが点灯した。
……誰のことだ?
まるで別の人物のことを話しているようだった。
だが、一乗寺社長の娘と、もなみが仕えているのは、同一人物なのだ。
「君には、典子が滞りなく男を選べるよう、サポートしてほしい」
つまり、敵前逃亡しないよう、しっかりと見張っておれということだ。
そんなこと……。
「無理です」
「君を見込んでのことだ。典子の幸せ、ひいては、一乗寺ファミリー盤石の為だ。頼んだぞ」
もなみの言葉に被せるように、一乗寺社長は言い放った。
……
「あんの~、タヌキおやじめ~」
もなみの話を聞き終わると、典子は叫んだ。
「わたしに、気に入った人とダンスを踊れと言ったのは、そういうことなのね!」
「ですから、本谷さん、このままではお嬢様は、好きでもない男と交際させられ、いずれは結婚……」
「……好きでもない男と?」
本谷の顔色が変わった。
「けっこん……」
「いや、ですからね。ダンスの申し込みを受けるということは、この人が気に入ったと公言するようなものなのです」
「でも、なんで僕が、ドレスを……」
……鈍い男だな、と、もなみは思った。
……イケメンだけど。
しかし、口には出さず、もなみは、にっこりほほ笑んだ。
「本谷さんは、お嬢様の替え玉となるのです」
「か、替え玉?」
「中には、押しの強い男もいるでしょう。強引に手を取られたら、お嬢様としても、踊らざるをえません」
……もし万が一、言葉を交わしたりなんぞされたら、腐女子でヒモノが、バレてしまうではないか。
もなみとしては、相手が確かなら、典子も、男性と交際すべきだと思っていた。
もちろん、結婚まで進む必要はない。
家の為の結婚など、もってのほかだ。
だが、お相手は、一乗寺社長の眼鏡にかなった、いずれも御曹司なのだろう。
1人や2人、つきあってみるのも、悪くない。
そうなれば、典子の、腐女子はともかく、ヒモノの方は、なんとかなるかもしれない。
恋は、女性を美しくするというではないか。
というか、いい加減、男を作って、「フツーの」お嬢様になって欲しい。
そうしたら、日々の業務が、どれだけ楽になることか。
お風呂に入れたり着替えをさせたり、その度に引っ掻かれることもなくなるだろう。オタクの魔窟へ捜索に行く必要もなくなる。
……典子お嬢様のダンスは全然ダメ。それに引き替え、本谷さんの踊りは、神田先生直伝だけあって、とっても優雅だから。
……とりあえず、本谷さんが男をゲット。そいつが次に会うのは、典子お嬢様。
もちろん、2人の顔の造作は大きく違う。しかし、相手の男が付き合いたいのは、そもそも「一乗寺家令嬢」なのだ。
「ですから、本谷さん、あなたがドレスを着てダンスを……」
「ダンスはいいの。直緒さん、誰とも踊る必要はないわ」
素早く典子が割り込んだ。
「直緒さんはただ、座っているだけでいいの」
「それでも、無理です。僕は典子さんとちっとも似てない。第一、男だし」
追い打ちをかけるように、もなみは言った。
「仮面をつけるのです。社長は、愛娘の素顔を、大勢の前で晒したくないそうです」
そう。
後日、本谷と典子の入れ替わりを責められたら、ベネチアングラスと、パーティーの雰囲気のせいにしてしまおう。
「あ、だから、毎年、パーティーではお面をつけさせられていたのね」
無邪気に典子が言い放った。
「去年は、ひょっとこのお面をつけたわ」
「あれは不評でした。社長はたいそうお怒りで」
もなみは、さきほど一乗寺社長から預かった小箱を取り出した。
蓋を開けると、目の辺りにだけ当てるベネチアンマスクが出てきた。
赤くて両端が大きく上へ跳ね上がっている。
「お客様は、誰も、お嬢様の素顔を知りません。これで目元を隠せば、本谷さんなら、大丈夫。だって、美形だもん」
「いや、さすがに、ご家族は欺けないでしょう?」
本谷が言うと、典子が胸を叩いた。
「大丈夫。パパは、わたしが他の男と踊るのを見たくないって言ってた。ダンスタイムには、喫煙室へ移動するそうよ」
「お母様と弟さん……」
「綾ママは、わざわざわたしのダンスを見たりしないわ。創は……そうね、あとから、ちょっと脅しとく」
「……」
強い口調でもなみが言う。
「本谷さん、本谷さんは、お嬢様のお幸せを願っておられますよねっ? だったら、お嬢様の幸福の為に、身代わりを務めるべきです!」
「そ、それは……」
「直緒さん。わたしの為に、ドレスを着て。お願い」
穢れを知らない少女、のような瞳で、典子が哀願した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます