6・白い夢

「――ただいま」


 家に戻るなり、足の震えがやってきた。玄関に座り込み、呆然とする。


「おかえり……イラ、どうした?」


 ひょっこりと顔を覗かせたジンが驚くのも無理はない。イラの全身はまるで泥を浴びてきたかのような汚れっぷりだった。それに、頬や足にはところどころ擦り傷がある。


「いや、ちょっと色々あって……」


 脳は混乱し、身体の力が抜け、目は泳ぐ。

 あんな恐ろしい体験を受けて、まともな精神を保つことは不可能だった。リフの前では堪えていたのだが、家に着いた安堵からか疲労と脱力感が一気に襲い掛かり、息をつくのもままならない。頭の中は真っ白で、とても学校まで戻る気力はなかった。


「まぁ、いいや。ホットミルクでも飲むか?」


 返事も待たずにジンは台所へ消えると、自分の手の平程の鍋とミルクの大瓶を手にとった。がちゃがちゃ、と不穏な音が聴こえるが任せておく。今はジンの優しさに甘えたかった。


「ありがとう」


 温もりに触れて、ようやく体が言うことをきく。ゆっくり立ち上がると、壁伝いでダイニングテーブルまで歩いた。倒れこむように椅子に座る。木製の固い椅子が、居心地良い。

 途端に、顔や手足の擦り傷が痛み始めた。ジクジクと地味な痛覚は生を実感することが出来、イラは目を閉じて吐息を漏らした。潤んだ目をこすり、深呼吸を繰り返す。


 程なくして、ジンは鍋を片手に現れた。火を強めすぎて吹きこぼしたのか、鍋のふちが白くなっている。


「カップ……カップ……」


 要領の悪さをただ黙って見守りながら、イラは足を投げ出して椅子にもたれた。頭を背もたれに預け、天井を見つめる。ふと二階へ続く階段に目を向けた。

 いつも寝起きしているソファの脇に梯子のような階段を取り付けて、二階の部屋まで登れるようにしてある。ジンの手作りなので歪みがあり不格好だが、造りは頑丈なので安全面に申し分ない。

 イラはその奥にある二階を見つめた。電灯がないので昼間でも夕方でも真っ暗だ。


なら、まだ起きてこないよ」


 イラの目線に気がついたジンが言う。イラは慌てて姿勢を正した。


「そう……大丈夫かなぁ」


「手当てはしているし、大丈夫さ。それよりも、俺はお前の方が心配なんだが」


 ぶっきらぼうな声と共にカップを手渡される。木をくり抜いただけの角ばったカップの中で、白いミルクが柔らかな波を作っていた。ほんのりと甘い香りが湯気とともに立ち上り、疲れきった体に染み渡る。その温かい香りにイラは思わず喜びの笑みを零した。


「僕が、どうしたって?」


「とぼけんな。どうせ、リフにそそのかされて何か怪しいことをしてたんだろう? 今朝の騒動を見てれば分かる」


 鋭い言葉に、イラはカップを置いた。誤魔化そうと顔を引きつらせて苦笑する。


「あんまり問題起こすなよ。でないと俺がジョータに怒鳴られちまう。もんのすごく理不尽だがな」


 ジンはニヤリと笑い、下手なウインクをしてみせた。そしてもてあそぶように鍋をゆっくり回して揺らす。ミルクの表面に張られた膜が皺をつくり、やがて滑らかに液体の中へ溶け出した。イラは自分のカップに目を落とした。白い波に浮かない顔が映りこむ。


「ごめん」


「何もお前が謝ることはないさ。ただ、気をつけてほしいだけだよ」


 両親がいないイラの親代わりである彼の言葉は、心の深い所に突き刺さった。物心がついた時からジンだけが家族で、不器用ながらも楽しく暮らしていたから寂しいと感じたことはない。もっとも、リフに振り回されることに忙しく、寂しさを考える余裕はなかったのだが。


「まぁ、お前ももうすぐ大人になるわけだし……あんまりうるさくは言わんよ」


 そう言って、イラから背を向けて台所へ戻るジン。言葉には何故か淀みがあった。しかし、その正体がよく分からず、イラはカップに手を伸ばすとゆっくり口に含んだ。



***



 叩きつけるような雨と灰色に染まった空が広がる。

 彼は村の小さな公園で雨に打たれていた。途方に暮れ、佇む。


 何かを探していた。

 なんだったろう。確か――


「……ウサギ」


 水中で言葉を発するように、酷く歪んだ音がふわりと耳に届く。

 そうだ、ウサギを探していたのだ。学校の飼育小屋から脱走してしまい、嵐で休校となっているのにも関わらず、ずぶ濡れで地面を這っていた訳である。


 思い出した途端、彼は降りしきる雨の雑音の中、声を上げた。雑草を掻き分け、木に登り、泥まみれになりながら探す。


「お〜い、どこ行ったんだよ~!」


 必死に叫ぶも、無情な雨に掻き消される。呼んでもウサギが反応するはずない。諦めが胸を縛った。呼吸をしようと、口を開けば溜め息が出てくる。


 何時間、彷徨っただろう。それでもウサギは見つからない。

 冷たい雨は体温を蝕んでいく。冷えた指先に気が付き、思わず身体を震わせた。


――少し、休もう。


 大きすぎるシャツがピッタリと肌にまとわりつくのが鬱陶しい。手の平で腕をさする。意識に反して身体の震えは増すばかりだ。


 一方、辺りは、バケツをひっくり返したように水で溢れている。その中で唯一、公園の中央にある大木は、叩きつける雨をもろともせずにずっしりと構えていた。少しの雨宿りには最適な自然の傘である。

 彼は、急いで大木の元へ向かった。足が重たい。鉛のような重さに驚きながら、ゆっくりと一歩を踏みしめる。


 ようやく辿り着くと、彼はかぶっていた鳥打帽を固く握り絞った。布に含んだ雨水を逃がす。ぼたぼたと滴り落ちる雨水が地面に跳ね上がり、飛沫をつくった。ある程度水を抜くと、今度はシャツの裾を絞る。

 地面はいまや水の模様を作り出していて、それをぼんやり眺めていた時だった。唐突に水たまりが、赤く滲んだ。目を凝らして、水に溶ける赤を追う。


 ぽたり。


 目線の先に、またもや赤が落ちてきた。この木は葉が雨水を遮っているはずだ。


 ぽた。ぽた。


 赤は徐々に落ちる速度を変える。リズミカルに水たまりの中へ吸い込まれる。

 彼は不審に思い、上を見上げた。

 太い幹が規則正しく四方へ張っている。その一つ、つまり彼の真上の幹に、白く輝くが見えた。

 大きな白い綿毛だと思った。


 しかし、違う。


 ふんわりとしたフリルに、しなやかに垂れ下がるリボン、細く長い滑らかな糸……脳がそれらの正体を理解するのに、時間がかかった。


――もう少し、近くで見たい。見たい。見たい。見たい……


 好奇心が駆り立てられ、彼は大木を抱きかかえるようにして身を寄せる。

 願いが叶ったのか、微動だにしなかった白い塊が僅かに動きを見せた。


 衣のこすれる音が耳の奥をくすぐる。目の前を舞うように揺れ動くフリルとリボンがあしらわれた純白な衣は、今まで見たことがないほど美しかった。


 小鹿のように繊細で華奢な足が姿を現す。複雑で、精巧な刺繍が入ったブーツもその色は白。

 絹糸だと思ったものは、長く艶やかな白髪しろかみ。さらりと幹にかかると彼の頬をさわった。

 小さな手の平が衣から飛び出す。きめ細かな肌は、ほんのりと紅が差している。ゆらり、と首が傾いた。


 目が……合う。

 

 激しい雨の音が消えた。雫が宙にぶら下がる。


 世界が、止まったのだと思った。


 彼は魅入られた。


 美しい白に魅入られた。


「っ……」


 息が止まる。思考など忘れた。広がる白い世界は、一切の濁りがない完璧な無だった。


 その瞳に映るのは、強さと儚さを併せ持った小さな少女。

 今にも消え入りそうな灯火なのに、揺るぎない光を放っている。小さな呼吸を繰り返し、惚ける彼の姿に気がつくと彼女は唇を震わせた。吐き出す息が冷えた空気を漂う。

 吸い込まれそうな黒い瞳は潤み、星空のようだった。その上を滑るように瞼が下りる。鈍く、ゆっくりとした動作で、彼女は二度、三度と瞬きをした。


 ぽたり。


 一滴の雫が少女の髪の毛から滴る。

 見上げている彼の頬へ落ちた。その柔らかな感触に、思わず手を触れる。雫を掬い取ると、彼は両眼を見開いた。


――赤い……。


 目が眩むほどの純白に突如差し込む「赤」に彼は身震いした。

 もう一度、少女を見つめる。よく見ると、腹部が赤い滲みを作り出しているのが分かった。


 それは、白い少女が流す鮮ざやかなあか――



***



 イラはテーブルに突っ伏した形で目を覚ました。

 いつの間にまどろんでいたのだろう。ジンの姿がない。


「……あの時の、夢……か」


 ぼやけた視界を正常に戻そうと、目をこする。と、滑らかな質感の艶やかな白が目の端を過ぎった。


「あれ?」


 慌てて、あてがっていた手を剥がす。

 ゆっくり、左へ首を回すと


 彼の顔をジッと見つめる、その瞳は出会った時と同じ潤んだ星空のようで、魅入られてしまう。

 小さな少女がイラの横で人形のように行儀よく座っていた。

 白くて丸い、ふわふわのワンピース。髪の毛は身体を包むくらい長く白い。その天辺に大きなリボンを乗せている。透き通るような白い肌は、頬だけが紅く染まっていて、なんとも愛らしい。


「やっと目を覚ましたんだね」


 少女はゆっくりと顔を上げてイラの姿を捉えると、無言で頷いた。


「怪我の具合はどうだい?」


 椅子から降りて、少女の元へ歩み寄る。しかし、彼女は小さく飛び退き、逃げるように二階へと続く階段を駆け上がってしまった。まるで、人間に怯える小動物のようだ。


「あ、待って!」


 追いかけようと階段を登ろうとしたが、途中で止める。追いかけても大丈夫なのだろうか。怖がらせたのではないか。


「……どうしよう」


「なんだ? 起きたのか?」


 玄関からジンの野太い声が聞こえた。小脇に大きな紙袋を抱えている。どうやら食材の買い物に出ていたようだ。

 空は深い濃紺と微量の橙を残した模様へと変わっている。居眠りの時間はそう長くなかったらしい。


「ジン、さっきあの子が……」


「ん? 目ぇ覚ましたのか?」


 イラの顔色を見て、ジンはすぐに察知する。言葉をみなまで言わずとも、お見通しだった。


「まぁ、警戒するのも無理はないさ。俺が行くと特に怖がらせてしまうだろうから、イラ、お前に任せるよ」


「え……あ、うん……」


「なんだ? 浮かない顔だな。お前が拾ってきたんだろう」


 ジンは言いよどむイラの頭を小突く。

 今朝もそうだったが女の子とどう接していいのか自信がない、など言おうものなら大袈裟に笑い転げるに違いない。そう考えると、どうしても口ごもった。そんな彼を見て、ジンは軽く鼻で笑った。


「焦らず慎重に行けよ。女の子ってのは難しいからな。絶対に正解はない」


 見透かされている。イラは更に顔を俯けた。




 少女は夕食時でも姿を表さなかった。どれだけ呼びかけてもまったく反応をしない。

 元はイラの部屋であるのだが、少女が立てこもっているので容易にノブを回すことは出来なかった。


「あのぅ……夕食、持ってきたよ。お腹、空いてない? ミルクスープなんだけど……食べない、かな……」


 声は返ってこない。イラは肩を落として、盆に乗せた夕食を見つめた。

 野菜を煮込んだミルクの甘い香りが冷たい廊下に漂う。スープの熱がどんどん逃げていくように湯気が細くなっていく。仕方なしに、イラは盆を扉の脇に置いた。


「置いておくよ。気が向いたらでいいから食べてね」


 扉に背を向けると同時に、小さな蝶番の音が聞こえた気がしたが、イラは立ち止まることなく一階へ下りた。

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