94 呼び合うものⅠ
視界に、イグナスが立っている。全身を
イグナスは辺りを見回し、消えた力を確認してから、ティアを見下ろしてくる。
「お目覚めかい?」
イグナスの顔に、余裕の笑みが広がる。
ティアは無言のまま立ち上がった。じっとイグナスを見つめる。
イグナスはやや眉を寄せたものの、ティアの様子に満足したらしく、
「仲直りでもしようや」
蛇の瞳が銀光を発した。握手を求めるように手を差し出してくる。
その光に誘われるように、ティアはイグナスの手を取った。
「かわいいものだ」
会心の笑みを浮かべるイグナスの口から、ぞろりと長い舌が伸びてくる。
その舌がティアの頬に触れる寸前、
「――イグナス」
「ああん?」
イグナスの舌が止まった。怪訝そうにこちらを見下ろしてくる。
「お前に、言っておかねばならないことがある」
ティアの瞳が赤い色へと変わり、イグナスの瞳同様、妖しい輝きをまとう。その顔に付着した血が、じわじわと白い肌の下に染み込んでいく。
自分の支配が解けていることに、ようやくイグナスは気がついたようだった。
「お前とは契約をしないことに決めた」
ティアの華奢な手が、イグナスの手を強く――骨が軋むほどに握りしめていく。
「私は――」
言いながら、ティアはイスラを見た。こちらを見返してくる黒狼に、ティアはふっと笑みを浮かべ、
「すでにイスラと契約している。お前は、お呼びじゃないんだ」
「ホォォウ……」
イグナスがにやりと
「言いたいことはそれだけか?」
「いや」
ティアは笑みを消し、イグナスを見上げた。
赤と銀の瞳がぶつかる。
「いつまで私の前に立っているつもりだ? 邪魔だぞ、イグナス」
瞬間、お互いに手を掴んだまま、ティアとイグナスが身構えた。
先に動いたのはイグナスだった。
ティアが掴んだ手を引っ張った。イグナスが体勢を崩し、剣が地を打つ。ティアは後ろに倒れつつ、掴んだ腕を巻き込み、両足でイグナスの首を挟んだ。
上下逆さまになって締め上げる。
「……苦しいか」
ティアが言うと、イグナスは顔を鬱血させながら、「いいや」と嗤い、
「女の股で死ねるほど、幸せなことはないぜ」
「なら、死ね」
密着させた足から、ズボンを裂き、黒い刃がイグナスを刈った。首が転々と地面に転がるも、胴体が握るイグナスの
ティアは黒霧となってイグナスの横に移動すると、腕を掴んだまま、イグナスを宙へと高く放り上げた。同時に、転がった生首を
無表情に見上げるティアの右手が、ばちり、と黒い雷をまとった。
「――
放たれた黒雷が、イグナスの首と胴体をさらに押し上げた。地下墓所を抜け、イグナスが夜の空へと飲み込まれていく。
「
ティアは舌打ちし、背から蝙蝠の翼を広げた。
飛び立つ直前、
「ティア!」
ファン・ミリアに呼び止められた。見ると、動きはじめた墓所内で、ファン・ミリアとジルドレッドが
「もう、大丈夫なのか?」
星槍を操るファン・ミリアが、心配そうにこちらを見ている。
「……ファン・ミリア」
ティアはつぶやき、
「もう大丈夫だ。――貴女と、その勇敢で高潔な聖騎士のおかげで」
床に寝かせられた白い聖騎士に、瞳を向ける。
「あなたの心は、私のなかで永遠に生き続けるだろう」
失われた聖騎士に弔意を込め、
「ありがとう」
言い、ティアは夜へと飛び立っていく。
「……また、行ってしまうのか」
ファン・ミリアがティアを見上げていると、
「借りがひとつできた」
振り返ると、黒狼が立っていた。
「神託の乙女よ、私からも礼を言おう。人の心とは、かくも強きものかと思い知らされた。――まったく、大したものだ」
「お前のためにしたことではない」
返答に悩んだものの、ファン・ミリアがそう返すと、黒狼はかすかに笑ったようだった。地を蹴り、ティアを追いかけていく。
「ティア……」
ファン・ミリアの声は、喧噪にかき消された。
ティアはウル・エピテスの尖塔の先に着地した。爪先立ちにイグナスの気配を探っていると、イスラが宙を駆け上ってきた。
「どうやら、己の性分を知ったらしいの」
「ああ」
ティアはうなずき、
「紫の魔女に会った」
「なに?」
「イスラをよく知っているようだった」
ティアが告げると、「そうか」と、イスラはつぶやいた。
「素晴らしい人だった……」
「さもありなん」
誇るような言葉とともに、イスラの身体が溶けるように黒い水と化した。
『門出じゃ。いま私の使えるすべての力を、お前に回してやる』
ティアの破れた服の胸元から入ってくる。ティアの全身を包み、膨れ上がっていく。ぼろぼろになった服を破裂させると、今度は収縮し、ティアの首の下から手首、そして足先にかけて貼りついた。
水が服に――漆黒の
「これは?」
「奴の闇を浸食し、お前の力を伝わりやすくした。が、注意せよ。向こうへの力が通じるということは、お前にも奴の力が通じるということでもある」
「それはいいが……」
ティアは何とも言えない気分でドレスを見下ろした。
ドレスからは、イスラが
「できれば、女物より男物のほうがよかった」
ティアが本音を漏らすと、
『では、素っ裸で戦うがよい』
あっさりとイスラが言い、服が黒い水に戻りはじめる。
「嘘だ。とてもいい服だ。最高に気に入った」
半ば脅しである。ティアがあわてて言うと、イスラは鼻で笑い、
『おそらく――、かつての私はこれを身にまとっていた』
思い出すような口調で言った。
「……意外と女性らしい趣味なんだな」
そういえば、とティアは思い出す。紫の魔女は、イスラのことを『いつもにこにこしていた』と言っていた。
ティアの知らないイスラは、どんな神だったのだろう。
気にはなったものの、いまはそれを考える時ではない。
「イグナスは、どこだ?」
漠然と近くにいる気配を感じるものの、はっきりとした位置が掴めない。
どこかで息を潜めているのか。
『奴は姿を隠す術を持っておる。お前の隙を狙っておるのだろう』
「小賢しい男だな」
『どうするつもりじゃ?』
訊かれ、ティアは周囲を見回した。尖塔からは、ウル・エピテスの灯と、闇夜の底に輝く王都の明かりが浮かんでいる。
風はまだ強く吹いているものの、いつしか雨は小降りになっていた。王都から逆に目を向けると、増水したヌールヴ川が、荒れ狂うネブ海峡に流れ込んでいく様が一望できた。
「もうすぐ嵐が終わる」
ティアは言った。
「夜明けまでに
身体に、疲労が溜まっていた。まるで何日も徹夜をしたよう感覚がある。
紫の魔女が『ティアに負担をかける』と言ったのは、このことなのだろう。
その一方で、頭の中は澄んでいる。
――今なら、多くのことができる。
これもまた、魔女と触れ合った余韻だろうか。それとも、吸血鬼である己を認めたからだろうか。
ティアは身体から数匹の蝙蝠を分離させた。散り散りに飛び立っていく。
鼓膜に、人間の耳では捉えることのできない極小の信号が届きはじめた。
蝙蝠だけが感知し得る超音波――
『音の結界か』
「見つけてくれたようだ」
視線を定め、ティアが別の尖塔の中層を目指して滑空する。
広げた翼をたたみ、流線形に身体を包んだ。速度を上げ、そのまま尖塔に突っ込んでいく。
「グ、ハァ!」
壁とティアとの間に挟まれ、イグナスが姿を現した。ちょうど腹あたりにティアの羽が食い込み、その口から、霧ではない赤い血が
「それが人の痛みだ、イグナス」
勢いそのままに、尖塔を貫通する。
折れ倒れていく尖塔を省みることなく、ティアは翼を広げた。腕を振ると、ドレスの袖下から長く黒い刃が滑り出てくる。握りしめ、イグナスに斬りかかる。
「痛ぇだろうが!」
イグナスが
「痛ぇぇぇ!」
イグナスが喚く。剣を握る別の手が、巨大な蛇へと変じた。蝙蝠を丸呑みし、ティアへと向かってくる。
『逃げるな、ティア!』
「わかっている!」
イスラの声に返し、ティアが自らの腕を蛇の口に突き込んだ。自分の腕もろとも、黒い刃で蛇を斬り落とす。
ギャァアア! というイグナスの絶叫が周囲に響き渡った。ティアもまた、激しい痛みによる悲鳴を押し殺した。
『それで良い』
イスラが言った。
『心を強く持て。化け物には化け物の戦い方がある』
「ああ」
イグナスの腕と、ティアの腕が再生をはじめる。ドレスも元通りになった。
「イスラは平気か?」
「無論」
平然とした口調ではあるが、イスラの力が弱まるのをティアは感じた。
「
怒りの形相でイグナスが
――私より、イスラがもたない。
何か手はないか、と考えた時、ティアの脳裏に、ある映像が映り込んできた。
「…‥呼んでいるのか」
素早く見下ろした。
夜目の利く瞳が捉えた、眼下の地下墓所……。
ティアが、顔を上げた。イグナスを見て
「お前は、馬鹿だ」
「なぁにぃぃぃ!」
怒りを含んだ蛇の瞳に、ティアは
取り残されたイグナスは尖塔に着地した。
「なんだァ?」
呆気に取られつつ、落ちていくティアと、その先の地下墓所を見やる。
すでに地下墓所はジルドレッドとファン・ミリアによって制圧されはじめている。粉々になった
ふたりの英雄を相手にするには、
そしてイグナスは気づく。
ティアはその
――なぜ
そう思ったイグナスの瞳に、黒い輝きを残したままの魔法陣が映った。
――まずい!
ティアの狙いを悟り、イグナスもあわてて尖塔から飛び降りた。
――まずいぞ!
焦りを感じながら、イグナスが
「グ‥…ォォ!」
「――知ってるかい?」
吹き飛ばされたイグナスが見ると、そこに
「蛇の天敵は
再び地下墓所に入ったティアは、着地とともに弱った
暴れる
「――ティア?」
一瞬、喜色を浮かべたファン・ミリアには気づかず、ティアは地に転がったグスタフの剣を取った。次に、魔法陣へと向かう。
――あなたの剣を我が血で汚す。お許しを。
ティアは心の中でグスタフに詫びながら、自分の手首を噛んだ。動脈を傷つけ、噴き出る血でもって剣身に浴びせかける。
「イスラ」
『何じゃ』
「私に家名をよこせ」
『……よかろう』
イスラもティアの思惑に気づいたらしい。わずかな沈黙の後、
『フィール』
「意味は?」
『半分』
「わかった」
ティアはうなずく。まだ暴れる
「大人しくしろ」
掴んだ手に力を込めて言うと、頭部が割れた。ボロボロと崩れ落ちていく。
「あ……」
やってしまった、と思った。破壊するつもりはなかった。
「まぁ、なんとかなるだろう」
これも運命だ――そう思い込むことにして、ティアは
その
赤い瞳が輝いた。
「……
ティアの言葉に呼応して、魔法陣に描き込まれていた文字と紋様が形を変えはじめる。
瞳を静かに閉じた。剣の上に、両手をかざす。
「――
舞うような手の動きとともに、魔法陣の輝きが強まっていく。
漆黒のドレスを身にまとい、闇の巫女が祈りを捧げる。
「
瞳を閉じたティアの脳裏に浮かぶ、何十枚もの
意識の手を伸ばし、その中から一枚を選び取る。
――『
『嵐の夜』
『首のない躯』
『
『血塗られた騎士の剣』
その者の姿と、手札に描かれた絵を重ね合わせた。
魔法陣の光が限界まで高まり、風となって髪を、
「其が主、ティアーナ=フィールの名において命じる。バディス=ヨーク・ニー=ノウよ、
「あれは……?」
ファン・ミリアは、その様子を離れた位置から見ていた。
「はじめて見る術だが、どうやら魔法陣を上書きしているらしいな」
ジルドレッドが、隣に立っている。ティアが
「このまま見ているだけでいいのでしょうか?」
複雑な表情でファン・ミリアは質問した。ティアが自分を取り戻したことは嬉しい。だが、その後どうすべきか、ファン・ミリアは考えていなかった。
考えたくなかった。
「放っておくわけにはいかぬが……あの娘がタオ=シフルである以上、その責任の一端は我々にもある」
「……はい」
ファン・ミリアはうなずいた。
ジルドレッドが、巨剣を投槍のように持つと、瞑目するティアの頭上あたりに投擲した。
巨剣が、ティアめがけて投げられた
「どいつもこいつもォォォ!」
イグナスが、忌々しい表情を隠すことなく降りてくる。
「いまは奴を仕留めるのが優先事項だ。行くぞ」
「はっ!」
走り出したジルドレッドに、ファン・ミリアも続いた。
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