第四章 過去編 その2
48話 ソレイユ編① 運命の少女
あの時なぜ、あんなことをしてしまったのか。
今でも時折、そんな思いが私の頭を過る……
思えば、エタリナを訪れると決まったことも含めて、何かの意図に導かれ今に至っているような、そんな気もする。
私とハロルドは2人で世界を巡っていた。最終的に目指す場所の定めのない、あてどもない2人旅だった。
向かう場所は私が決め、概ねそれに従う形でハロルドは応じてくれた。
そんな旅の終わりが来るのを想像すらしていなかった私に、それは突然訪れた。
エタリナに足を踏み入れたことで、すべては始まったのだ……
あの少女は、イマージュという名の少女は美しい顔立ちをしていたし、少女という、ある種男の保護欲を駆り立てる存在だったのは間違いない。でも、だからといって私がその部分に対して嫉妬や羨望を抱くことはなかった。
精神寄生体である私は、この世のあらゆる体に入り込むことができる。望むなら相手の記憶を奪い去り、体を乗っ取ることができる。だからハロルドの興味が別のところに向いたところで、私が焦りを感じることはない。問題はイマージュの持つ容姿なのではなかった。
ハロルドがイマージュを愛していたのかと問われれば、そこには疑問がある。
時間の短さは関係ない。彼女とはこの国で出会ったばかりだったけれど、たとえそれが錯覚と分かっていても、瞬間的に人が心を囚われることはあるから。
でも、ハロルドは人より永く生きている。そういうことを飽きるほど経験している彼は、幻想をコントロールする術を身に付けている。
時折、そういう感情にわざと身を任せ、私に隠れて別の女を抱くこともあったけれど、それが長続きしないことを私は知っていた。だから私はそんな彼の行動を咎めたりせず、気づかないふりで見過ごした。
冷たい口調で接したり、明らかに引きつった笑みを浮かべることもない。
所詮、彼が求めたのは、恋愛の時に生じる偽りの高揚感であり、日常を踏み外した時に得られる刺激に過ぎない。それでリフレッシュして、私に対する新鮮さやありがたみを思い出してくれるなら、それはむしろ私にとって歓迎すべきことだったといえる。
彼が他人を抱くことに関しては、1度自分が体を乗り替えてからは、全く何も感じなくなった。
私にも同じものが付いてるじゃない!……と、感情を荒げることもない。
私の体が既に借り物であることに加え、いざとなれば、いつでも彼の入れあげている女にとって代わることができたから。
肉体はただの器であり、私にとっては些末事にしか感じられない。それより重要なのは、その身に宿る心にあった。
私とハロルドを結びつけているのは、心の繋がりだと私は思っている。だから、私はその部分に関しては常に深い注意を払った。彼が私のどこに惹かれ、何を認めてくれているのか。それを自分なりに分析し、日々考えるのはとても重要なことだった。
彼との付き合いは既に50年を越えている。それほど長く付き合いを続けるには、互いに敬える部分がなければ成立しない。だけど、私の生きた時間はたかだか70年ほどで、その間に得たものなど彼に及ぶべくもない。
彼がそんなものを私に求めてないのは理解していたけれど、だとしたらいったい私のどこが気に入り、何が決め手となって私のそばにいてくれているのか? それは未だに漠然としか分からない。
それを問うて答える彼ではない。ただ、口にしなくても、言葉にしなくても分かることはある。だから私は、それを頼りに自分を磨き続けるのを怠らなかった。
そして、彼に近づく女を見る時、私は女が彼を惹きつける何を持っているか。その部分に関してだけは、異常な注意と関心を払った。
でも、これまで私が脅威を感じるほど、危機感を覚えるほどの何かを持った女が現れたことは、1度もなかった。
イマージュという少女が、人を惹きつけるものを持っているのは、初めて会った時すぐに気づいた。同時に私の中に渦巻いた、いい知れぬ不安。その時私は、この先何か良くないことが起こるのではと、心のどこかで確信していたような気がする。
ハロルドがイマージュに対して最初に抱いた感情が、どういうものだったのかは私にも分かる。彼女は私ですら手を差し伸べたくなるくらい、不遇な環境に生きているように見えたから。
だけど、彼は慈善家というわけじゃない。そんな運命のもと生きる者など過去いくらでもいたし、それだけが彼を惹きつける理由にはならなかった。
彼は気まぐれで人に何かを与えるけれど、その相手からまた取り上げることもしばしばある。さじ加減がとても難しい。だから私のように近しい場所にいても、下手に甘えるのは命取りになる。
彼は自立したものを好み、甘えや依存というものを許さなかった。特に、見返りを前提とした甘えを彼は最も嫌悪する。その見込みが下がれば下がるほど、逆に与えたくなるのだ。
……天邪鬼なのだろうか?
端的に言うと、そんな性質を持っているのかもしれない。
彼の与える施しは、蜘蛛の糸のように細くて切れやすい。人はそれを理解せず、与えられただけで満足していればいいものを、強欲に、傲慢にそれ以上を求める。
自分の色気に自信を持ち、彼にすり寄ってくるような女は特にその傾向が強く、私が浮気に対して寛容な理由の一端を担っていた。
でもあの少女は、イマージュは違った。彼女は欲というものを持たない人間だった。
いいえ、違う。彼女にも欲はあった筈だ。だけど、彼女の欲は歪んでいた。何かの影響で無欲と見間違えるくらい歪められていた。
彼女はそのような存在だったのだ……
◆◆◆
それはエタリナのフィージアという町について、すぐのことだった。
街角で見つけた露店には『ホットドッグ』が売られていた。それは世界中を旅して回った私たちが見たこともない、とてもおいしそうな食べ物だった。
ハロルドと店主の交わす会話から、店主が武者修行でセントアークという国に立ち寄った時に、偶然出会った人物からレシピを入手したというのは分かった。
でも、そんな細かいことはどうでもよかった。
ホットドッッグの香りと外観が、理屈抜きで私の食欲を刺激していたから。
めっちゃんこに、それが食べたい!……そう私に思わせたから。
何度もホットドッグに目をやる私は、自分では物欲しそうにしないよう配慮しているつもりだった。なぜなら、それがハロルドにバレてしまったら、ホットドッグは決して私の手に入らないから。
でも欲しい。でも食べたい。
そんな私の心の葛藤が、ハロルドにどのように映ったのかは分からない。
分からないまま、ハロルドが口にした言葉が私の耳に届いた。
「2つ、貰おうか」
それを聞いた瞬間に、私は心の中で小躍りした。バンザイした。
きっと耐え切れずに、笑みまで浮かべていたに違いない。
でも、私の顔を見たハロルドは何も言わず、ただ口元を微かに緩めただけだった。
露天でホットドッグを買った私たちは、何処か景観の良いところでそれを食べようと、場所を探していた。
その時に見つけた緑の生い茂る公園。そこに、私たちとイマージュとの出会いがあった。
「もう無いよ。もう無いってば……アハハハ」
そこで少女は子犬とじゃれていた。
まだ成犬になりきらぬ、とてもかわいらしい子犬だった。
おそらくエサでも与えていたのだろう。子犬は手のひらに残ったエキスをこそぎ落とすように、いつまでも少女の手を舐め続けていた。
「……足りないよね? じゃあ、食べてもいいよ」
そう言って少女が差し出したのは、少女自身の手だった。
子犬はそれにかぶりつくけれど、犬が人の手を食べる筈もない。それは遊びの延長上にある行為に過ぎなかった。
だけど、その時の少女の顔には、犬が本当に自分の手を食べるのを望むような、そんなひたむきな真剣さが浮かんで見えた。
「食べないね。食べないと死んじゃうよ? 次はいつ来れるか分からないし、その時死んじゃってたら…………私は悲しい?」
そう自分に問いかけた少女は、一瞬泣き出すかと思えた。
でも、次の瞬間
「ううん、悲しくない。……悲しくないよ」
自分の感情を掻き消すように頭を振った少女は、それを言葉で上書きし、更には笑顔で上書きした。そして、そのまま子犬の頭を撫でる少女には、もう笑顔しかなかった。
その一連の流れは、私には理解できない違和感を覚える光景だった。
「じゃあまたね、バイバイ」
そう言って立ち上がった少女は、その場から一歩退く。
それを追いかけようとした子犬の首が、伸びきった鎖に引き止められる。子犬はすぐそばの木に繋がれていたのだ。
野良犬かと思ったけれど、もしかして飼い犬なのだろうか? それにしては、やせ細っている子犬はロクにエサを与えられていないように見えた。
もし、鎖に繋いだまま捨てられた子犬の面倒を、この少女だけがみているのだとすれば? 先ほど少女の言った通り、この犬の命綱は少女だけが頼りであり、それが尽きた時が、この犬が死ぬ時だった。
フィージアは割合大きな町だったし、この公園に人が立ち寄らない印象はなかったのに、それでいて、この状況に気づき関心を持つ者が、少女以外に誰もいないのだとしたら?
それもまた疑問を覚えるひとつの光景だった。
子犬のもとを離れた少女は、私たちに向かって駆けてくる。薄汚れた身なりの少女は、年のころ10歳くらいに見えた。少女もまた、子犬に違わず幼い。
肩を超える黒髪に艶はなく、少女自身、栄養が足りているとは思えない、華奢な身体つきをしていた。
犬の世話をしてる場合か。
そんな気持ちが沸き起こるくらい、見るからに幸薄く見えるその少女は、しかしその時笑っていた。笑顔だった。そんな無垢な笑顔が作れる環境に暮らしているとは、とても思えなかったのに……
輝くような少女の笑顔に驚くと共に、私はその存在に一抹の不安を覚えた。
私と同じようにその光景を受け止めたハロルドが、果たしてこの少女をどう思うだろうか? そんな疑問が私の中に生まれたからだ。
私たちの横を通り過ぎ、そのまま通りに出たところで、案の定ハロルドが少女を呼び止めた。
「待て」
ハロルドの声が少女を捕える。
不思議な音色を持つハロルドの声は、一度で対象に届かなかったことがない。絶対に聞き返されたり、間違って別の人が受けとめることがないのだ。それは声の大きさに関わらなかった。
ハロルドの言葉は直接心に響いてくる。そんな、不思議な声を彼は持っていた。
ハロルドの呼びかけに立ち止まった少女は、不思議そうにこちらを見つめる。呼び止めると同時に歩き出していたハロルドと私は、俄かに少女のもとに辿り着く。それまで少女は、私たちが来るのをただ従順にそこで待っていた。
「名前は?」
「……イマージュ。イマージュよ」
ハロルドが人に名を問うのは珍しい。いや、そんなところを私は見たことがなかった。そして、それに応じたイマージュという名の少女。
名を問うアカの他人に対して、イマージュは怖れを抱いたり気後れすることなく、満面の笑みを浮かべながら答えた。
もしかして、この世界に悪意は無いとでも思っているのだろうか?
そんなことを心配する私の思いをよそに、イマージュの笑顔に表情を崩したハロルドが、突然私の方を振り向いた。
「そういえば、お前はそれほど腹が空いてないと言っていたな?」
「え?」
そう言って、ハロルドは私からホットドッグを取り上げる。
それをそのままイマージュに差し出した。
「1つ余ってたんだ。これをお前にやろう」
その光景を目にした私は、驚きのあまり口をパクパクさせながら、心の中で思いきり絶叫した。
ええええぇぇぇ―――――――っっ!?
余ってない! 余ってるわけがない!
それ私のですけどっ!?
誰よりそれを食べたいのは、私なんですけどっっ!?
……即座に溢れる、数々の思い。でも私がそれを、口にすることはなかった。
面と向かってハロルドに、そんなこと言えるわけがない。
理不尽ではあったけれど、少女にそれをあげるのが不当とは思えなかったし、この状況で言い返せばハロルドの逆鱗に触れる。
だから私はホットドッグを諦めた。心の中で涙を流しながら。
でも、きっとハロルドなら、自分の分を半分私にも分けてくれる。そんな奇跡が起こるのを信じて……
「え!? くれるの?……いいの?」
イマージュは私にも目を向けながら、おそるおそるホットドッグに手を伸ばした。
別にいいのよ……気を使ってくれなくても。
そう思いながら浮かべた私の笑顔は、自分でも分かるくらい、ぎこちないものだったけれど。
「ありがとう!」
満面の笑みで礼を述べたイマージュは、そう言うなり私たちの脇を抜けて公園内に戻った。でも、途中で立ち止まると、1度こちらを振り返った。
「……これ、私が食べなくてもいーい?」
「別に構わない。それはお前にやったものだ。お前の好きにしろ」
ハロルドの言葉に笑みを浮かべたイマージュは、ホットドッグを大切に胸に抱きながら、子犬のもとへ駆けてゆく。おそらくイマージュ自身、ロクに物を食べていない筈なのに、それを子犬に与えるつもりなんだろう……
天使じゃね?
イマージュ、天使じゃね?
私に断りもなく、1人でホットドッグをパクつき始める悪魔の横で、私は心にそんな思いを抱いていた。
でもその時、子犬のもとに辿り着いたイマージュに、公園の向こうから歩いてきた、3人組の少年の1人が声をかけて来た。
「イマージュ! お前仕事さぼって、またこんな所で遊んでんのか?」
まだ仕事をするような歳ではない少女に対して、同じく年端もいかない少年が、偉そうにもそんな言葉を口にする。
おそらくイマージュの事情を知っているのだろうけれど、自分の立場も弁えず、叱責して相手を下に見ることで、自分が偉くなったとでも思っているのだろうか?
その吐き違えた価値観に、思わず怒りが込み上げる。
「遊んでないよ。今ちょっと休憩……休憩してていいって――」
「口答えすんな、バカ女! とっとと仕事場に戻れ!」
渋々、少年の言葉に頷いたイマージュは、チラりと子犬の方に目をやりながら、諦めて帰ろうとする。
だけど、歩きながら何度も子犬の方を振り返っては、手にしたホットドッグをあげることができないかと考えているように見えた。
すると、後ろにいた別の少年が、目ざとくイマージュの手にしたものに気づいた。
「ちょっと待てよスネイル、そいつが持ってるの『ちょっと堅苦しいフランクおじさんの激ウマホットドッグ』じゃないか?」
その言葉に、連れのもう1人の少年が即座に反応する。
「マジッ!? あの1日50個限定の!? 俺、食ったことねー」
「俺はある。ちょーウマいんだぜ?」
スネイルと呼ばれた少年の後ろで、連れの少年たちがそんな会話を交わすのを聞きながら、私はハロルドの顔を仰ぎ見た。
その瞬間に、最後のひと切れを口に放り込むハロルド。
それを見た私は、心の中で思った。
ウマいんだ。
私が食べられなかったそれ、ちょーウマいんだ。
ちょーウマかったんだ……
そんな思いで見たハロルドは、なぜだか少しぼやけて見えた。
「ちょっと待て、イマージュ!」
帰ろうとしていたイマージュを引きとめたスネイルは、肩を掴んで振り向かせると、そのままホットドッグを奪い取った。
「あっ!」
声を上げたイマージュを無視して、得意気にそれを、後ろの2人に見せつけるスネイル。
「俺にもくれよ、スネイル!」
「俺もひと口!」
騒ぎ出す2人を手で制したスネイルは、口の端に笑みを浮かべながらイマージュに向き直った。同時に、それを見つめる私たちにも気づいたようだった。
一瞬気まずそうな表情を作ったけれど、そこで何かに思い至ったのか、すぐにもその顔には狡猾な笑みが浮かんだ。
「これ、どうしたんだイマージュ?」
「それ……もらった」
「もらった?」
その言葉にもう1度私たちを見たスネイルは、どうやらホットドッグと私たちを関連づけたらしい。でも、その口元から笑みが消えることはなかった。
「そうか、もらったのか。でも、もらったんなら、これはもうお前のもんだよな?」
ことさら声高に、私たちに聞こえるようにスネイルは問いかける。
「……うん」
「だったら、これ俺にくれよイマージュ。いいだろう?」
少年の声音は、どこか勝ち誇ったようなものだった。
おそらく、イマージュがそれを断れないのを知っているような、奪ったのではなく、正当に権利を譲り受けたと主張するような、そんなズル賢さに満ちたものだった。
見ていて、あまり気分のいい光景ではなかった。
大人が子供の争いに介入しないとか、そんな理屈を持ち出すつもりもなかったけれど、少年の発言は既に、何かの後ろ盾を得て発せられているように思えた。
だから、そこに大人の私たちが介入することに、私は何の躊躇も感じなかった。
既にハロルドが動いてもおかしくない状況で、イマージュが振り返って助けを求めて来ようものなら、すぐ様ハロルドを促して、いや私1人でも間に入ろうと思っていた。
でも、イマージュは振り返らなかった。
そして、なぜかハロルドも動こうとはしなかった。
「……いいよ!」
沈黙のあとに発せられたイマージュの声音に、私は心から驚いた。それが明らかな同意のもと、そう口にしたように聞こえたからだ。
振り返ったイマージュは、そのままこちらへ向かって歩いてくる。その顔には笑みが浮かんでいた。
目線が合ったイマージュは、俄かに私たちのもとに駆け寄ってきた。
「さっきはありがとう。でも、アレは食べずにあげちゃった。……ごめんなさい」
悪びれずそう告げ、頭を下げたイマージュは、私たちの脇を抜けてそのまま公園を出ていった。
その言葉から、私たちの思いに対する謝罪の念は汲み取れたし、その思考や感情が破綻したものだとは思えなかった。
にもかかわらず、イマージュは笑っていた。
笑っていたのだ。
その時、公園の奥から少年たちのバカみたいな笑い声が聞こえてきた。
「やっぱ、うっめーな」
「でもよ、スネイル。よくあいつ、素直に言うこと聞いたな」
「あー、あのバカ女か。あいつは俺の言うことなら、なんでも聞くんだよ」
「えー、マジかよ?」
「じゃーさ、…………せて、…………ろって言っても、言う事聞くかな?」
「えー、俺も見たい!」
「あんなガリガリ女のどこを見たいんだよ? まあ、でも一応女だからなぁ……」
何やら小声を交え、ゲスい会話を始めた少年たちに、ハロルドがゆっくりと近づいてゆく。その後ろ姿を見つめながら、私は今しがた起きた出来事について思いを巡らせていた。
イマージュが快く了承した以上、少年たちにそれほど大きな咎はないという思いはあった。
さっきのやり取りは、イマージュとスネイルという少年との関係性から生じたもので、他人が干渉すべきことではない。そう言われたら返す言葉もなく、結果として共に笑顔を浮かべながら、事は確かに終わったのだから。
では、それを見た私の中に生まれた、この不愉快な思いはなんだろう?
あそこでスネイルが無理強いし、イマージュが涙でも流してくれたら、話はとても分かりやすかった。少女と少年たちの力の差は歴然であり、構図として非常に明確な善と悪とが、そこには提示されたからだ。
でも、実際にはそうならなかった。その原因は、おそらくあのイマージュという少女にあるような気がした。
少女の態度が何から生じているかは分からなかったけれど、スネイルの提案は、子犬にエサを与えるという少女の望みを、明らかに阻害していた。
にもかかわらず、イマージュは自分の中にあった思いが、まるで最初から無かったかのように、自分の気持ちを切り替え笑顔まで浮かべた。
あんな子供が、そこまで物分かりのいい態度を示すだろうか?
あれはおそらく、スネイルという何かを勘違いした少年の背後にある力に屈したようなものじゃない。子犬と接していた彼女に覚えた違和感と、同質のものがそこにあるような気がした。
その真相は知りようもなかったけれど、そこまで考えた私は、私の感じる不快の根底にあるものを探り当てていた。それは私が渇望し、食べるのを楽しみにしていたホットドッグを、あの少年たちが食べてしまったという事実だった。
少女が食べ、わけ与えられた子犬が食べる分には、私は何とも思わなかった。そのために私は泣く泣くホットドッグを諦めたんだし、引き換えに私はいいことをした気分に浸れる筈だったから。
でも、あの少年たちがホットドッグを食べた事実は、私に不愉快な思いしか与えない。怒りしか感じさせない。
ハロルドがどういう思いで少年たちのもとに向かったのかは分からなかったけれど、それが少年たちに不幸を与え、私の気分が解消されるのを私は密かに願っていた。
……いいえ、そんなものじゃない。
『ハロルド、その3人を徹底的にやっておしまい!』
正確には、そんな思いで見つめていた。
「ちょっといいか?」
3人の会話に割って入ったハロルドに、スネイルが怪訝な顔で言葉を返した。
「……なに、おじさん?」
そのつっけんどんな対応を気にすることなく、ハロルドが続けた。
「実はさっきの女の子が持っていたホットドッグは、俺があげたものなんだが……あのホットドッグが連れのものだったのを、俺はすっかり忘れてたんだ」
そんなことをハロルドに告げられた少年たちは、困惑しながらお互いの顔を見合わせる。
当然だろう。ホットドッグは既に3人で分け合い、食べてしまったのだから。
「でも、あれは俺がイマージュからもらったんだ。それにもう食べちゃったし――」
「そんなことは分かってる。でも、あれはとてもウマかったから、どうしても俺の連れにも食べさせたくてね」
「…………」
ハロルドの言葉の意味が分からず、困惑するスネイル。
そして、その会話の流れに、なぜか不安を感じている私。
……まさかね。
「だから、無理やりにでも返してもらうぞ」
「――ッ!?」
とまどうスネイルの下顎を掴んだハロルドは、わけなく相手の顎を外すと、無理やり口を大きく開かせた。そして、そこへ右手を強引に……ねじ込んでいった。
「ぐぼぉっ……ぐっ……げげっ……げぶっほぉ」
逃れようとするスネイルを地面に押さえつけ、そのまま右手を更に奥へと突っ込んでゆく。それを見て逃げ出そうとした残り2人を、ハロルドが一喝した。
「動くなっ」
途端に、蛇に睨まれた蛙のように、その場を動けなくなる2人。スネイルは白目を剥いて痙攣しながら、既に気を失っていた。
ズリュリュリュッ
そんな音でも聞こえてきそうな感じで、右手を引き抜いたハロルドは、近くの地面に胃の内容物をぶちまけた。
そして、咀嚼され、胃液にまみれたそれを見つめながら「やはり、残りの2人からも出さないと、全部揃わないな……」
そんな、恐ろしい言葉を口にする。
いや、全部をもとの形に揃えるつもりなの?
何のために……まさか罰ゲーム?
ど、どうして、私まで参加させられているの……
――なぜっ!?――
ハロルドの視線にさらされ、2人の少年は恐怖に震える。
でも、そんなの、私の恐怖に比べればなんてことはない。
そこで私は目を閉じた。目に映る光景から続く未来を考えないように、固く視界を閉ざしたのだ。
そして、両手で耳を塞いだけれど、ハロルドが作業を続ける音が微かに耳に届いてしまう。それを打ち消すために、私は別の妄想を必死で頭の中に思い描いた。
『ソレイユ。冗談だよ、ソレイユ。アハハハハハハ……』
そんな爽やかなハロルドを、私は見たことがない。
でも、最後にはきっと、ハロルドは私にそう言ってくれる!
言ってくれるに決まってるっ!
それだけを信じて、私はただ無心にその思いにすがりついた……
◆◆◆
「ソレイユ」
すべてを終えたあと、ハロルドから掛かった声に私は思わず飛び上がった。
そのリアクションと表情にハロルドは驚いていたけれど、そこに私が考えていたような結末はなかった。
「待たせたな」
そう言うなり歩き出したハロルドに、急いで私は追いすがる。残りの2人がどうなったかを確認するつもりなんてなかった。興味を持って変なとばっちりが来る可能性は、まだ完全にゼロになったわけじゃないんだから。
ハロルドは、ぬめっていた手をちゃんと水場で洗い流してから来たようだった。
その手に腕を絡めて私は歩く。そして、しばらく歩いたところで、ようやく私はほっと息をついた。『ハロルドがノーマルな人で良かった』と、胸を撫で下ろしたのだ。
でも、少しあとになって、私は思考の一部を訂正した。確かに、私が想像したような悪趣味はハロルドになかったけれど、ハロルドがノーマルという部分には疑問が残る。
私は『ハロルドが私の許容できるくらいのアブノーマルな人で良かった』と思い直すことで、ようやく思考を落ち着けることができた。
2人でしばらく歩くうちに、私の頭を先ほど出会ったイマージュのことが過った。
彼女のあの態度はどこから来るのだろう?
それが少し、私は気になっていた。そして、それは私にとって、非常に危険なことのように思えた。
ハロルドがイマージュに対して、どんな見解を持ったのかは分からない。
でも、彼が彼女に対して、何も思わなかった筈がない。それが私の心に澱となって積り、不安を掻き立てていた。
◆◆◆
その日私たちは、その町フィージアで宿をとった。
宿に着いた途端、ハロルドは用事があるから1人で出かけると言い出した。
確かに用事はあったのだと思う。事前にそんな話を聞かされていたからだ。
ハロルドが私を置いて出かけることなど、過去いくらでもあった。普段なら気にもとめないことの筈だった。
でも、その時の私は不意に襲ってきた不安に、珍しく彼に食い下がった。自分も連れていってくれるよう彼に迫ったのだ。
当然、ハロルドがそれに応じてくれるわけもなく、気分を害しながら1人で出て行ってしまった。
私は雰囲気が険悪になるほど意見を主張し続けた自分を反省しながら、それでも心の中に生まれた不安を消すことができなかった。
1人で夕食を済ませ、ベッドに入る時間になっても彼は戻らなかった。
そんな彼を待つうちに、私の不安はどんどん増していった。
もしかすると、彼は私を捨ててどこかへ行ってしまったのではないだろうか? そんな思いが何度も頭をかすめた。
でも、私にできたのは、ただひたすらハロルドを待ち続けることだけだった。
寝ようとしても、不安で冴えきった私の頭が眠気に誘われることはなく、ただ過ぎ行く時間が、恐ろしく長いと感じられるだけだった。
そんな、生涯で最も長かった夜の終わりが、悲劇の始まりだった。
その晩遅く、もう明け方近い時間にようやく彼は戻って来た。
彼女イマージュを伴って……
宿屋の窓からその光景を目にした私は、自分の心が急速に冷えてゆくのを感じた。
そして、きっとハロルドに別れを告げられる。その時私は、そう思ったのだ。
冷静に今思い直してみると、そうではなかったんだと思う。
まだ子供のイマージュが恋愛対象でないのは、もちろん私にも分かっていたし、仮にそうだったとしても、恋愛感情があったのだとしても、それが即、彼と私の別れと結論づける必要すらなかったのだ。
彼は過去をあまり話さない。だから、私は彼の過去を知らない。でも、彼は既に気の遠くなるほど永い年月を生きている。だとすれば、一時期3人、或いはそれ以上と行動を共にしていたこともあった筈なのだ。
その中には恋愛だけでなく、様々な形の繋がり方があっただろうし、そう考えることができていれば、きっとその時の結果は変わっていたと思う。
でも、彼と私が共に過ごした間、私たちは常に2人だった。
50年以上に及ぶその時間の長さが、私の中に共に歩めるのは1人だけという考えを根づかせていた。誰かが入れば、私は弾かれる。私はそう思い込んでいたのだ。
いや、私がそういう考えを持っていたから、彼がそう配慮してくれていたのかもしれないけれど……
その時の私は、まるで冷静さを欠いていた。
私の行動を、ハロルドがどう受けとめるかを想像することもなく、私は静かに部屋を出た。そして、ほどもなく2人は部屋の前までやって来た。
イマージュを入り口に待たせたまま、ハロルドが部屋の中に入ってゆく。それを廊下の陰から見ていた私は走った。一目散にイマージュのもとに。
私の手には護身用にとハロルドに持たされた短刀が握られていた。
走り寄る私に、イマージュはすぐに気づいたようだった。そして、鬼気迫る私の表情や、手に持つ短刀の鈍い光にも気づいた。
途端に、顔に恐怖の色を浮かべたイマージュは、しかし声を上げることも、その場を離れようともしなかった。
ただ、身に迫る危険に対して、即座に彼女の手が動かされた。
それを見た私は、彼女に護身の心得があるのではないかと疑った。でも、違った。イマージュは胸の前で両手を組むと、祈るようにして目を閉じたのだ。
だけど、それは死を享受した者の表情ではなかった。明らかに恐怖で引きつる顔を押さえつけ、人が本来持つ自然な反応を捻じ曲げながら、自身を死にさらす覚悟をしたのだ。
こんな幼い少女に自ら命を投げ出させる、そこまで強い心の呪縛があるだろうか!?
それを目にした私は、おののくのではなく逆に激しい怒りを感じた。
イマージュにだって意思はある。純粋な思いから子犬をかわいがる彼女の姿を、私は確かに見たのだから。
でも、少女はその心を押さえつける。無理やりなかったことにする。彼女は胸のうちに、そんな心の
イマージュが抱えるものに対する私の怒りは、そこからイマージュを解き放つ手段として、このまま刺し貫くべきだという答えを導いた。
そして、私は躊躇うことなく、少女に短刀を突き立てたのだ。
人を殺めた経験なんてなかった。だけど、刃渡り20センチほどの短刀は、見事彼女の急所をとらえ、背中まで突き抜けた。
徐々に力が抜け崩れゆくイマージュの表情は、強ばったままか、或いは絶望に歪んでいるだろうか?
そんなことを想像しながら、私はおそるおそる少女の顔を覗き見た。でも、予想に反してイマージュの表情は、とても穏やかに見えた。
それが意味するところを考えた時、私の心は少しだけ軽くなった。
彼女が私の予測するような生き方をしていたのだとすれば、きっと彼女の人生は辛く苦しいものだったに違いない。そこからの解放は、たとえ命の喪失を伴ったとしても、彼女にとってはやすらぎになったのかもしれない。そう思えたから。
単に、自分を正当化するための、誤った解釈なのかもしれないけれど……
おそらくハロルドはそれを、彼女の呪われた人生から彼女を救い出そうと考えていたのだろう。そして、それはきっと叶えられる筈だった。
なぜなら、彼は絶対に諦めないから。
彼には力がある。それはある種の権力であり、財力であり、そして永く生き続ける間に蓄えられた、深い知識と経験だった。
彼が殴りあいのケンカや争いをしているのを、私はほとんど見たことがない。だから、腕っぷしが強いのかは知らないけれど、彼が特にそれを必要としているフシはなかった。
たいていの場合、彼は相手を口だけで負かしてしまう。相手の耳元で何かを囁くだけで、相手は顔を青ざめ戦意を喪失するのだ。
1度、彼が私に隠れて手を出した女が、その辺りにはびこる裏組織のトップが囲う女だったことがあった。その時、十数人の強面に囲まれた彼は、どこかに連れていかれてしまった。
でも、次の日彼は平然と私の前に姿を現した。彼を連れていった組織の人間を従え、豪華な馬車に揺られながら。
着ている服も煌びやかなものに変わっていた。鬱陶しそうに彼がその者たちを追い返すと、平伏しながら慌てて逃げるように去っていったのを覚えている。
彼は人より遥かに永く生きているのだ。そのような組織の上層部と繋がりがあったとしてもおかしくはない。ただ、姿形が変わる彼を、どうやって認識させているのかは定かでなかったけれど。
そういったところから援助を受けているのだろう。お金の工面に苦労している様子もなかった。とにかく彼ハロルドには、比する者が思い当たらないくらい巨大な力があったのだ。
その力の全てを使い、或いは人の一生で足りないと感じるなら、俄かに次の生を歩ませる方法も術として持っている。そうして彼は、彼ならば彼女の一生を背負いながら、目的を果たすまで共に歩むことができただろう。
彼は私の許諾を得てから、それを実行に移すつもりだったのだと思う。もちろん彼女を私の代わりにという提案ではなく、私を含めた3人での道行きを望んでいたのではないかと。
でも、その時の私は、そんなことを考える余裕もないくらい、心の闇に囚われてしまっていた。
今私の目の前には、腹部から血を流して横たわる、イマージュの姿がある。その身体から淡い光が立ち上り始めた。
それは私も幾度か目にした人の魂。精神寄生体である私やハロルドに殺された者は即座に転生を得る。リーンカーネーションという枠から外れ、イレギュラーな存在となった私たちに殺されることは、枠におさまる真っ当な生を歩む者たちにとっても、イレギュラーな出来事となるからだ。
だから、正しく生を全うできなかった魂は、俄かにもう1度生まれ直すのだ。そうハロルドから聞いていた。
普通、人が死に、身体から魂が離れるまでには数日の時間を要すると言われている。でも、目の前に横たわるイマージュの身体からは、今にも魂が抜け出ていきそうだった。
異変に気づいたハロルドが、部屋の奥から私たちのもとに駆けつけてきた。
その時、ハロルドにかけられた言葉は覚えていない。
一瞬、動揺したものの、彼は即座にイマージュが蘇生不能な状態だと確認すると、私を憐れむように見つめた。そして、拾った短刀で即座に首を掻き切った……私ではなく、彼自身の首を。
驚愕に目を見開く私の前で、イマージュの魂が天を目指してもの凄い勢いで上昇してゆく。それを追って、ハロルドの魂もまた私の前から消えてしまった。
茫然とそれを見送る私だけが、その場にとり残されたのだ。
ようやく私が事態を受け入れた時には、2人の魂は既になく、重なるように倒れる2つの遺体があるだけだった。
私はすぐにその場を離れると、宿を飛び出し2人のあとを追った。いや、追ったというより、闇雲に町の中を走っただけだ。
2人がどこへ向かったかは分からない。でも、私はじっとしていられなかった。
魂となって空へ向かった2人を、人のまま追うのが不可能なことくらい理解していた。
だけど、私はハロルドのように身体を乗り換える行為に慣れていなかった。簡単に命を断つことができなかったのだ。
その最大の理由は、器の入れ替えに伴う想像を絶する恐怖感だった。
魂と肉体の繋がりが絶たれた時、心に去来するのは圧倒的な孤独感だ。それは自分と世界とが、完全に切り離されたことを否応なく理解させてくれる。
その感覚はリーンカーネーションの枠を離れ、精神寄生体となった私だから感じるものなのかもしれない。だけど、私はわずか数秒でも、その感覚に自分をさらし続けることができなかった。
それを理解するハロルドは、すぐ近くに新しい体を用意してから、私の器の入れ替えを行ってくれた。それも経験としては2度しかない。
それでも私は、明け方の人通りが無い中、ようやくにして目の前を歩いている老婆を見つけた。そして、意を決するとイマージュを刺した短刀で自分の喉を貫いた。
痛みを感じたのは一瞬のことだった。なぜなら、私はすぐに意識を元の主に明け渡してしまったから。
ほとんどの記憶を貪り尽くしていたせいで、宿主の自我は既に崩壊していた。だから、そこに苦痛があったのかは分からない。そんなことを考えている間に、すぐにも死が訪れた。
私の体に本来宿っていた魂。それとの連結を解いた私は、ゆっくりと体を離れた。そこに予想通りの恐怖が襲ってきた。
世界と隔絶された、完全なる孤独。
ハロルドも肉体を離れた時は、この感覚に耐えているのだろうか?
少しの間なら何とか我慢できそうな気はした。だけど、私と共にいた宿主の魂が、真っ直ぐ空に昇って行ったあと、すぐにも黒い影が現れた。それは猛スピードで私のもとに向かってきた。
やって来たのは死神だった。人の魂を死者の暮らす世界へと誘う存在。
死神に捕らわれれば、他人の魂に寄生する力は失われてしまう。後天的に能力を付与された私は、ハロルドと違って生粋の精神寄生体ではなかったからだ。
でも、他人の運命を狂わせるという、この世の禁忌を犯してしまった私が、再びリーンカーネーションに組み込まれることはない。その先には相応の報いが待っている筈なのだ。
私は死神を振り切りながら、どこへ向かったかも分からないハロルドを探しあてるなど不可能だと思った。そして、即座に老婆の体の中に逃げ込んだ。
老婆の魂と連結した私には、死神といえど手出しできない。そのために私は、わざわざ生きた人間を見つけてから、自分の命を絶ったのだから。
そして、私は老婆の記憶を貪りながら考えた。この先どうすべきかを。どうやってハロルドを探しあてようかと。
でも、70年に渡って蓄えてきた私の知識と、ハロルドから得た知識。それらすべてを総動員しても、答えが見つかるとは私には思えなかった……
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