4・森へ

 初めて森へ足を踏み入れたイラは驚きの連続だった。


 見上げた空はまだ青く澄み渡っていたのに、それがどうだろう。この空間だけが夜闇を思わせる。

 枯葉を踏む二人の足音が静かな森に響いた。


 林や野原、丘にも野ウサギなどの小動物が生息しているのに、森にはその気配が一切なく、それでも何かが息を潜めているように思えた。静寂が更に不気味さを帯びていく。


 湿り気のある空気がシャツを撫で、冷たさが肌にまで伝わった。鳥肌が立つ。

 無意識に背中が、ぶるりと震えた。冷たく張り詰めた空気とは対照に、手の平は汗ばんでいく。


 闇に恐れをなして、胸の鼓動が速くなったことに気づき、握っていた彼女の手を振りほどきたい衝動に駆られた。

 しかし、この手を離すわけにはいかない気持ちと相反し、握っては離してを繰り返す。どうにも落ち着けない。

 リフの足音だけでも肩をビクつかせてしまう始末だ。自分の臆病さがここまで酷いものだとは思わなかった。


 ふと、足元を見てみる。地面に敷き詰められた枯葉の中、蠢く何かをその目で捉えてしまい、見なければ良かったと後悔した。


――こんな所に魔女が住んでいるのだろうか。


 ふと、疑問が脳をぎる。

 新聞にも学校の教えにも「魔女」と呼ばれる存在は確認出来ている。信じて疑うこともなかった。


 そして、皆が口を揃えて言うのは


「魔女は人の嘘を見る。穢れが少しでもある者は魔女の目によって裁きを受ける」


 実際に、罪人は魔女によって裁かれており、重罪を犯した者は森から消息を絶っているという。

 それでもイラは、浮かぶ疑問のせいで事実に揺らぎを感じた。

 自分達がいるこの空間、視界には黒く隆々とした木々のみ。日の差さない、真っ暗な場所を棲家にするなど自分だったら考えられない。

 暗闇の中、イラはそんな思いを巡らせた。


「……リフ」


 情けなく、前を歩く幼馴染を呼んだ。しん、と静まっているせいで小声になってしまう。

 しかし、リフは軽やかな足取りで楽しそうに枯葉を踏み鳴らしていた為に、まったく聞こえてはいなかった。足音に混じって鼻歌まで聞こえてくる。イラはどうにも解せなくなった。


――どういう神経をしてるのだろう……つい最近、ここで人が殺されているというのに。


 恐怖の対象が目の前の幼馴染へと変化し、身体の震えが徐々に引いていった。


「ねぇ、リフ。そろそろ帰ろう」


 イラは後ろを振り返り言った。既に、入口として通った木々の隙間が小枝程の幅に見える。それなのにリフは頭を横に振った。


「まだ……」


「もう入り口から遠いよ。帰ろう」


「まだ!」


 手を引いて連れ戻そうとしたが、それよりも先にリフの足が速くなり、逆に引っ張られる形となった。


「おい、リフ。リフってば」


 呼ぶも虚しく無視される。ここで強気に出られないことを情けなく思いながら、イラは森の入口にまた目をやった。もう大分遠い。


「リフ。約束が違うじゃ……うわっ……!」


 細い木の根に足を取られ、身体がぐらりと傾いた。危うく転倒しかけたが、すぐに態勢を持ち直して安堵する。

 手を引いていたリフがそれに気付き、ようやく立ち止まって振り返ったと思えば呆れたように鼻で笑った。


「気をつけなさいよ」


「君が目一杯、引っ張るからだろう」


「イラが鈍いからよ」


「……もう帰ろうよ、リフ」


 反論すると面倒なので話を変える。リフは辺りを見回していてまるで耳を傾けない。


「なかなか、魔女の棲家に辿りつけないわね」


 呑気な声で首をかしげる。静かな中で、彼女の高い声はよく通った。


「そんなにすぐ見つかれば世話ないよ」


「まぁね。早々と姿を晒されちゃ、面白くないもの」


 まったく噛み合わない会話に、イラは肩を落とした。


「リフ、帰るよ」


 再度試みる。しかし、リフはこの暗がりの中で何かを見つけたらしく、胡桃型の目を更に大きく見開かせた。


「ウサギ……」


「え?」


「あそこにウサギがいる」


「えぇ? あ、ちょっと! リフ!」


 イラが確認する間もなく、リフは彼の手を離すと駆け出した。慌ててその後を追う。


「リフ!」


 森が深くなるにつれ、湿気によって地面は柔らかく、泥濘んでいた。重たい土に足を取られながら、リフの姿を見失わないよう走る。

 楽しみを感じると周りが見えなくなるリフのことだ。今も彼女は夢中でウサギを追いかけ、自分が今どこにいるか分かっていないのだろう。


「リフ……! 止まれ!」


 その声に気づいたか否か、彼女はふと立ち止まった。


「リフ……君ね……」


 息を切らしてリフに声をかける。すると、彼女は嬉しそうにくるりと振り向いた。


「ほら!」


 どうやらリフはウサギを捕まえたらしく、誇らしげに目の前へ突き出した。綿のように細くて繊細な毛並みの白ウサギが、小刻みに身体を震わせてこちらを見上げる。その小さな身体のあちこちが泥で汚れていた。

 あまりにも呑気な彼女の姿に、イラは呆れを通り越して感心してしまう。


「この間、獣飼舎からウサギが一羽逃げたじゃない? きっとこの子だわ」


「そんな遠くまでこの子が来られるわけないだろう……多分、近くの野原から迷いこんだんじゃないかな」


 せっかくの手柄をあっさり切られ、リフは頬を膨らませた。そんな彼女に構う義理は更々ない。イラは溜め息をついて言った。


「リフ、その子を放してあげなよ」


「えぇ~!」


 すかさず抗議の声が上がる。そのわがままを含んだ態度に、イラの我慢していた苛立ちがとうとう限界値を越えた。


「もう、いいから言うこと聞いて! ここは安全な場所じゃないんだ。何も出ないからってそう呑気に構えてると……」


 唐突に、空気がイラの声を遮る。

 二人の間を細い風が通り抜ける。続いて、サクッ、と土に何かが刺さる音が二人の耳に届いた。


「えっ……?」


 足元を見ると、鉛筆の芯にも満たない細長い矢が真っ直ぐ地面に刺さっていた。

 突然の出来事にリフの緩んだ腕からウサギが飛び跳ねる。力が抜けたのかついでふらりとよろめくリフに、イラは急いで駆け寄った。


「リフ!」


 手を取って自分に引き寄せようとする。その動きに合わせてか、空を切るような風が再び吹き、今度はイラの耳元を掠めた。


 一瞬。

 ほんの一瞬の事なのに、はっきりと矢の唸る音が聴こえた。

 態勢を崩し、リフの上に覆い被さるようにしてよろける。ドスンと、二人揃って尻餅をついた。


「ちょっと……イラ、重い……」


「ごめん!」


 自分の下から呻くリフに気づき、イラは慌てて立ち上がった。


「リフ、走れ!」


 リフの手を取り、先ほど通った道を一直線に走る。だが、狂気的な音はやまない。背後を追うように矢は飛んでくる。風の唸りがどんどん増えていく。


 焦りと恐怖のせいか、足がもつれ次第にペースが乱れた。それでも襲いくる矢は更に増すばかり。圧が背中に伝わる。


 脆弱ぜいじゃくな足を奮い立たせ、イラとリフは森の中を駆け抜けた。二人が駆ける度、土が跳ねる。細長い武器はその足跡を満遍まんべんなく辿っていく。


――出口はまだか。


 来た道を真っ直ぐ、ひたすら真っ直ぐ走るも光は見えない。脇にそびえる木々が鬱陶しい。枝が顔に当たる。柔らかい皮膚が小さく裂かれる気がしたが、構う余裕はない。イラとリフは息つく間もなく出口の光を探した。


 足の踏み出す重さが段々と変わっていく。どうやら地面の乾いた場所へ辿りついたようだ。

 依然、飛んでくる狂気は勢いを緩めない。容赦のない鋭い雨はリフのすぐ後ろまで迫っている。



 その時。



 光が。




 一筋の光が、暗闇を割くように現れた。

 森の裂け目が大きくなっていく。

 目が眩むほどの光が、二人の目の前へ近づいていく。


――リフ! 飛べ!


 声にならない叫びがイラの口から飛び出した。リフも感じ取ったのか足を踏み込む。

 最後の矢が追いつくよりも早く、光の中へ同時に飛び込んだ。






「――くっ……はぁ……っ」


 瞼に強い光が当たっているような気がした。

 ゆっくりと目を開ける。青と橙のグラデーション架かった空が一面に広がっていた。森の入り口で仰向けに寝転んで見たその景色が今となっては懐かしささえ感じる。

 途端に肺を冷たい痛みが襲った。心臓が跳ね上がるように動いている。荒い呼吸はしばらく収まりそうになかった。




 ***




 森の天井で、眼下を逃げ惑う「人」が二つ。その姿が光の中へ飛んだ。それを全て見届けた従者は、気怠るげな表情で持っていた長い弓を肩に乗せると、誰にともなく呟いた。


「侵入者、二名。北区B地点から『外』に出た模様――」


 やがて、報告を受けた魔女の小さな舌打ちがその耳に届いた。




 ***




「何だったの、今の……」


 リフが脇腹をさすり、息絶え絶えに呟いた。傍らでは、イラが寝転んで小刻みに呼吸を繰り返している。そろそろ肺の痛みも、心臓の動きも落ち着き始めていた。


「……これ以上、関わるなっていう、忠告だったんだよ」


 そう答えて、ゆっくり起き上がる。


「多分、矢を放ってきたのは、魔女……もしくはその手下か。外して狙っていたのは、僕たちを逃がす為、だろうね」


「下手くそなんじゃなくて?」


 リフが口を挟む。イラは頷いた。


「今思うと、あれは威嚇しているようだった」


 イラはきっぱりと言った。リフの顔が強ばる。


「早く逃げないと、刺し殺すぞっていう……僕は、そう思う」


 そう言いつつ、じわじわと迫る事の恐ろしさに背筋を凍らせた。

『いつでも殺せる』。あれは間違いなく、そういう意味だったのだ。


「で、でも! 逃げられたんだし、良かったじゃない……」


 リフが取り繕うように笑った。そんな彼女にイラは眉を潜める。


「良かった、じゃないよ! 死ぬかもしれなかったんだぞ!」


 彼の真剣な眼にリフはすぐさま笑みを引っ込めた。イラの表情は怒りと恐怖と心配が混ざり合い、歪みを作っている。


「だから言ったじゃないか! 森には立ち入るべきじゃないと。君はいつも周りを見ない。先のことは構わない。それが命取りになるんだよ。もし、リフに何かあったら、僕は……」


 言いかけて止まる。リフはスカートの上部を両手で握り、大きな瞳に涙をたっぷり浮かべていた。


「ご、ごめん、なさい…」


 震えた声が言葉を作る。


「ごめんなさい……イラ、ごめん。あたし、本当はものすごく……すごく、怖かっ……」


 涙はとめどなく溢れてくる。しかし、彼女は俯かなかった。真っ直ぐイラの顔を見つめ、零れ落ちる涙を拭いもせず、言葉を連ねる。


「ごめんね。イラ。あたし……本当に、何も考えてな、なかった……ごめん、ごめん、ね。ありがとう」


 しゃくり上げ、言葉が乱れていく。やがて、リフは声を上げて泣いた。

 涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔をイラは黙って見つめる。腹に溜まっていた怒りはとっくに消え失せていた。

 泥だらけの手の平をズボンでこすると、泣きじゃくるリフの頭に乗せる。


「いいよ。もう」


 それからイラは、リフが泣き止むまで何も言わずに彼女の頭を優しく撫でていた。

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