27 血の繋がり

 小刻みに手を叩くような羽音が聞こえ、ミハイルは眼を覚ました。

 ……蝙蝠?

 一瞬、視界を蝙蝠の影がよぎった気がした。

 身体を起こして室内の様子をうかがう。

「……誰だ?」

 室の中央あたりに人影が立っていた。

「……ミハイル=リュニオスハート」

 人影が、声を発した。女だった。あわててミハイルは枕元の燭を取ろうとするも、身体が動かないことに気がつく。

 ――妖か?

 爛と輝かせた女の赤い瞳に、底知れない力を感じた。

 先日、武具同業者組合ギルドから、農民反乱の件について一切の手を引くとともに、これまで受けた金を全額返すとの申し出があった。

 なんでも狼の化け物が出たとか。

 同様に、反乱鎮圧の部隊が敵本拠地を襲撃したところ、こちらからは女の化け物が出たとの報告があった。兵たちは一様に士気を失い、どうなるかとミハイルは固唾を呑んだものの、結局、農民たちの蜂起さえ起こらなかった。

 話の異常さにも関わらず、ミハイルの与り知らないところですべてが終息していくようだった。

 何者かが暗躍している、そう想像することは難しくなかった。

 いつかその『何者か』が自分の元に訪れるかもしれない。そう思ってもいた。

 人影が、こちらに歩いてくる。

 開け放たれた窓から、青白い月の光が射した。

「お前は、マイヨールの……」

 月光に洗われ、姿を現したこの闖入者ちんにゅうしゃを、ミハイルは知っていた。意外と思う反面、そうではないかという気もしていた。

 この屋敷の衛士長から、牢屋から脱獄したこの娘について、あれは尋常ではないから手を出さない方がいい、との報告を受けていたのだ。

 赤い瞳の娘は、まるで重力を感じさせない身のこなしで、ふわりとミハイルの寝台に飛び乗ってきた。

「お前は、ふたつの過ぎた物をもっている」

 そう言って、女は人差し指を立てた。

「まずひとつ目が、お前の娘のカホカ=リュニオスハート」

「……」

「ありがたいことに、お前はこれを要らないと言う。お前が愚か者で私はとても嬉しい」

 娘は本当に嬉しそうに笑いながら、けれども瞬きひとつせずミハイルを見つめてくる。

「これは、私が貰い受ける。今後、お前がどれだけ自分の非を悔い改め、娘を返してくれと懇願し、泣き叫ぼうが、もう二度とお前の手に戻ることはない。お前との血の繋がりは、私が奪った」

「ど――」

 どういう意味だ、と言いかけたミハイルの口が、まるで縫いつけられたように動かなくなった。いや、口だけでなく、全身を動かすことができない。

「お前の意見も、言葉も聞くつもりはない。既にその段階ではない」

 女がミハイルの胸の上に乗ってくる。重さというものが一切、感じられなかった。そして女はこの話は終わったとばかりに「ふたつ目は――」と中指を立てる。

「お前の治めるこの地、リュニオスハートだ」

 ミハイルの眼が見開かれた。同時に怯えが走る。

「貴族だ貴族だとぬかして領民をないがしろにするのであれば、貴族を辞めてしまえばいい。お前は所詮、無力な一個の人間にすぎない。これも私がもらおう。……だが――」

 喜べミハイル、と女は赤い瞳を細めた。

「私も時間が欲しい。また、お前の意思がどうであれ、結果的に領民には手を出さなかった。これを評価してやろう」

 女が寝台から降りる。窓を背に、その身体が闇に溶け始めた。ほとんどの身体の部位が見えなくなり、最後に女の顔だけが残った。

「いずれ来るその時まで、リュニオスハートはお前に預けておく。再び私がここに訪れた時、お前が領民からどう思われているか――慕われているか、疎われているか、改めて判じるとしよう」

 完全に女が消えた。

「……堕ちぬよう、せいぜい踏みとどまることだ」

 風もないのに、窓が閉まっていく。

 すべてが元通りになった室で、ミハイルは額の汗を拭い、起き上がった。

「何者なのだ……」

 つぶやく。

 恐ろしいが、恐ろしいだけではなかった。娘の瞳、その声、美しさには、人の心にするりと入り込んでくるような、魔性の魅力を感じずにはいられなかった。

 そして、ミハイルの中から何かを奪い去っていった……とうに忘れていながら、まだミハイルに残っていたもの、その大切なものが損なわれてしまった気がした。

 閉じられた窓からは、月と、眠りに横たわるリュニオスハートの街が見えた。

 


 翌日、黄昏とともに、ティアとイスラ、カホカはリュニオスハートを起った。

 あわただしく店の者たちに別れを告げると、ティアはクラウから肩を叩かれ、「カホカを頼んだよ」と、力強く抱きしめられた。

 イヨ婆からは「行っておいで」と告げられただけだった。

 シダは師匠の元へ預けることになった。もっと強くなって店を守っていきたいという本人の意思を汲んだ上でのことだった。それでカホカが紹介状を書くことになったのだが、これがまたひどく読みづらい文字で、それをティアがからかうと、側頭部に回し蹴りを喰らう羽目になった。

 閉門ギリギリに街を出たティアとカホカは、閉まりゆく門を感慨深げに見上げていた。

「王都かぁ」

 ふたりとも旅装姿である。

「アタシ、一度も行ったことないんだよね。ちょっと楽しみかも」

「信じられないくらい人が多いぞ」

 経験のあるティアが教えてやると、ふーん、と、マントに身を包んだカホカは頭の裏で両手を組む。

「おいしい物、たくさんあるかな」

「あるんじゃないか」

「とりあえず肉食べたいな、肉。あと、あまーいヤツ食べたいな。カホカちゃんときたら、はちきれんばかりに食べてやろうと思うんだぜ」

「ああ、それもいいな。たくさん食べるといい。それでブクブク太ってオレにおいしい血を――」

 膝蹴りを喰らった。

「何するんだよ!」

 ティアが抗議すると、

「あとさぁ、さっき気になったんだけど」

 抗議を無視し、カホカはにんまりと笑顔を浮かべる。

「ここの門の人からマントを借りたってのはわかるけど、なんであの人たち、あんな必死になってアンタを口説いてたの?」

「……知らない」

 知りたくもない。ティアが言うと、

「よかろう、そこまで知りたいと言うのであれば私が教えてやろう」

 影からイスラの声が聞こえてきた。

「やめてくれ!」

 どれだけティアが懇願しても、イスラが話を止めてくれるわけがなかった。


【第二章・完】

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