71 嵐の中でⅢ
王城ウル・エピテス。
ファン・ミリアに用意された部屋の窓から、明かりが後庭へと差し伸びている。光は雨粒をちらちらと銀糸のごとく見せるも、闇は広く、そして深い。
けれども時折、闇に沈む庭の全景が、ふるえるように白く浮かび上がる瞬間があった。
重い雨雲に閉ざされた夜空に、稲光が走る。
その光は白く天の怒号を打ち響かせながら、庭を挟んで向かい合う右棟の二階――厚いカーテンの引かれた室内をも白く染めた。
壁に、飛び上がるように上半身を起こした女の影が映る。
寝台の上で、女は不安そうに窓を見た。
「――これまた、すげぇ雷だな」
女の下から、感心するような声が聞こえた。
見ると、仰向けになった男もまた、窓の外を眺めている。怖がる女とは反対に、男の口調は陽気だった。口元に、ふてぶてしいまでの笑みが張りついている。
「おじさんは、怖くないの?」
まだ若い娘である。この迎賓館の
「おいおい」
男は苦笑する。
「こんないい男をつかまえて、おじさんはねぇだろう。まだ二十のいいところだぜ、俺は」
「でも、おじさんに見えるもの」
男の陽気さにつられて、ふふ、と娘も笑顔を見せた。着崩れた衣装のまま、再び男にしなだれかかってくる。
「不思議な銀のお髭ね」
くすくすと笑いながら、娘は男の無精髭をなでた。暗い部屋のなか、硬い毛がうすく光るようだった。
男は無言で笑っている。
「なんで、私に声をかけたの?」
娘が、うっとりとした顔を近づけてくる。男は言った。
「俺は、女の笑顔が好きなんだ。特に、明るい顔で笑う女に弱くてな」
「私みたいな?」
娘がはにかむように尋ねる。
「そういうことだな」
長く、唇を重ねた。
瞳を閉じた娘の顔を、男はまばたきもせず、じっと見つめている。
――明るく笑う女は、いいもんだ。
男の手が、おさげに結んだ娘の髪をほどこうとする。娘はそれを嫌がって、「んん……」と小刻みに首を振った。
「ダメよ。もし誰かが探しに来たら――」
「つれないこった」
「あなただって、仕事をさぼって来たんでしょう?」
娘が悪戯っぽく言うと、「それを言われると弱いな」と、男はあけすけに笑う。
娘の指が、男の顔に刻まれた無数の
「すごい傷、こんなにたくさん……どうして?」
娘に訊かれ、男は数秒、押し黙ったものの、
「俺は、つい最近まで宿屋を営んでいたんだが」
と、ゆったりとした声音で話しはじめた。
「というのも、元々は親父が開いた店でな。山に囲まれた何もない村だったから、たいそう重宝がられたもんだ」
そこで、男はすこしだけ声の調子を落とした。
「おふくろは、妹を産んですぐ死んだ」
「そうなの……」
娘は申し訳なさそうな顔を作る。
「珍しい話じゃないさ。誰だっていつかは死ぬ」
冗談めかして言うと、娘が困ったように
「おふくろが死んでも、親父は宿を続けた。俺はまだ子供だったが、できることは手伝った。――こう見えて割と真面目な性格でね」
「仕事中にこんな場所にいる人が?」
「たまには息抜きも必要だからな」
悪びれもせず笑う。
「だが、親父のほうも中風にかかっちまってな。たしか……俺がまだ十五の頃だった。俺が継ぐしかなかった。妹を食わせていかにゃならんからな」
「……そうね」
「妹が成長して、俺たちはふたりで宿屋を切り盛りするようになった。――そんなある日、俺と妹は、山菜を採りに山に出かけた」
娘は、息を押し殺すように男の話に聞き入っている。
「そこに、狼が現れた。これまで見たことがないほどの大きい奴だった。いや、あれは狼の形をした、別の何かだったのかもしれん。妖獣とか、怪物とか、そういった類のな」
男の近くで、娘がごくりと唾を飲む音がした。
「狼は、まず俺の顔に嚙みついた。顔の傷はその時のものだ。俺は必死に暴れた。妹もそこらへんの棒切れを拾って、狼の
男は、その時のことを思い出すように天井を見つめた。
「だが、次に狼が標的にしたのは俺ではなく、妹だった。妹は華奢だったからな。銅回りも俺の腕ぐらいしかなかった。そこを狼の牙にガブリとやられた。そこからはあっという間さ。狼は信じられない力で妹をくわえたまま、森の茂みに入って見えなくなった。俺は血まみれの顔でなんとか狼を追いかけたが、獣の脚に追いつけるわけがなかった」
「……ひどい」
「ああ、ひどい話さ。だが、妹が見つかったのは幸いだったのかもな。むごい状態だったが、弔ってやることはできた」
娘が、ちいさくうなずいた。うなずくことしかできないようだった。
「それから俺は、その狼を探す旅をしている。王都に来たのはそのためさ。いまは御覧の通り
「街に、狼がいるの?」
ふと娘が思って訊くと、「どうだったかな」と、男も首を傾げた。
「街の外は、探し尽くしたからな。他に行く当てがないだけさ」
俺の――と、男は間を置かずに話しはじめる。
「妹は明るくて、笑顔の似合う娘だった。そういう笑顔を見ると、守ってやらずにはいられなくなる」
言い終わると、男は娘を横にずらし、起き上がった。
「やれやれ、せっかちなことだ」
男はひとり、愚痴のような言葉をつぶやいている。
「どうしたの?」
娘が怪訝な表情で見上げると、
「お楽しみはこれからって時に悪いが、どうやら呼ばれちまったらしい」
「え?」
誰に? という疑問が、娘の顔にありありと浮かぶ。男を呼ぶ声など、娘にはまったく聞こえなかった。聞こえるのはただ、激しい雨と風の音だけである。
呆気に取られる娘を、男は白い歯をのぞかせて笑いかける。
「雇われの身っていうのは、辛いもんさ」
すると、唐突にドアが開け放たれた。廊下からの突然の光に眼がくらみ、娘は手をかざした。逆光に、男とは別の影が入ってくる。
「何? なんなの?」
ようやく慣れた視界に立っていたのは、老人だった。背が高く、執事らしい身なりの良い恰好に、銀色の髪。その髪と同じ色の瞳が、娘に向けられている。
「力は使うなよ。近くにファン・ミリアがいるからな」
男が話しかけるも、老人は返事をしなかった。かわりに、その口が横に大きく裂けた。ぞろりと並んだ牙が
「あ……あ……」
あまりの恐怖に、娘は悲鳴を上げることさえ忘れているようだ。
男はすでに部屋を出かかっている。ドアノブを掴むと、
「今さっき、俺は守ると言ったわけだが――」
話しながら、ゆっくりとドアを閉じていく。
「いや! 待って、助けて!」
寝台の上で娘がようやく声を上げた。けれどその時にはもう、光は弱々しく、わずかな隙間しか残されていない。
最後に、隙間から男の瞳が覗いた。その瞳もまた、暗い銀の光を
「嘘に決まってる」
そうして、完全にドアが閉じられた。一度だけドアが身震いをするように揺れたが、それだけだった。娘の運命は決まった。娘は地上から消えたのだ。永遠に。
明かりに照らされ、男の姿があらわになった。
短く刈り込まれた銀髪。そのがっしりとした身体つきにより、やや小ぶりに見える頭。顔には無数の切創が刻まれてはいるものの、その眼は人好きのする柔らかさを持っている。
傭兵イグナスがそこに立っていた。
――明るく笑う女はいい。
快楽に喘ぐ顔も、その後の恐怖も。
「それにしても」
イグナスはニヤニヤする笑みを浮かべながら、顎髭を撫でさすった。
「たしかに、ふつう狼は街にはいないわな」
さすがに作り話が適当すぎたようだ。娘にその質問をされた時、イグナスは噴き出しそうになった。そりゃそうだ、と思わず言いそうになったのだ。
「いやはや、いい暇つぶしになったぜ」
満足げにつぶやくと、
「そろそろ仕事にかかるとするかね」
軽い足取りで廊下を歩きはじめた。
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