22 血

 繁みから一頭の馬が駆け出してくる。

「カホカ、何をしているんです!」

 シダが、ティアを抱えて馬から飛び降りた。

「シダ?」

 放心状態のカホカが目を丸くしていると、一斉射撃を浴び、盾になった馬が地面に倒れていく。全身を痙攣させ、やがてまったく動かなくなってしまう。

「なぜ、何もせず立っているのです!」

「シダ……アンタ……」

 はじめて見せるシダの剣幕に、カホカがさらに目を丸くする。

「あなたがそんなことでは、ティア様はいったい何のために……!」

 はっとして、カホカはシダに抱えられているティアを見た。その様子に愕然とする。

「ひどい……」

 体中のあちこちに矢が突き刺さっている。

 そんな瀕死の状態であるにも関わらず、

「カホカ、無事か……」

 まだ意識があるのか、ティアがちいさく笑った。左眼に、矢が深く刺さっている。致命傷なのは明らかだった。

「なんで、タオが……どうして」

「とりあえず洞窟へ」

 言いながらティアをカホカに預け、襲い掛かってくる兵士たちの前に、シダが立ち塞がった。続々と騎馬の追手も到着してくる。

 それでもカホカは「なんで……」と、我を忘れたように繰り返している。

「カホカ、早く!」

 シダの怒声に、カホカがびくりと身体を震わせた。声に押されるように、ティアに肩を貸してやりながら、洞窟のなかへと入っていく。



 自力では歩けず、ティアはカホカに引きずられながら、

「……ミハイルと、話をした」

「あの人と会ったの?」

 カホカの瞳に怯えのような色が浮かんだ。

 シダが兵士たちの攻撃をかわしながら、カホカの歩調に併せて洞窟内に退がってくる。ティアから見ても非凡な才能を持っているシダだが、さすがに戦場に出るには早すぎる。シダもそれを自覚しているらしく、なんとか一対一に持ち込んで時間を稼ごうとしているのが明らかだった。

「カホカ……ミハイルは……諦めろ」

「馬鹿……! そんなことをアタシに伝えるためにわざわざここに来たの?」

「カホカは、優しいからな……心配なんだ……」

 ぽつり、とティアが言うと、カホカは一瞬、身を固くさせ、泣き笑いのような表情を作った。

「タオに言われちゃ、アタシもお終いね」

「ああ……」

 と、ティアは苦痛に顔をしかめた。

「目が……痛い」

「喋るな」

 地面に倒れ込んでいくティアを、あわててカホカが正面に回って抱き止めた。

「死ぬな、タオ! 死んだら殺すからな!」

「オレは……まだ死ねない」

「そうよ! アンタは死なない! 死ぬもんか!」

 ティアの耳元で、カホカが大声を張り上げた。

「嫌だ……」

 カホカが言った。その抱きしめる力が強くなった。顔をティアの首元に押しつけ、ひっ、とカホカがしゃっくりを上げるように泣きはじめる。

「嫌だ……せっかくまた会えたのに……なんでアンタが私の代わりに……」

 ひっ、ひっ、と。

「……アンタまでいなくなっちゃったら、嫌だ」

「カホカ……」

 死の瀬戸際に立ちながら、ティアにはそれでも迷いがあった。

「……カホカ……カホカの血を、くれないか……」

 カホカが跳ねるように顔を上げた。涙で濡れた顔に希望の光が宿るようだった。その無垢な表情が、ティアの胸に得体の知れない罪悪感を起こさせる。

「しかし……」

 というティアの言葉を遮り、

「アタシの血を飲めばタオは助かるの?」

「わからない……」

 血を吸う者、吸われる者がどうなるか、ティアには想像もつかない。

「それでもいい!」

 カホカは泣きながら叫ぶ。

「飲め! 早くアタシの血を飲め!」

 急かすカホカに、ティアも心を決めた。たとえどうなっても、カホカは守ってやらなければならない。

 ――ごめんな……カホカ……。

 心のなかで謝り、ティアはカホカの首筋に歯を立てた。

 


「……ぅ……」

 カホカの口から、吐息とともにかすかな声が漏れ出た。

 首筋から染み出してくるカホカの血を、ごくりとティアは飲み下す。

 とろりとした赤い液体が、鉄の味を残しながら喉を通り、体内に流れ込んでくる。美味い、と感じるどころではなかった。一口飲んだだけで、ティアの脳裏に黒とも白ともつかない光が弾け、歓喜と悦びのなかで表情をゆがませる。

 すぐに飲むことだけしか考えられなくなった。ひたすら飲み続けていたい。ティアはカホカを抱きしめ返すように掴むと、さらに歯を突き立てた。わずかにカホカが抗うように身体を震わせたのを、逃がさぬよう、ティアは掴む手に力を込めた。

「……あぁ……あああぁ……」

 耐え切れず、か細く泣くようなカホカの声を聞きながら、ティアはその暖かな血に彼女の命気いのちのきを感じた。鋭く噛むほどに、首筋から血が溢れてくる。極上な果汁のようだと思った。一滴も零さぬよう、ティアは舌をつかって丁寧に舐め啜る。

「……それぐらいにしておけ」

 カホカを抱きしめたティアの、右眼だけになった視線の先に、いつの間にか黒狼が立っていた。

 ティアはカホカの血を味わいながら、イスラを睨む。

 やめる? 

 冗談じゃない、と思った。

 これほど極上の味がする液体を、飲むのをやめろというのか。

 ――飲み尽くすまで、やめない。

 味わい尽くすまで、やめることなどできない。

 ティアがさらに歯を深く食い込ませようとすると、

「それ以上飲めば、その娘、死ぬか、人ではなくなるぞ」

 イスラの静かな警告がティアの耳に響く。ぴたり、とティアの動きが止まった。

吸血鬼ヴァンパイアには吸血鬼ヴァンパイアとしての血の規定ルールというものがある。その娘を人のままに留めおいてやりたと思うなら、そこでやめておけ」

 気がつくと、カホカは焦点の失った瞳を虚空に投げながら、弱々しく口を開き、また閉じを繰り返している。

 ――それでも、飲み続けていたい。

 激しい誘惑との葛藤のなか、ティアはぴちゃりと首筋の血を舐め取った。

 名残惜しい。まだ、足りない。そんな誘惑の言葉が頭に浮かび続けている。

 その時だった。

 ――ヤメロ。

 もうひとりの自分の声が、かすかに聞こえた気がした。

「……シダ! カホカを!」

 ティアは大声でシダを呼んだ。カホカから口を離し、彼女の血を見ないよう、そっぽを向いた。駆け寄ってきたシダにカホカを預け、誘惑を振り払うように立ち上がった。

「まったく、節操のない奴じゃ。これまで散々、飲まぬ飲まぬと言っておきながら、一度飲んだだけでそのザマとは」

 呆れた口調のイスラに、

「……うるさい」

 それだけ言い返すのがやっとだった。

 それほどに、血を飲む悦びと誘惑が大きかった、というのは言い訳に過ぎないのだろうか。

 敵からの壁になっていたシダがカホカの介抱をはじめたため、すぐに洞窟内にリュニオスハートの兵士たちが雪崩なだれ込んでくる。

 ティアは左眼に突き刺さった矢を何のためらいもなく引き抜いた。カホカの血が全身に行き渡る感覚とともに、込み上げてくる何かがある。

 強く、激しい高揚感。

 すでに瀕死であるはずのティアの理解できない挙動に、兵士たちの足が完全に止まった。

「何だ……コイツ」

 気味の悪さにごくりと唾を呑み、兵士たちが口々に動揺の言葉を発しはじめる。

「ア……ハ……」

 ティアの口が大きく裂かれたように弧を描いた。さながら刃物のような笑みを浮かべる。本来ならば流れ出てくるはずの血が、左の眼からは一滴さえも出てこない。かわりに、黒い一筋の霧が煙のように立ち上っていく。

 全身に矢を突き刺しながら、ティアは喉を震わせて哄笑わらう。兵士たちの驚くような、不安そうな、迷い仔のような、そんな表情がたのしくてしょうがない。

「アハハアハハハハハハ!!」

 細められた瞳が、紅玉ルビーのように赤く濡れ光っていた。

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