92 春宵一擲Ⅹ
――どうにも具合がよくないな。
ジルドレッドの巨剣をかわしながら、イグナスはティアへと意識を向けている。
――馴染むまで、まだ時間がかかるか。
けれども、成果としては上々だろう。
そもそもが横やりなのだ。魂を強奪するような荒業は、それこそ事前に印をつけておかなければできない芸当だった。
……その脇腹に。
ティアは――ティアであったものの魂は、非常に魅力的だ。
それでいて、
その価値に黒狼は気づいている。
気づいているからこそ、ティアとして蘇らせたのだろう。
――ここで、退散しておくのも手か。
大幅に計画が狂うことにはなるが、ティアが手に入ると思えば、
――時間をかけすぎるのも具合が悪い。
本来、イグナスが今夜の舞踏会に現れたのは、レイニー暗殺のためだ。救出に来るであろうその仲間もこの
それが、どういうわけか聖騎士団を相手にする羽目になっている。
顔を見られた以上、仕事がやりにくくはなるものの、
――聖騎士団は、残しておく価値がないわけでもない。
イグナスが算段をつけていると、
「注意がそれているな」
巨剣を、イグナスの腕が受け止めている。黒い鱗がざらりと輝いた。
しかし、ジルドレッドはさして驚いた様子も見せず、その上、
「悪だくみを、俺が許すと思うか?」
まるでイグナスの心を見透かしたように、言った。
「――まったく」
イグナスは溜息をつく。やはり、この男はただ者ではない。
何よりイグナスが警戒していたのは、この男の直感にも似た注意深さだった。休暇を与えられたはずのジルドレッドがこの場にいること自体、その証明になっている。
単純な戦闘力だけなら、ファン・ミリアのほうが上回っているのかもしれない。だが、そのファン・ミリアを旗下に置き、飼い殺しにするでもなく自由に近い権限を与えるのは、並の人間にできることではない。
なぜなら――ファン・ミリアという英雄が名を上げれば上げるほど、ジルドレッド自身の地位を脅かす存在となり得るからだ。
それは戦闘においても同様だった。
自分の部下を失ったにも関わらず、イグナスへの集中が途切れない。
隙が、作れない。
考えるまでもなく、最善の手ではある。いまジルドレッドが部下のもとへ走ればイグナスの手が空く。次の行動に移ることができるだろう。
――不撓とは、これほどの男か。
イグナスが思った時だった。
ジルドレッドの剣筋が、にわかに止まった。
――お。
不意に訪れた勝機に、イグナスのほうが驚いたほどだ。
翠眼が、ティアへと向く。だけでなく、ジルドレッドは顔を振って周囲を見回している。
――所詮は人の子か……。
一抹の失望を得たものの、この勝機こそ、他ならないイグナスの作為に依るところが大きい。
イグナスは
しかし――。
そのイグナスでさえ、はたと動きを止めてしまう。
「――なんだ?」
それは、何の前触れもなく訪れた。
イグナスの全身を緊張が走り抜ける。雷、ではない。依然として雨が降り続けるなか、気がつくと、地下墓所内に得体の知れない力が充満している。
何者かの視線を感じた。
「なんだ!」
ティアを見た。 ――ちがう。
ファン・ミリアを見た。 ――これも、ちがう。
黒狼を見た。 ――ちがう!
イグナスのこめかみを、冷たい汗がつたい落ちていく。笑みが、完全に消え去っていた。
――なんだ、この馬鹿々々しい力は!
空気が帯電したように張り詰めている。
ただ、見られているだけ。にも関わらず、息が詰まるような感覚を覚えた。
これほどの力の
剣が、脅えていた。
「ありえないぞ!」
動揺が口を衝いて出た。
こんな馬鹿なことは、ありえない。
「誰が見ている!」
苛立つ声で叫ぶ。
「誰が見ていると言ったァ!」
応える声はない。
◇
「――おお……!」
石の床に着地したイスラもまた、この地下墓所に訪れた力を感じ取っていた。
「おお、……おお!」
イスラは感極まった声を上げた。
発せられる力と、それを収める力とが同居し、奇跡のように安定している。
――真実の美しさ。
神であるイスラでさえ、いや、神であるイスラだからこそ感じる、光と闇の
見れば、自我のない
「この感覚……」
イスラは、この感覚を知っている。
知ってはいるものの、思い出すことができない。
それなのに、懐かしさが溢れてくる。
「この御方は……」
わからない。
わからないが、この視線は、とてつもなく懐かしい。
――そう。
この視線のために、ただ生きてきた。永い時のなかを、力を失い、自分を失ってもなお、待ち続けていた。
その琥珀色の瞳から、一粒の涙が落ちた。
「……
我知らず、イスラはつぶやいていた。
◇
――何が……。
すべてが静止した地下墓所にあって、グスタフを抱いたファン・ミリアは視線を左右に走らせた。
「グゥ……オォオオオオ!」
はっとしてティアを見上げた。
ティアの身体がわなないている。ぶるぶると震える手が、仮面のように浮き出る蛇を掴んだ。
引っ張り、あるいは、左右にふるう。全身に力を入れるように、ティアの身体が前後に倒れては起き上がる。
掴まれた蛇の瞳が、忙しなく動き回っている。黒い影の蛇は、明らかに狼狽しているようだった。点滅するように瞳が銀に輝く。瞳の銀光が強くなるとティアの動きが弱まり、銀光が弱まるとティアの動きがまた強まる。
――せめぎあっている?
その内部で、激しい戦いが繰り広げられている。ひとつの身体の支配権をめぐって、ふたつの力が押し引きを繰り返しているようだった。
「ティア……負けないでくれ!」
見守ることしかできず、ファン・ミリアはただティアを励ました。
ティアの嚙み合わされた歯から、血の糸が垂れ落ちていく。
涙にも、赤い色が混ざりはじめていた。
「オォォォ!」
黒髪が舞い、
「やった……のか」
快哉を上げかけたファン・ミリアだったが、再びティアの顔に蛇が浮かんでくるのを見て、それがぬか喜びであることを思い知らされた。
――それほどに強く、ティアの魂に食い込んでいるのか。
絶望しかけたファン・ミリアに対し、ティアはまだ抵抗を諦めてはいないようだった。
「ぐぁぁぁ!」
苦しみながら、ティアは両の人差し指を立てた。指先から、どろりと黒い水がつたう。その指先を、自分の耳に差し込んだ。深く、血が出るほどに差し込む。
体内に注がれた黒い水が、血管を流れはじめた。白い肌の下を不気味な黒い光となって駆け巡っていく。やがて光はティアの腹部へと集まり、明滅をはじめた。そこに、異常なものが潜んでいると告げているようだった。
ティアの爪が、鋭く伸びた。
まさか、とファン・ミリアが思う暇もなく、ティアが自分の腹を裂いた。なんのためらいもなく、裂いた腹に手を突っ込む。光の中心部を探るような手の動きとともに、ぐちゃぐちゃと血と臓物を
そして、ティアが取り出したのは、小指の第一関節ほどのちいさな卵だった。
黒や橙や緑といった毒々しい
殻の欠片と、黒ずんだ赤い血のような液体が、握りしめた手の隙間から滴り落ちていく。さらにもう一度、蛇を顔から引きずり出し、床に叩きつけた。
髪の隙間からのぞくティアの瞳が、赤と灰の色を交互に繰り返している。
言葉にならない呻きを発したティアが、顔を持ち上げた。
「奴は、どこだ……」
その瞳が、イグナスを探し当てた。
裂いた腹に手を入れたまま、ティアが、ずるり、と地に足をこすってイグナスへと歩きはじめた。
「その身体では……!」
言いかけたファン・ミリアを、ティアが見た。そしてグスタフへと視線を移す。
その時だった。
――止めてはいけない。
ふと、声が聞こえた。
ファン・ミリアはあわてて顔を巡らせたものの、声の主らしき者はどこにも見当たらない。
だが、たしかに聞こえたのだ。
聞こえたのは、ファン・ミリアだけではないようだった。
その証拠に、ジルドレッドも、黒狼も、ただティアへと視線を向けている。
すべてが動きを止めてしまった地下墓所のなかで、ティアだけが、イグナスへと向かっていく。
血涙を流しながら、ティアは歯を食いしばり、一歩、また一歩とイグナスに近づいていく。
◇
視線の先に、驚いた表情を作るイグナスが立っている。
全身の感覚が、麻痺していた。
――長い夢を見ていた。
裂いた腹から引き出した手には、取り出したはずの卵が掴まれている。
気を抜けば、すぐまた蛇に支配されてしまいそうになる。
――なぜ、オレは……。
卵を潰し、床に放った。それだけで足元がふらつく。
その様子に、驚いていたイグナスの表情が愉しげに歪み、
銀の蛇の瞳がぎらりと光る。ティアの脳裏に、得体の知れない恐怖が湧き起り、足が止まった。
心が萎え、身体がすくむ。
噛みしめた奥歯が、ガチガチと音を立てはじめる。
――怖い。
腹に、自分のものではない黒い塊が形を成しはじめる。
耐えきれず、ティアはその場に崩れ落ちた。
見上げたイグナスが、牙を剥くように嗤っている。
「何が……おかしい?」
イグナスが嗤っている。馬鹿にしたように嘲り笑う。
『お前は、そんなもんだ』
蛇の瞳が、そう告げている。
ティアはこの瞳を知っている。
他者を傷つけ、見下す瞳だ。
――お前、か。
ティアは、床に手をついた。
力を込めると、全身のあちこちから血が流れ出る感覚があった。
――また、お前なのか。
もがくように、ティアは身体を起こす。
……一撃。
せめて、一撃。
かつての自分が、届かなかったもの。
己の成すべきことを。
心を閉じ込めようとする恐怖という名の殻を、秘めたる想いが打ち壊した。
すべての気力を込め、拳を握りしめる。
立ち上がり、拳を振り上げた。
「う、あぁぁ!」
踊りかかるように、泣きながら放たれた拳がイグナスの顔面を打つ。が、イグナスにとっては撫でられたようなものなのだろう。二股に別れた舌が、ぺろりとティアの拳を舐めた。
イグナスの腕が動いた、そう思った時にはもう、ティアは吹き飛ばされていた。
視界が反転し、厚く閉ざされた夜空が映った。
頬を、雨が流れ落ちてくる。
――また。
瞼が落ち、すべてが黒く染まりはじめる。
――あの時と、同じ。
何もできず、何も果たせず……。
「――いいえ」
声が聞こえた。まぶたの裏で、ばちり、と紫電が
ばちり、ばちり、と。
「同じなんかじゃない」
放射する紫電が波打ち、重なり合い、ひとつの像を結びはじめる。
「よく立ったわね、ティアーナ」
それは、舞い降りた。
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