83 春宵一擲Ⅰ

 ウル・エピテス城内にて。

 ――身体が重い。

 足は萎え、踏み出すごとに倒れ込みそうになる。

 視界がぐるりと回った。立ちくらみが起こり、レイニーは床に膝をつく。

「くそっ!」

 膝だけでは支えきれず、両手をついた。絨毯を握りしめる。

「キツそうだな」

 前を歩く男が、こちらに引き返してきた。

「ちょっとだけ待っておくれ」

 言って、レイニーは顔を落とした。ゆっくりと息を吸い、吐く。

 深呼吸のたび、大きく肩が上下する。ノールスヴェリア出身のレイニーは、東ムラビアの平均的な女性よりも背が高い。ほとんど襤褸ぼろに近い囚人服はあちこちが破れ、ダークブロンドの髪が胸元まで落ちかかっている。

 男が、隣にしゃがみ込んでくる気配があった。

「無理をさせて悪いが、すこしだけ急がせてもらう」

「いや、悪いのはこっちさ。手間をかけちまってすまないね」

 男に支えられ、レイニーは立ち上がった。

 もつれる足で歩きはじめる。

 レイニーはまばたきを繰り返した。気を抜くと視界が白くぼやけてくる。

 意識の糸を見失わぬよう、必死になって手繰った。

 ――この男。

 レイニーを支える腕から、男のたくましい力が伝わってくる。

 ――だけど……。

 男は何者なのか。

 凄腕ではあるのだろう。レイニーが幽閉されていた塔に忍び込み、守衛が声を発する間もなく斬り捨てたのだから。

 男は散歩にでも出かけるような軽装だが、武器に関しては二振りの剣を持っていた。一本はこれといって特徴のない、市販されているような剣で、腰にいている。もう一本は、背中に背負っていた。かなり大振りである。ツーハンデッドソードと呼ばれる両手剣の一種だった。相当な値打ちものらしく、鞘には蔓草つるくさの模様に、宝石がいたるところにめ込まれている。

「あんた、ティアの仲間かい?」

 乱れる呼吸で、レイニーは尋ねた。

「そうだ」

 男はいくつもの角を曲がって廊下を進む。はじめは方角を気にしていたレイニーだったが、疲労の色が濃く、途中で考えることができなくなった。

「名前は?」

「イグナスだ。仲間ってより、部下ってところかもな」

 銀髪の男――イグナスは名乗り、口の端を上げて笑った。

「鷲の頭を助けてくれと命令を受けて来た」

 そうかい、と、レイニーは前を向き、歩を進めた。薄緑の瞳が、弱々しいまばたきを繰り返している。

「……これだけゆっくり歩いてるのに、誰にも会わないもんだねぇ」

「バレないよう、道を選んでいるつもりだからな」

 イグナスはごくあっさりと告げてくる。

 そうかい、とレイニーはもつれる足でうなずくと、

「ティアは元気かい?」

「ああ、ピンピンしてる。あんたが戻るのを待っている」

「――旅」

「ん?」

 イグナスが怪訝そうな表情を浮かべた。

 次の瞬間、立っていることさえつらいほど消耗していたレイニーが、電光石火の動きを見せた。

 腕をふりほどき、素早くイグナスの背後に回り込むと、

かたってんじゃないよ!」

 怒鳴り、股間を蹴り上げた。

「う、ご……」と、イグナスの両膝が落ちかける。さらにレイニーは跳び上がり、その後頭部に両足を叩き込んだ。

 全力の飛び蹴りに、イグナスが前のめりに吹っ飛んでいく。

 背中で受け身を取ったレイニーは、荒い息をつきながら身体を起こした。

「誰だい、お前は?」

 立ち上がり、よろめきながらも睨み据える。

 うつ伏せに倒れたイグナスが、くつくつと笑うのが聞こえた。

「なぁんでバレたかねぇ」

 イグナスが、片手で逆立ちをした。にやにやと笑みを浮かべている。

 さてね、とレイニーも冷笑を浴びせ返す。

「ティアは、助けに来ると言った。あの娘と会ったのは一度きりだけど、自分だけ安全な場所にもる性格には見えなかったのさ」

 それに、とレイニーは内心で思う。

 イグナスを信用するしないに関わらず、はじめから合言葉を試すつもりだった。

 ――用心深くなけりゃ、この王都じゃ生き残れないからね。

 レイニーは、足腰に力を込めた。

「なるほどなぁ」

 イグナスは片腕の力だけで身体を浮かせると、両足で着地した。

 こきり、と首を左右に倒す。

「男のアソコを蹴り上げるなんざ、人とも思えぬ所業だな。さすが鷲の頭はやることがちがう」

 イグナスは平然と軽口を叩く。まるでダメージがないようだった。

「……アタシをどうするつもりだい」

 明らかに、この男は尋常の者ではない。早くもレイニーは感じ取っていた。弱っている身体とはいえ、レイニーは手加減しなかった。当たりどころが悪ければ死んでいてもおかしくないのだ。

「どうすると思う?」

「なに?」

「どうされると思う? レイニー=テスビア」

 くく、と、イグナスが笑い声をもらしながら、両の手のひらを上にした。指の関節を鳴らしはじめる。コキコキと、いつまでも不快な音が鳴り続ける。

「想像してみろ、レイニー=テスビア。まずお前は、女に生まれたよろこびを知ることになる。次に、女に生まれた悲しみを知るだろう。なぜ人が恐怖と痛覚を持つか、上手くすると真実にたどり着けるかもな」

 わらいながら、イグナスが指の動きを止めた。右手を持ち上げ、

「とにもかくにも、だ。レイニー=テスビア。俺に、『何者だ』と聞いたな?」

 その手が、一瞬だけ銀の瞳を覆い隠したかと思うと、

「お前は――」

 レイニーは驚き、そして喉の奥でうめいた。

 手を離した男の瞳孔が細長く、縦に伸びている。

 まるで、爬虫類のように。

「蛇……」

 つぶやいてから、レイニーは自分の言葉の意味を理解した。

「まさか……お前が『蛇』のギルドの」

 くく、とイグナスは笑い、

「仇敵同士、まずははじめまして、とでも言っておくか」

 今度は左手で瞳を隠し、開いた。蛇の瞳が人のそれに戻る。

 芝居がかった仕草は、こちらを脅かす意図からだろうか。だが――

「ようやく――」

 レイニーには逃げるつもりなど毛頭なかった。

 その場で身構える。怒りが、萎えた身体を奮い立たせた。

「お前をぶっ殺して、蛇のギルドを叩き潰すことができそうだ!」 

「その意気だ」

 やや前のめりに、イグナスが踏み込んだ。

 ――はやい!

 レイニーがそう思った時にはもう、イグナスが目の前に迫っていた。右手で腰の剣を抜き去り、振り上げている。

「ちと、遅すぎるな」

 銀の瞳が、たのしげに細まる。

 避けられない、一瞬でそう判断したレイニーは、イグナスに突進した。

 武器も何もない。徒手空拳である。

 わかっていながら、レイニーには退くことなどできない。

 ここで退けば、蛇との抗争で失われた仲間たちが浮かばれない。

 妹に、顔向けできない。

「ぶち殺す!」

 覚悟の言葉を吐いた時、近くの窓ガラスが割れ飛んだ。そこから、黒い影が飛び込んでくる。

「――見つけたぞ」

 影が女声で人語を発した。四本の肢を持った黒い獣だ。それが、イグナスに向かって吠える。

「ほぉ」

 すかさず反応したイグナスが飛び退った。黒い獣の放った『声』は衝撃波となり、イグナスの立っていた石壁に打ち当たって破片を飛ばす。

 影が、レイニーに背を向けて立つ。

「……狼?」

 イグナスと対峙した獣は、狼だった。

 黒狼は呆気に取られるレイニーを一顧だにすることもなく、鋭く大きな牙を剥き出しにすると、

「貴様か?」

 聞くだけで肌が粟立つうなり声を上げる。

「我が信民たみを害するだけでなく、その魂までをも愚弄した罪、万死に値する」

 怒れる狼の体躯からだから、陽炎のように闇が立ち上りはじめた。

「泣き別れじゃ。貴様の首を胴体から引きちぎり、墓前への手向けにしてくれる」

「――いいぜ」

 イグナスは怖がるどころか、ますます愉しげに白い歯をのぞかせた。

「うまいこと俺を殺してみろよ」

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