11 ティアの策
「お客さん……」
ティアは、引きつった笑みを浮かべた。
「そういうのは、ちょっと」
精一杯、怒りを抑えているつもりだが、声が震えるのはどうしようもない。
対する中年の酔客は、「ああ?」と呼ばれてはじめて気づいたといった様子で、
「何だよ、ティア」
慣れ慣れしく名前を呼んでくる。男の両手は、テーブルの上に乗っていた。
「いえ……」
ティアは、唇を結んで目を伏せた。
怒りが爆発する前に、そそくさとその場を離れる。背後から、意味深な男の笑い声が聞こえた。
――あいつ……!
『……イスラ、また触られたぞ』
『いちいち目くじらを立てるな』
『一度や二度じゃないぞ!』
『うるさい奴だのう』
面倒そうにイスラが嘆息するのが聞こえた。
営業中の店内である。
その酔客は、しばしば店に顔を出す男だった。
金がないのか女は取らず、そのくせ酒はよく飲んだ。
はじめは会計の時にわざと手を掴んできたり、帰り際に肩を軽く叩く程度だったのが、最近はティアが席の近くを通りかかえるたびに腰を触ったり、さらに酔いが進むと、店が終わったらどこそこで待ってる、などと身の毛もよだつようなことを耳元で囁きかけてくる。
当然、ティアは無視した。
それが気に入らないのか、男は次第に高圧的になり、ティアに対してだけでなく、他の女にも当たり散らすようになった。店内での評判もすこぶる悪く、クラウをして「あの客はもういらない」と言っているのを何度か耳にしたことがある。
――わざわざ金を払って嫌われに来るようなもんだ。
思いながら、厨房から出てきた料理を木製の
注文先は、例の男だった。
他の給仕にも頼んでみたが、案の定、「あいつ、嫌い」と引き受けてくれない。
「お待たせしました」
仕方なくティアが料理を運んでいくと、
男は片付けようともせず、「早く置けよ」と居丈高に言ってくる。
ティアは無言のまま、片手でテーブルの物を寄せた。空いた杯のいくつかを指で挟もうとした時、その動きが止まった。
スカート越しに、男がティアの足をべたべたと触ってくる。
「お客さん……」
ティアがじろりと睨むと、
「常連にはすこしくらいサービスをしたらどうだ?」
いやらしい笑みを浮かべた男が、あろうことか尻を撫で回してきた。
「……」
ここにいたって、ティアの堪忍袋の緒が切れた。
『イスラ……いい策が浮かんだぞ』
暗い声でイスラに話しかける。
『なんじゃと』
『この店にケツ持ちが本当にいるのか、確かめる方法だ』
言うや、ティアは声色を一転させ、
「あ、すいませーん」
男にむかって料理をぶちまけた。
「うわっ!」
盛大な音を立てて食器が散らばった。さらにティアは食卓に身体ごと倒れ込み、これでもかといわんばかりに
『……なるほど一計じゃな』
イスラの皮肉を聞き流し、ティアはおろおろした様子を見せつけながら、
「あ、すいませーん」
と繰り返した。
「くそったれ、何しやがる!」
男が、椅子を蹴って立ち上がってくる。
髪の毛ほどの良心の
――病みつきになりそうだな。
そんなことを考えていると、
「ぼうっと突っ立ってんじゃねぇ、早く拭く物を持って来い!」
男が怒鳴り散らしてくる。と、そこで男は何かを思いついたらしく、気味の悪い笑みを浮かべはじめた。
「お前の服で拭けよ」
予想通りというか、わかりやすい馬鹿だな、とティアは思った。
「嫌だ」
ティアが断ると、男の怒りが倍化した。ほとんど意味不明なことを
「あ、すいませーん」
当然のごとく男は激高し、ティアは突き飛ばされた。逆らわず、ティアは他の食卓を巻き込みながら倒れていく。女物ではあるものの服を汚されたことに腹が立ったが、男の怒りを助長した自覚があるだけに文句は言えない。
すでに周りには店の女たちが集まってきているが、男のあまりの剣幕に呆気に取られ、間に入ることができないでいる。ティアにとってもそのほうが都合がよかった。仲裁に入られて問題が収まってしまえば見たいものが見られない。
クラウは二階で接客中である。
「馬鹿にしてんのか、てめぇ」
男はティアの前に屈むと、凄みながら胸倉を掴んでくる。ティアは本気で顔をしかめた。まったく怖くははなかったが、酒気と口臭で鼻が曲がりそうだ。
「馬鹿になんて……」
顔を思い切り横に逸らし、しおらしく言ってみせると、
「許してほしけりゃ、俺の相手をしろよ」
だから、なんでそうなるんだ、とティアはほとほとうんざりした気分になる。
『止む無し、じゃな。相手をしてやるがよい』
『黙ってろ』
明らかに楽しんでいる口調のイスラを相手にしてはいられない。
強引に男に手を取られ、無理やり引き起こされた。男はそのままティアを引っ張り、足を踏み鳴らして二階へ続く階段に向かっていく。
「服、汚れてますけど」
親切心、というより男が冷静になるよう、ティアが最後通告のつもりで言ってやったのに、「やかましい! 大人しくついてこい!」と言下に怒鳴りつけられた。もうそれしか考えられない様子だ。
――やはり男は馬鹿だ。
ティアは落胆とともに男の手に目を落とす。
――これで誰も来なかったら自分で叩きのめすしかないな。
そう考えていたところ、ティアを掴んでいる男の手に、別の手が重なった。
「お客さん、お待ちを」
言い、間に入ってきたのはまだ若い男だった。少年といってもいい年頃である。黒髪碧眼で顔立ちは整っており、同性の視点を持つティアからでさえ、美少年然とし佇まいを見せている。
「勝手なことをされては困ります」
黒髪の少年は静かな口調で男を睨み上げる。
「なんだぁ?」
ティアを掴んでいた手を離し、男は胸を張って少年に迫る。
対する少年は平然としたもので、
「酔っているようですね。今夜はお帰りください」
「邪魔すんじゃねぇ。殺されてぇか?」
男が少年に手を伸ばしかけた。と、男の手を少年の手首が素早く払った、そう思う間もなく、少年が蹴りを放つ。その脚が男の横顔に届くかと思われた寸前、ぴたりと静止した。
「う、く……」
男の顔に、少年の脚の影が落ちている。
「今夜はお帰りください」
片脚立ちで同じ言葉を繰り返す少年に、男は完全に気を呑まれたようだ。文句ありげな瞳をティアに向けてきたものの、何も言わずに店を出ていった。
「ありがとう」
ティアがお礼を言うと、「いえ」とさも興味なさげに少年が返してくる。
――これが、ケツ持ちか。
てっきり大男が出てくるとばかり思っていたが、その身のこなしから疑う余地はない。
「あなたがティアですね」
どうやら自分を知っているらしい。「はぁ」とティアが答えると、
「こちらへ、着替えが必要です」
少年は
少年は階段を上らず、裏口の前に立つと、ティアを振り返った。
「どうぞ、こちらへ」
「着替えがそこにあるのか?」
つい裏口を指差してティアが訊くと、
「いえ」と少年はあっさりと否定し、
「あなたは、むこうが気になっているのでしょう?」
「……なるほどね」
とっくにバレていたらしい。とぼけるだけ無駄だとティアは判断した。
ふと視線を感じて顔を上げると、クラウが二階からこちらを見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます