76 嵐の中でⅥ
王城ウル・エピテス。迎賓館。
晩餐会の支度が整ったと聞いて、ファン・ミリアが待合室から出た時だった。
「ファン・ミリア殿」
よく通る声で名前を呼ばれ、ファン・ミリアは振り返った。見ると、たくましい身体つきに口髭を蓄えた男が、細い灰緑色の瞳をこちらに向けている。
「アービシュラル元帥」
ファン・ミリアは脚をそろえ、敬礼しかけた。途中で気づき、あわててドレスのスカートをつまみ、軽く膝を落とす。
一連の仕草に、元帥と呼ばれた男は細い瞳をさらに細くさせた。快活に笑う。
「慣れないようだ」
「はい、慣れません」
ドレス姿のファン・ミリアが照れて答えると、
「まったく、目が痛い」
男が笑いを含んで言った。ファン・ミリアは気まずそうな顔を作る。
「やはり、似合いませんか?」
「まさか」と、男は首を振った。
「似合いすぎている。つくづく惜しいことをしたなと思ってね」
「またその話を」
ファン・ミリアは、困って苦笑を漏らした。
ネオン=アービシュラル。
東ムラビア王国を代表する三公爵家の一家、アービシュラルの現当主である。
「まったく、ジルは私の欲しいものをすべて持っていってしまう」
「申し訳ありません」
ファン・ミリアは、やはり困った表情を浮かべるしかない。
「しかし、ジルは苦労人だからな。若く志のある者が慕って集うのも仕方のないことだ」
「恐れ入ります」
彼の呼ぶ『ジル』とは、聖騎士団団長のジルドレッドのことである。
ふたりは、同期の間柄だった。
同じ頃にウル・エピテスに入り、ネオンは軍の、そしてジルドレッドは聖騎士団の頂点にまで登り詰めている。
しかし、その半生は対照的である。
アービシュラル家は数々の名将を輩出した武門である。その、由緒ある家柄という毛並みの良さもあり、ネオンはなるべくして現在の地位に就いた人物だった。これに対し、ジルドレッドはいわゆる都市貴族と呼ばれる、元は商家の出である。
都市貴族は、貴族ではあるものの領地を持つことを許されてはいない。もともと、ジルドレッドの家系――イェガー家は左官を生業にする職人だったが、父親の代に商売を行うようになったという。
作る仕事から、売る仕事に転じた、というわけだ。
扱う商品は家財だった。これも、左官時代の人脈を使ってのことだった。
一時は成功し、貴族という地位を買い得たまではよかったが、その後、商売は急速に傾いていった。
その時、ジルドレッドはまだ幼い少年だったが、家族を救わねばと思ったらしい。家族に数年だけ耐え忍ぶよう言い置き、家を飛び出した。金を得るため、傭兵に志願したという。
当然、幼い子供に傭兵稼業が務まるとは誰も思わなかった。当たり前のように門前払いを喰らった。が、ジルドレッドが一筋縄ではいかないのは、その恵まれた体躯に加え、不屈の精神を持っていたことだった。
「役に立たなかったら、金はいらない。とにかく俺を試してくれ」
強面の大人たちに対し、幼いジルドレッドはそう言い放ったそうだ。
傭兵は武具一式を自分の金で買い揃えなければならない。初陣は、剣さえも持っていなかった。拳と、足と、歯だけでジルドレッドの戦いははじまった。誰もがすぐに死ぬと思ったが、死ななかった。傭兵たちからすこしずつ戦い方を教わり、一戦一戦をしぶとく、死力を尽くして生き残り、ジルドレッドはさらに強く、強靭になっていった。
その後――数々の武功を立てたジルドレッドは、成長とともに軍の士官から目をつけられ、ウル・エピテスに入城するに至ったのである。
これらはすべて、ジルドレッドの口から聞いたものではない。だが、その立身出世の物語はゲーケルンにおいて語り草になっている。
また余談ではあるが、ジルドレッドが娶った妻は、服飾ギルドの長の娘である。貴族の名家ではなく、あえて商家を選んだところに、何かしらジルドレッドのこだわりと憧憬めいた感情がうかがえるが、本人がそのことに触れて話すことはなかったし、ファン・ミリアも知ろうとは思わなかった。
ファン・ミリアとネオンは、左棟の二階にある晩餐室へと向かう。その後ろには団員のグスタフが会話の邪魔にならないよう、ふたりから距離を取って続く。
「ファン・ミリア殿がウル・エピテスに来て、もう三年か」
感慨深げにネオンがつぶやいた。
「早いものです」
ファン・ミリアが相槌を打つ。その時分、ファン・ミリアはまだ十四歳だった。
「はじめて見た時は、このような可憐な少女が、と驚いたものだった」
「垢抜けぬ田舎娘でした。今も、ですが」
「謙虚が過ぎると嫌味に聞こえるな」
「いえ、まったくそのような意図は……」
あわててファン・ミリアが言うと、ネオンが声を上げて笑った。
実のところ、ファン・ミリアは仕官の際、聖騎士団の他に、軍からも声をかけられていた。面会もしていた。ネオンもその席にいたのだ。「ぜひ我が軍に来てもらいたい」と熱心な誘いを受けていたものの、結局、ファン・ミリアが選んだのはジルドレッドの聖騎士団だった。あれこれと美辞麗句を並べてはファン・ミリアを賞賛する軍の首脳陣に対し、ジルドレッドの物言いはいたってぶっきらぼうだった。
『お前がファン・ミリアか』
ジルドレッドのファン・ミリアに対する第一声はこれだった。
『我々は、お前を必要としている。だが、お前が真実、その名に相応しい実力を持つ者か、我々は知らない』
そう言って、ジルドレッドはおもむろに木剣をファン・ミリアに手渡してきた。
『だから試させてもらう。そのあとは、お前の番だ。好きなように我々を試すがいい。その上でお前が入団したいと思うなら、断る理由はない』
請われて登城したはずが、いつの間にか『入りたければ入れ』という言葉にすり替わっていた。
考えてみればおかしな話だが、しかし、その実直さ、公平さがファン・ミリアの心を打ったのも事実だ。
今でも、聖騎士団を選んでよかったと思っている。それは嘘偽りないファン・ミリアの本心だった。
「――しかし、本当に美しい」
ネオンが、改まってファン・ミリアを見つめてくる。
「もしファン・ミリア殿が我が軍に入れば、紅一点となったものを」
惜しがるネオンの視線に、ファン・ミリアは顔をうつむかせた。
「いえ……」
それだけ言うのがやっとだった。普段であれば毅然として対応できるはずが、この場での振る舞い方がわからない。
――このドレスが悪いのだ。
つくづく恨めしかった。
気心の知れた同性ならともかく、人目に肌をさらすのが、慣れない。意識しまいとすればするほど、背中から肩、そして胸元にかけて、肌が空気に触れる感覚がファン・ミリアの落ち着きを奪っていく。
――そういう場所なのだ。恥ずかしがる場所ではないのだ。
何度も自分に言い聞かせてはみたものの、
――困った。
顔が熱くなってくるのを止められない。
すると、うろたえるファン・ミリアの様子を見て取ったネオンが、「困らせてしまったのなら、申し訳ない」と頭を下げてきた。
「いえ、どうかお気になさらず」
なんとかファン・ミリアも顔を上げて返すと、
「もし困ることがあれば、とりあえず笑っておけばいい」
ネオンから言われ、ファン・ミリアは目を瞬かせた。
「困った時は困ったように笑う。嫌な時は嫌なように笑う。笑っておけば角が立たないし、そのうち相手もファン・ミリア殿の心中を察するはずだ」
「はい」
気遣いに感謝し、「ありがとうございます」とファン・ミリアが礼を言うと、
「――しかし、伝わらぬ御方もいらっしゃる。注意を」
小声でネオンから告げられた。その視線が、前を向いている。
「これはこれは、お久しゅうございます。殿下」
一転して声を明るくさせ、ネオンが恭しく挨拶をした。
目的の晩餐室、その開かれた扉の前に、相対する人物が立っていた。
ウラスロ=ディル=ムラビアだった。
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