84 春宵一擲Ⅱ

 窓側の絨毯じゅうたんが早くも濡れはじめている。

 割れた廊下の窓から、高い尖塔群の一部が見えた。それらを超えたむこうに、水嵩みずかさを増したヌールヴ河が暗く広がっている。

 ――つまり、王城の北側か。

 レイニーは自分の居場所の見当をつけた。どうやらこの建物は北の崖に寄った位置に建っているらしい。

 一際大きな唸り声に視線を転じると、狼のまとう陽炎が、黒い球体を作りはじめていた。

 狼が鼻先を上向かせた。琥珀色の瞳にレイニーを映し、

「――女、早くこの場から立ち去るがよい」

 レイニーに話しかけてくる声音は、恐ろしいものではなかった。

「……こっちはこっちで事情があってね」

 身構えたレイニーが返すと、黒狼は息を吐いた。嘆息したらしい。

「巻き込まれて死んでも責任は持たぬ」

「頼んじゃいないよ」

 レイニーが言うと、狼の周囲に浮かんだ球体が、水中の気泡のように、ぽこり、ぽこり、と細かい分離をはじめた。球体は次々と分離を繰り返し、わずかな時間で廊下を埋めつくすほどに増殖した。

 細かい無数の球体が、イグナスを囲みはじめる。

「で、この次は何を見せてくれるんだ?」

 異様な光景を目の当たりにしながら、イグナスは泰然としたものだった。口元を緩めた表情はまるで緊張感がなく、剣の平で軽く肩を打っている。

 狼が頭を低く構えた。獣が、獲物に襲い掛かる直前に取る姿勢。大型の獣特有の、しなるような動きだ。

 ――はじまる。

 レイニーが思った時、宙に浮いた黒い球体が、鋭い刃物の形状に変化した。イグナスに向かって間断なく放たれる。

「怖ぇな、おい」

 イグナスの間合いに入った黒刃が、甲高い金属音とともに弾かれた。見ると、いつの間にか剣を握るイグナスの腕が振り抜かれている。その場から一歩も動かず、片腕のみで剣を振り回しはじめた。

 あまりにも速く、その剣筋はレイニーですら追いことが難しい。一見すると大雑把に剣を振っているかと思いきや、よくよく見れば動きに無駄がなく、最小限の動きでもって次々と叩き落しているのがわかる。

 単なる力任せではなく、技術に裏打ちされた剣さばきであることは明らかだ。

 業を煮やしたのか、黒狼が動いた。

 地を蹴り、イグナスの喉笛めがけて牙を剥く。イグナスは剣を振りながら上半身だけを反らして牙をかわすと、空いた手で狼の首根っこを掴んだ。

「行儀が悪いな」

 片腕だけで狼の巨体を軽々と持ち上げ、飛んでくる黒刃からの盾にする。

 自滅するかと思いきや、ばしゃり、と黒狼の体躯が一瞬で水となり、弾けた。

 遮蔽物を失い、飛来する刃がイグナスの肩口に突き刺さった。

「お?」

 それをきっかけに、一群の黒刃が殺到した。

 イグナスは口元を緩めたまま、迫り来る刃を剣で落とし続ける。肩を傷つけられたにも関わらず、剣速は衰えるどころかさらに加速していくようだった。どういうわけか出血さえしていない。

 ――どっちも化け物さね……。

 遠巻きに、レイニーはその様子を見守ることしかできない。この一匹と一人の戦いは、常識のたがが外れている。

 ――どうしたもんかね。

 レイニーは考える。

 自分は、狼に助けられたことになるのだろうか。

 ――単に巡り合わせの問題か。

 だが、レイニーにとっては助けられて終わり、というわけにはいかない。狼に対する義理人情の前に、蛇は自分の手で潰してやらなければ気が済まない。

 かといって、得物もない。

 今の自分では大した役には立たない。むしろ足を引っ張るのが関の山だろう。

 それでも、逃げようとは思わない。

 何かできることはないか、と様子をうかがっていると、床に飛び散った黒い液体がイグナスの背後に集まり、隆起して狼を形作った。

 イグナスは、黒刃を打ち落とすことに集中している。飛び上がった狼が大口を開いた瞬間――

「なんだい、あれは?」

 レイニーは自分の目を疑った。

 それまで前を向いていたイグナスが、突如、上半身だけをぐるりと回し、背後を向いた。その勢いを利用して剣を振り払う。

 黒狼もすぐに反応し、身体を持ち上げるように宙返りを打つと、剣撃を空振りさせた。『声』で衝撃波を放つ。

 イグナスは両腕を交差させ衝撃から身を守る。短衣が破れ、太い腕に血管が浮き上がった。しかし背後の防御には間に合わず、その背中に次々と黒刃が突き刺さっていく。

「ったく。服が穴だらけになっちまうぜ」

 服どころか、自分の背中さえもが針鼠ハリネズミと化したにも関わらず、痛がる素振りさえ見せない。

「目くらましが多いな」

 うすら笑いを浮かべ、イグナスが黒狼に話しかけた。

「力が足りてないんじゃあないのか?」

 眼孔のなかで目玉がぎょろりと一周した。人の瞳から、蛇の瞳へと切り替わる。上半身に遅れて下半身までもが振り返り、イグナスのねじれが解消した。

「この隙に、逃げたきゃ逃げてもいいんだぜ、鷲のギルドのお頭さんよ」

 こちらに背を向け、イグナスが言った。肩越しに、蛇の瞳がレイニーを捉える。

「……安い挑発だ」

 レイニーが唾を吐くと、

「ま、逃がすつもりはないがね」

 にやり、とイグナスが口の端を上げた。

 ――なんだ?

 黒刃が刺さったイグナスの背中が、内側に凹みはじめる。

 直観で、レイニーは危険を感じた。黒狼がこちらに走りかける素振りを見せるも、イグナスの剣光が閃き、逆に間合いを取らざるをえない。

「……蛇めが」

 獰猛な黒狼が、忌々しい口調で吐き捨てる。

「避けよ、女!」

 狼の声にレイニーが後方に跳ぶのと、イグナスの背中から黒刃が発射されるのは同時だった。

「くっ!」

 跳びながら身体を丸めた時、

 ――あれは……。

 レイニーは気づく。

 視界の横――黒狼が破壊して侵入した窓枠に、いつの間にかかぎが掛かっていた。

『それ』は嵐の空から、吹き荒れる風とともに現れた。

 回転しながら着地し、そのまま濡れた絨毯をすべって逆の壁に裸足をつく。

「じゃじゃーん!」

 威勢よく叫んだのは赤いドレスを身にまとい、黒髪を豪華に結い上げた碧眼の少女だった。

「――秘儀、絨毯返し!」

 少女は足の指で絨毯を掴み、蹴るように持ち上げた。すべりながら、左の篭手こてに見え隠れする暗器で絨毯を切っていたらしい。

 黒い刃のうち、一部が絨毯を貫通してきたものの、勢いを弱めている。レイニーはいくつかをかわし、手刀で払い落し、残りを掴み取った。

 一方、少女はイグナスめがけて走りはじめている。

「勝負!」

 碧く、勝気そうな瞳がぎらりと輝いた。

「当たれば死ぬ! 喰らえ必殺――」

 走りながら右腕をぐるりと一回転させ、腕っぷしを示す。

「……なにぃ?」

 半信半疑な表情を作りながら、イグナスがつられて両腕で防御をした。

「カホカちゃんパーンチ!」

 防御の上から構わず拳を放ち――。

「――と見せかけてキーック!」

 ぎりぎりで拳を止め、下からの爪先蹴りが見事にイグナスの顎を捉えた。

「ぐ、お……!」

 イグナスの顔が跳ね上がる。

 ぶぁーか、と少女は鼻で笑い、

「こいつぁ、ゲロ甘ァ!」

 などと叫びながら、軸足を入れ替え、後ろ回し蹴りを放つ。本気なのかふざけているのか、いまいち掴みかねるが、その身のこなしは極めて洗練されたものだ。

 少女の踵がイグナスの顔面を狙う。

「――なるほど。嬢ちゃんが噂の邪魔者だな」

 すぐに態勢を立て直したイグナスが、怒るでもなくその踵を掴みにかかる。

 だが――。

「知らねーよ」

 少女の足が残像となってイグナスの手をすり抜けた。と思いきや、もう一度下から同じ箇所――顎を蹴り上げる。一撃目よりも高く跳ね上がったイグナスの首元を、横から黒狼の顎がかすめて過ぎる。

「が……」

 イグナスの喉が噛みちぎられ、えぐられた。指が、首にぽっかりと空いた暗い穴を掻き、そのまま後ろに倒れていく。

 少女は慣れた動きで狼の毛を掴み、ひらりと飛び乗った。

「イスラ、こんなとこで何してんのさ?」

「降りよ、それは私の台詞じゃ」

 少女は構わず、その背に顔をうずめる。

「相変わらず獣くさいねぇ」

「獣じゃ。何が悪い?」

 イスラと呼ばれた黒狼はつまらなそうに言うと、レイニーの前まで歩いてくる。

「お前たち、なぜここにいる」

 黒狼がレイニーを見上げてくる。

「あたしかい?」

 レイニーが自分を指さした時、背後の気配に気づいた。あわてて振り返ると、そこに金髪の貴公子が立っている。

 青年はこちらに気を留めるでもなく、また狼の声さえ耳に届いていないのか、

「……イグナス」

 ひどく驚いた声音でつぶやいた。

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