20 ティアの道Ⅱ‐対談(1)
その建物は四階建ての
周辺の雰囲気は貧民街にも似て、かなり雑然としている。王都自体は幹道によって整然と区分けされているものの、区画の内側までもがそうだとは限らない。無計画に建物が建てられたせいか、裏路地が迷路のように走っている。猫のために作られたのかと思うような細道もあった。
暗い階段を上り、三階のドアの前に立つ。下の隙間から、かぼそい光が漏れているのを確認し、ティアはドアを叩いた。
「タオ=シフルと申します。先生はご在宅でしょうか」
しばらく待っていると、「開いてますよ」と、穏やかな男性の返事が聞こえた。
「失礼します」
ティアはドアを開く。
部屋の中央に、吊り燈火がかかっている。その明かりから浮き上がる室内の様子は、一言でいえば本の海だった。
本、本、本。棚といわず、床といわず、目につくあらゆる場所には本が積まれている。表紙や背にはティアの見たことすらない言語で書かれているものもあった。
そして、同じように乱雑に本が積まれた机のむこうに、ひとりの男性が腰かけていた。ゆったりと寛いだ姿勢で、わずかな机のスペースに、一冊の開かれた本と、紅茶の湯気が白い糸のようにくゆっている。
男は鼻にかけていた眼鏡をはずすと、
「おかしいな」
机の上で両手を組む。
「私の知るタオ君は、たしか男性だったはずですが」
彼がタオ=シフルを覚えているのなら、当然の疑問である。
ティアはうなずき、
「いまはティアという名を持っています。タオ=シフルは一度死に、オ……私として蘇ったということになります」
「なるほど」と、男は柔和な笑みを浮かべた。
「信じていただけるのですか?」
ティアのほうが驚いて訊く。逆の立場だったら、にわかには信じられない。まず疑い、そして警戒するだろう。
すると、男は「いえ」とあっさり首を横に振った。
「信じてはいませんよ。あなたの言い分に対して、なるほど、と言っただけです」
男はそれでも笑みを崩さず、まずはおかけください、とティアを部屋のなかへと促す。通されたものの、ティアは渋い表情を作った。かけるべき椅子が見当たらなかったのだ。壁際にひとつ、あるにはあるのだが、ことごとく本で埋めつくされてしまっている。
「あの……」
と、言いかけたティアに、男は無言で笑いかけてくる。
すぐに、そういうことか、とティアは理解した。
――たしか昔は。
「もし、ダメな本があったら言ってください」
ティアがあらかじめ断りを入れると、「わかりました」と男の楽しそうな声が返ってきた。
そうして、ティアは手近なところから本を集めはじめた。それを床に重ね置き、椅子を作る。
四冊ほどを正方形に並べ、高く積んでその上に座った。『ダメな本』とは、椅子にするには差し障りのある
すべて、タオが子供のころに覚えていた先生との会話からだった。
「本は読んでもいいし、座ってもいい」
そんな冗談とも本気ともつかない言葉を思い出す。
トゥーダス=トナー。
ティアの父親であるシフル卿がトナー先生と呼んでいた人物である。胡桃色の瞳に、かなり癖のある縮れ毛を首裏で束ね、その細面には常に笑みを浮かべている。
すでに四〇歳を過ぎているはずだが、容貌は若々しく、優男然とした佇まいを見せている。
「ここに来たのは、はじめてではないようですね。きわめて不思議なことですが、あなたがタオ君と同じ癖を持っていることもわかりました」
「癖、ですか?」
「ええ。タオ君はね、気を遣う子でした。すでに汚れている本や、暗めの装丁の本を選んで椅子にしていたのを覚えています。ちょうどいま、あなたがそうしたようにね」
ちなみに手つきも同じでした、そうトナーが付け加える。
「そんなことまで覚えているんですか?」
「特に意識しているわけではないですが、自然と」
おそろしいほどの記憶力だ。ティアが舌を巻いていると、
「ティアさんとおっしゃいましたね。察するところ、やんごとない事情がおありのようだ。差し支えのない範囲で語ってみてもらえませんか?」
わかりました、とティアはうなずき、これまでの経緯を包み隠さず伝える。
トナーは時々、「なるほど」や「それはそれは」などの相槌を打ちながら、ティアの話に聞き入っていたが、すべて話し終えると、
「なんとも奇妙な話ですね」
感想とともにトナーは溜息をつく。
「ティアさんはかなり特別な体験をしたようだ」
その通りだったので、「はい」とティアが認めると、トナーはまじまじとこちらを凝視する。
「やはり、先生も気味が悪いと思いますか?」
「まさか」
トナーは微笑みを浮かべた。
「ティアさんの美しさがあまりに尋常ではなかったので、ついつい見つめてしまいました。まさに幽玄の美といったところですね」
「美しいと言われても、いまいちピンと来ないのが本当のところです」
ティアが困って苦笑すると、
「そもそもが男性ということであれば、もっともな言い分です」
それと、とトナーは続ける。
「もしあなたの話が真実であるなら、その傍らにはイスラという神狼が控えているはずですが……」
「語弊があるのう」
トナーの言葉に応えるように、室内に声が響いた。イスラがティアの影から現れる。これにはさすがのトナーも驚いた様子で、「おお」と声を上げた。
「私が控えておるのではない。此奴が私の傍に控えておるのじゃ」
「……だそうです」
ティアが諦めた口調で言うと、「なるほど」と、トナーは本の頁に挟んだ眼鏡を再び鼻にかける。
「百聞は一見に如かずと言いますが、まさに、ですね。神をこの眼で直に見るのははじめてです」
「安心せよ。どれだけ見ようとも目は潰れぬ」
「それはありがたい」
すごいな、とトナーは感嘆の声を上げながらひとしきりイスラを観察すると、
「いやはや、とても貴重な経験をさせていただきました」
上機嫌でトナーは笑う。驚きつつも恐れた様子が微塵も見受けられないのは、やはり人並みはずれた知識欲のなせる業だろうか。
「それで――」
と、トナーはやや改まった口調でティアに目を転じた。
「ティアさんが私を訪ねて来てくださった理由は何ですか? わざわざ身の上話を聞かせに来てくださったわけではないでしょう」
「はい」
ティアは唇を湿らせた。
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