96 呼び合うものⅢ
雨脚が弱まっている。
ユーリィは後ろ手に組みながら、窓の外の景色を見つめていた。
トナーによれば、晴れた日には遠く王城を臨むことができるという。
いまはただ、風に揺れる街路樹と、近くの建物から、部屋の明かりが雨に煙って見える程度である。
「この嵐が去れば、本格的な春が訪れるでしょう」
振り返ると、トナーが両手にカップを持っていた。
「キーファ君が心配ですか?」
「いえ……」
答えながら、ユーリィは本の椅子に腰かけた。
トナーからカップのひとつを受け取った時、
「あなたも人が悪い」
言われ、ユーリィは眉間の皺をさらに深くさせた。
「……キーファには、見聞を広げてもらいたいと思っています」
「わかります」
卓を挟み、トナーも椅子に座る。紅い液体の入ったカップを傾け、
「かわいい子には旅をさせろと言いますからね。キーファ君は頭のいい子です」
「ですが、部族の旧弊にとらわれている」
「だからこそ、あなたはキーファ君に広い世界を見せてあげたかった」
トナーの言葉に無言で返し、ユーリィはカップの液体を飲んだ。ちらりとトナーを見ると、そこには穏やかな笑みがあった。
ユーリィはちいさく息を吐く。
「キーファは、失われつつある部族の特徴を色濃く引き継いでいます」
「そのようですね。あれほど
「おっしゃる通りです」
ユーリィは認めた。
「長老は、キーファこそ部族を背負って立つ人間だと考えているようです」
「自然な流れではあるのでしょう。あなたはちがう考えをお持ちなのですか?」
「同じです」
「とは言え、キーファ君ほどの大器を、狭い世界のなかで終わらせてしまうのは、いかにも惜しい、と――そんなところでしょうか」
ユーリィは肯定も否定もせず、カップを傾ける。
「あなたもまた、道に迷っている」
トナーは笑みを浮かべながら、
「――私は旅する一尾である。想いなくして何を得られよう」
「……クリスティアン=タゴール」
ルーシ人らしく世界中を旅し、数々の詩業を
はい、とトナーはうなずき、
「もしキーファ君を部族の世界だけで終わらせたくないと望むなら、あなたはご自身が成すべきことを知っているはずです」
ですが、とトナーは続ける。
「それはキーファ君の解決になっても、あなたの解決にはならない。あなたは、決別しなければならない。あなた自身を縛る旧弊から」
「縛られているつもりはありません」
ユーリィがきっぱりと告げると、
「慎重になるのはわかります。あなたの智は、多くの命を左右する」
「過大評価でしょう」
「いいえ、過小評価です」
トナーは笑みを崩さない。
「あなたに会わせたい方がいるのですが、きっと、私が余計なことをするべきではないのでしょう」
「私に、ですか?」
「あなたと同じように迷い、悩み続ける若者です」
「先日、先生が仰っていた?」
「そうです」と、トナーはうなずき、
「彼というか、彼女というか。いや、彼女と呼ぶのが本当かな」
「キーファのような事情があるのですか?」
「そういうわけではないのですが。まぁ、深い事情はあります」
言い、トナーは静かにユーリィを見た。
「ねぇ、ユーリィさん」
あらたまった口調で呼ばれ、ユーリィが視線を返すと、
「そろそろ、身を立てる術を探ってみてはいかかですか? あなたがその気になれば、出仕の道を見つけるのは難しいことではないはずです」
訊かれ、ユーリィはややあってから、
「国と言わず、人と言わず……仕えたい、仕えたくない、でもないのです」
トナーは黙って聞いている。
「私は、思うのです。――人は、関係の束ではないかと」
「というと?」
「人は群れの生き物です。意識しようが意識しまいが、その関係という『糸』を常に発しつづけている。その糸を手繰る者、あるいは、引かれる者。愛し憎しといった感情も、その絡み合う糸によって、生まれ出ずるのではないかと」
「ははぁ」と、トナーは腕組みをする。
「関係の糸、ですか」
「この世には、人の頂点に君臨する存在として、王と呼ばれる者がいる。私にとっての王とは、一般に英雄と呼ばれるような、人並み外れた智勇を有する者ではなく、この関係の束こそが人並みはずれているのです」
「器と言い換えることはできますか?」
「似て非なるものです。取り込まれている、という意味では同じかもしれませんが、その器に入るものは、おおむね器の主に対して好意的です。私が思う糸とは、味方を作りながら、同時に敵をも作る関係です。良し悪しの問題ではありません」
「巻き込まれる…‥その言葉そのものだと?」
「気がつけば仕えている。それが国なら国でいいし、人なら人でいい」
「そこにあなたの意思は介在しているのか? と問いたいところですが、介在しているのでしょうね。ちょうどあなたがサーシバルさんにキーファ君を連れていかせたように」
「そう思います」
「やはり気になりますか? 同じ猛禽の名を持つ
ユーリィ=オルロフ。オルロフとは『鷹』という意味だ。
「気にならなかったと言えば嘘になるのでしょう。そして彼は、『エルフ』との関係を持っていた。私はキーファに多くを見、多くを知ってもらいたいと思っていました。そういうことなのだと思います」
よくわかりました、と、トナーはカップを卓の上に置いた。
「私には、あなたの考えを否定するつもりはありません。あなたの考えが間違っているとも思いません。――でもね、ユーリィさん」
トナーは笑みを浮かべつつ、
「もつれた
その瞳には、かすかな憂いが潜んでいる。
「長く籠の中に閉じ込められた鳥は、飛び方を忘れてしまうことがあるそうです」
切実な声の響きに、ユーリィは眼を見開いた。
「たとえ短い期間だったとしても、あなたは私の教え子です。出藍の誉という言葉があるように、あなたはとっくに私を超えている。そんなあなたの才能が日の目を見ず、埋もれてしまうことが、私には何より悲しい」
ユーリィは何も言えなかった。かわりに、深く頭を下げる。
「いつか、あなたの翼が大空へと羽ばたくことを信じています」
そう言って、トナーは立ち上がった。空になったふたつのカップを下げようとすると、
「――先生」
呼ばれ、トナーが「はい?」と振り返ると、
「その茶は、非常に苦いです」
ユーリィが苦笑を浮かべていた。トナーはユーリィと空になったカップを交互に見やり、声を上げて笑った。
「そのうち病みつきになりますよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます