45話 独裁者ベレッタ
レンピは、ミラバ邸を出発したルカキスたちの馬車を追っていた。
それは馬車が向かう目的地を特定するためのものであり、尾行はゴーシュタールを過ぎた辺りで打ち切られた。レイク湖を左手に見ながら北上した先には、カリ・ユガに続くゲート以外に何もなかったからだ。
その結果はベレッタの予測と違わぬものであり、それを確認したレンピは、ゴーシュタールでベレッタと落ち合った。そして、ゲートを守護する王国軍の陣営が望める地点へ共に先回りし、そこで次なる指示を受けていたのだった。
「いいか、レンピ」
「はい! ベレッタ様!」
「ああ、あまり気負わなくていい。それほど難しい仕事ではないし、お前に高望みはしていない」
「はい!」
「……まあ、いいだろう。予定していたより、お前のすべきことは非常に簡単なものになった。奴らには望み通り、目指しているゲートを通過させる。それができれば今回のミッションは終了だ」
「えっ!? それを妨害するのではないのですか?」
「いや。奴らが何を目的としてるかは知らんが、カリ・ユガは簡単に行って戻って来れるような場所ではない。そのまま戻れなくなれば好都合とでも考えているのだろう。或いは、ぬか喜びさせる目的なのかも知れん。そんな、相手を弄ぶような雰囲気がなかったわけではないからな……」
その言葉を受け、レンピはそのような指示がベレッタに下されたのだと理解した。
「相手を弄ぶ。べレッタ様の上に立つそのお方は、なかなかに……良い性格をなさっていますね」
「フフ、昔はそうでもなかったんだがな。それに私は下に付いているわけじゃない。最終的な利害が一致しているから、協力しているに過ぎん」
「ああ、以前にそんなことをおっしゃってましたね。たしか――」
「くだらん話はもういい。それより今回の目的は、奴らにただゲートを通過させればいいというものじゃない。『軍の警備の目を掻い潜り、気づかれずにゲートを通過することができた』そう思わせるのが私たちの役目だ」
「…………」
「だが、見ての通り、ゲート付近にはアバネの実験施設などもあり、思いのほか警備が厳重だ。わざわざ正面からゲートに向かうことはないだろうが、迂回しながら近づいたとしても、完全に軍の目を誤魔化すのは難しいだろう。そこで軍に協力を仰ぎ、わざと気づかないフリをさせることもできるんだが……今回はそうせず、私の力だけで軍に対処する」
「…………」
「なぜそうするのか。分かるか、レンピ?」
僅かの思案の後、レンピが答えた。
「それはベレッタ様が兵の目を引きつける陽動を行うということでしょうか? だとしたら分かります。その目的も、可哀そうな兵たちが辿る末路も」
そう返したレンピの返事に、ベレッタはニヤリと笑った。
「理由の1つはそれだ。実はつい先日、私は自分の力に自信をなくしてしまう、そんな嫌な出来事に遭遇してな……」
「ほほ~」
「世界にとって、私は些末でちっぽけな存在でしかないのか? 私が生き続けることに意味はあるのか? そんな哲学的問いの答えを、知りたい心境になってしまったんだ」
「なるほど。やることは分かっているので、ちっとも哲学的だとは思いませんが、あそこの警備を請け負う兵たちにとっては、とんだトバッチリですね」
そう答えたレンピに、ベレッタは意外そうな顔を浮かべた。
「何を言ってるんだ、レンピ? 私がやろうとしているのは、あそこにいる奴らが待ち望んでいることでもあるんだぞ?」
「……どういう意味でしょうか?」
意味が分からず首を傾げるレンピに、ベレッタは理由を語り始めた。
「ここに警備が置かれるようになって、既に3年近くが経つ。軍が厳重に守護するこのエリアに近づくバカはいなかったが、しかし警備の任は解かれない。ちょうど1年が過ぎた頃、そんな状況に退屈した上層部の発案である噂が流された。その内容はゲート周辺には金脈があり、警備にかこつけて採掘が行われているというものだった」
「ええっ!? こんな山も川も無い場所で、本当に金が採れるのですか?」
「勿論デマだ。退屈しのぎの発案と言っただろう? だが、ゴーシュタールで実際に兵たちの羽振りの良さを披露したところ、この作戦は上手くいった。こんな場所から金が取れるという信憑性の低い話にも関わらず、それを信じた奴らが大挙して現れたんだ」
「……なぜそのようなことを? それは警備にとって、煩わしいことではないのですか?」
「フフ、一攫千金を狙った連中もそこまでバカじゃない。当然、警備の敷かれる正面からではなく、北と南に広がる林を抜けてゲートを目指そうと考えた。だが、それこそが軍にとっての思うツボだった。南の林には広範囲に渡ってマジックトラップが仕掛けられている。必然的に侵入者は罠にかかり、燃やされ、凍りつき、バラバラにされ、ことごとく命を落とした。兵たちは、今度はどのトラップが発動し何人が犠牲になるか、賭けをしながら楽しんだ。そして、それもやがて噂となり、このエリアに南から侵入しようとするものは誰もいなくなった」
「そりゃ、そーでしょうね」
「ただ、問題はここに警備が敷かれている本来の目的である北側だったんだが、意外にもその噂を流すことにアバネが同意した。北側エリアは実験のため、付近にマジックトラップを仕掛けることができなかったが、それでもアバネはそれを了承した。『入り込んで来た者についても、実験に使用するから構わない』それがアバネの返答であり、実際北側から林を抜けられた者は1人としていなかった」
「な……なんだか恐ろしい話ですね。アバネさんはいったい何の実験をしてるのですか?」
そう問いかけるレンピに、ベレッタはただ笑みを返すだけだった。
「とまあ、そんな経緯を経て今に至っているわけだが、退屈しのぎを失った軍の奴らは、心の中ではそれを渇望している。イベントに飢えている。そこで私が善意からそれに協力しようと立ち上がった。それが2つ目の理由だ」
「……軍の兵たちを擁護する理由は無くなりましたが、それでも得心するには至りませんね」
「フフ、別にお前を納得させる必要などない。そうすることで、たとえどれだけの人間が犠牲になろうと、私の心が晴れるならそれでいい。私は思うように生き、それが世界に受け入れられれば……そんな些細な願いを持っているだけなんだからな」
「いやいや、殊勝な雰囲気を醸しながら、とんでもないことを口にしないでください。その意見に同意できるのは、ベレッタ様1人だけですから!」
俄かにレンピからツッコミが入ったが、それがベレッタに届くことはなかった。
「とにかく、軍については私に任せておけ。問題は、お前が奴らをうまく誘導できるかなんだが……」
話の矛先をレンピに向けたベレッタは、暫し思案してから言葉を続けた。
「そうだな。確かお前には兄がいたな?」
「いえ、完全無欠の1人っ子ですが」
即答するレンピに、ベレッタは極めて冷静に繰り返した。
「兄が…………いたよな?」
落ち着いた口調で紡がれた言葉とは裏腹に、ベレッタの全身からはあきらかな殺意が漏れ出ていた。
それに震え上がったレンピは、即座にこう切り返した。
「いました! 推定で数えることしかできないぐらい、私の家の中は兄でごった返していました! 兄まみれでした!」
――唯我独尊モード――
このモードが発動したベレッタに、口答えは許されない。だからレンピは話をベレッタの希望に寄せたのだ。
ベレッタの『聞き返し』に二度目はない。口がきける状態で、再度ターンが回って来ることがないからである。
命の危険すら伴うベレッタの聞き返しは、モード発動の1つのサインであり、ベレッタの性格を熟知するレンピがそれを見逃すことはなかった。
ただ、レンピはスキルとしてM属性を保有している。受け答えを誤って制裁を受けるのを、逆に望んでいたりもする。
しかし、主の意向を読み取りストレスフリーで意思に従うのは、隷属する者の真の務めである。その極みを目指すレンピは、自分の快楽より主の思いを優先したのだ。
それに相手の意図を知りながら自分の欲望を優先させるのは、相手を舐めることになる。そして、ベレッタが最も嫌悪するのが、他人から舐められることだった。それはベレッタが舐められるのではなく、舐めさせるタイプだったからだ。
行為自体は嫌いではないので、自らが主導し舐めさせる分には問題なかった。だが、勝手に舐めるのはNGとなる。舐めるには許可を要するのである。
まさに、唯我独尊と称するに相応しい身勝手な性格の持ち主だが、それでいてベレッタは舐めるのは好きだったりもする。
……いったい何の話をしているのだろうか?
話がおかしな方向に進みそうなので修正しよう。
とにかく、雰囲気の変化を敏感に感じとったレンピは、ベレッタの意向に気づき直ちに発言を訂正した。ただ、その言葉のチョイスは、逆に舐めていると受け取られかねない、危険を孕んでもいたが……
レンピの態度に殺気を静めたベレッタは、俄かに普段の表情に戻って、おだやかな口調で話し始めた。
「そんなにいては不自然だろう。兄は1人でいい」
「はい!」
「お前は奴らと接触し、身の上を話して奴らの信用を得るんだ。私と出会うまではありのままを伝えろ。そこからのストーリーはこうだ――」
そう言って、ベレッタが聞かせたレンピと兄の物語は、非常にドラマティックで感動を誘うものだった。
兄の優しさと兄を慕う妹の思い。そこには兄妹を繋ぐ深い絆が生まれていた。
仲睦まじく暮らすそんな2人が引き裂かれた裏には、様々な思惑、欲望、怨嗟の念が渦を巻く。何度もくじけそうになりながら、そのたびに心を奮い立たせ、ようやく辿り着いたその先で、しかしそこに兄と妹の再会はなかったのだ……
ベレッタの語る、そんな切なくも愛情たっぷりのハートフルストーリーは、レンピというフィルターを通すことで、既出の内容と相成った。よもや、この原作でこんな映画ができちゃうの!? というレンピ監督の独創性に、ベレッタの思考は思い及んでいなかったのだ。
ベレッタなりに要点を細かくレクチャーしてはいたが、ある程度内容が伝われば問題ないと考えていたベレッタに、繰り返し同じ説明をする優しさはなかった。
一方、1度ですべてを覚えられる器用さも記憶力も持ち合わせていないレンピは、分からない点を聞き返せる立場にない。
2人のすれ違いから生まれた必然の結果は、しかしそれでも、奇跡的にカリューという魚を釣り上げることに成功した。これほど釣り易い魚も珍しいが、これがもしカリューの性格すらも理解してのベレッタの戦略なら、赤フェチで有名な某先読み名人の上をゆく所業だろう。
レンピの仕込みを終えたベレッタは、次にどのようにしてルカキスたちを誘導するかを考えていた……いや、考えてはいなかった。
ルカキスたちがカリ・ユガからの帰還も含めて行動に出るとすれば、騒ぎを起こしたくないのは分かっていた。だとすれば、必然的に警備を刺激しないよう、正面を迂回して林の中を進む以外に選択はない。
ここまで来て北側の林に回り込むとは考え難く、予測したルートを進んでいるというレンピの報告を受けた時から、放っておいても事は思惑通りに運ぶとベレッタは思っていたのだ。
しかし、そうなるとレンピにさせる仕事がない。ゲート通過を妨害するなら、いくつか考えていたことはあった。だが、その必要がなくなった今、代わりにレンピがベレッタを手伝えるかといえば、逆に足手まといになってしまう。
すべきことがないなら、お役御免と解放してやればいいのだが、それも何だかシャクに触る。自分はこれから大仕事が待っているというのに、昼寝をしながらそれを待つレンピの姿がベレッタの頭を過ったからだ。
幸いレンピのおつむはそれほど優れているわけではない。無理やりにでも命じてしまえば、途中で気づいたとしてもあとの祭り。そこで何かをしくじったところで、ルカキスたちが予定を変更するとは思えなかったし、逆にレンピには罰を与えることができる。一石二鳥のこの思いつきを実現すべく、ベレッタは命を下したのだ。
だが、それを受けたレンピの口から、意外にも鋭い指摘が返ってきた。
「ベレッタ様のおっしゃることはだいたい理解できました。ですが、そこで1つ質問があります。誘導するも何も既に奴らはこちらに向かっていますよね? そして、あの林に山のようなトラップが仕掛けられているのを知らなければ、警備の正面を突っ切るのではなく、そちらから回り込もうと普通は考える筈です。敢えてそれを私が誘導しようとすれば、逆に怪しくはならないでしょうか?」
「……チッ」
思わず出たベレッタの舌打ちには気づかず、レンピは続けた。
「それにベレッタ様のされることは、軍の警備に紛れ込んで好き勝手に暴れ回るという、誰の助けも必要としない単なるストレスの発散です」
「…………」
「だとしたら、私の役目はいったい何なのでしょう? 私って……いります?」
その問いに、ベレッタは僅かに動揺しながら眉根を寄せた。
「……そ、そうだな。確かに、お前がすべき役割はない」
「ですよねー!」
極端に作り込まれたせいで、既におぼろ気にしか覚えていない兄の設定。それを活かしきれる自信もなく、何とか回避できないかと知恵を絞ったレンピは、ベレッタの命令の中にあった矛盾を見つけ出した。
それを指摘しベレッタに認めさせたことで、先ほど伝えられた内容を一切覚える必要がなくなったレンピは、満面の笑みで喜びを表現した。
だが……
それではベレッタが面白くない。しかも、レンピから漏れ出た喜びの感情は、ベレッタの中の何かを刺激した。イラだたせ、心の奥に眠っていた悪意がそっと目を覚ます。その時、ベレッタの瞳の中には鬱屈した濁りが生じていた。
ベレッタは幸福が嫌いである。
いや、そうではない。別に世界に溢れるあらゆる幸福を憎むほど、ベレッタは自分の責任を放棄していなかったし、また世界に頼ってもいなかった。
何でもない風景に潜む日常という名の幸福。それにベレッタが気づく筈もなく、必然それを敵視する必要もなかった。ベレッタを不快にさせるのは、幸福そのものではなかったのだ。
ベレッタの悪意が向けられるのは、そんな幸福を享受するだけに留まらず、これみよがしにそれを周りに振りまく浮かれた存在である。それが嫌悪の対象となり、ベレッタをイラだたせるのだ。
まるで自分が勝ち組だとアピールするように、幸せを振りかざす者を見ると、つい不幸との落差を知らしめたくなる。幸福な気分はいとも簡単に、いともあっさり不幸に置き変わると、お節介にも教えてあげたくなる。
見せびらかす奴は奪われても仕方がない。それはベレッタの持論であり、それを現実のものとするためにベレッタはそこに干渉する。そして、目の前にある浮かれた思いを粉々に打ち砕き、一言こういうのだ。
『だから言ったろう?』
自ら手を下しておいて、だからも何もないのだが、そのようにしてベレッタの中の絶対法則は保たれているのである。
ベレッタがイラつきを覚えた時点で、そこに例外はない。そんなことは百も千も承知していたレンピだったが、そのことに気づいたのは、突然腕に走った痛みと、そこから滴る血を目にしたあとだった。
えっ!?
思わずそんな声が、レンピの中で漏れる。
えっ!?
そして、俄かにベレッタの表情を窺う。
ベレッタは何食わぬ顔でサーベルを鞘に納め、言葉を口にするところだった。
「――だが、それではせっかく私の考えたシナリオが無駄になる。お前はやはり道先案内として奴らに取り入るべきだろう。行動を共にすれば何か情報が得られるかもしれない。それを入手し私に報告するためにも、お前は奴らと共に行かねばならない」
言いながら、既にベレッタは魔法を発動させていた。
レンピの足元に広がっていた魔法陣に、レンピの腕から流れ落ちた血が吸い込まれてゆく。そのまま魔法陣は見えなくなったが、そこには不気味で禍々しい気配だけが残されていた。
それが地中にいると気づいたレンピは、思わずその場から飛び退いた。だが、レンピをターゲットに定めた悪意は、それくらいでレンピを逃してはくれなかった。
腕の傷はそれほど深いものではなかったし、ベレッタが取り返しのつかない怒りを抱いているわけでもない。しかし、それが命の保証にならないところが、ベレッタの怖いところだった。
既に走り出していたレンピの背に向けて、ベレッタが言葉を続けた。
「うまく逃げろよ。お前の血を吸ったヴァンパイア・サンドワームは、土の中からどこまでもお前を追跡する。及第に満たなければ、待っているのは…………死だ」
言い終え、至福の笑みを浮かべるベレッタ。
ただ、その顔を見た誰もが、それを幸福から来る笑みとは気づかないだろう。
ベレッタの表情は陶酔した者が浮かべる、どこか歪んだ狂ったものだったからだ。
ベレッタから既に数十メートル離れていたレンピは、足元の地鳴りに気づいて真横に飛んだ。
その直後、地面から飛び出してきたのは、左右両開きの巨大な牙を持ち、黒光りする外骨格を備えた魔物だった。地表に出ている部分だけで、ゆうに3メートルを越えており、レンピが抗えるような相手ではなかった。
内側が鋭利な刃物になっている牙を打ち鳴らすと、ヴァンパイア・サンドワームはいったん地表から姿を消した。その動きにレンピが嫌な予感を覚えるのと、足元から再びヴァンパイア・サンドワームが姿を現したのは、ほぼ同時だった。
真っ先に飛び出てきた鋭い牙が、カチンッと組み合わされる音にレンピはゾッとする。あとわずかでも反応が遅れていたら、確実に切断されていたからだ。
逃げ遅れた着衣を切り裂きながら、鼻先を掠めるように目の前で閉じられた牙を見送ったレンピは、続けて飛び出して来た本体にぶち当たって飛んだ。宙を舞った。そして、レンピの身体はゆっくりと弧を描くように空を漂う。
その着地点に先回りしているのだろう、ヴァンパイア・サンドワームの姿は既に地表にはない。そのまま落ちれば、今度は確実にあの牙の餌食になるのは確実だった。
そうと知ったレンピは、落ち行く最中、獣の咆哮をあげていた。
レンピが地面に落ちるタイミングで、地表に現れたヴァンパイア・サンドワームは、今度こそ間違いなくその牙の中心にレンピを捕らえた筈だった。
だが、その時、その牙を蹴って軌道を変えるという驚異的な身体能力をレンピは示した。獣と化したレンピの俊敏な動きの前に、またしてもヴァンパイア・サンドワームの牙は空を切ったのだ。
普段は人と遜色ない容姿を持つ獣人だが、外観と運動能力は獣のように変化させることができる。狐人族の場合、飛躍的に上昇する敏捷性に加え、四つ足での全力疾走は100メートルを5秒かからず駆け抜ける。
総体的な筋力の向上により高い戦闘力を誇り、突き出た口腔から覗く牙は、人の手足ぐらいわけなく咬みちぎることができた。全身を深い毛が覆う姿は、もはや人とはほど遠かったが、人の形態をとっている時同様、二足歩行も可能だった。
ただ、獣化はしばしば魔物と同一視される危険な行為である。そして、体を変化させることによる身体的負担も大きい。自分の身に危険が迫った時など、必要にかられない限り、獣人が獣化することはあまりなかった。
身体能力を強化したとはいえ、闇魔法でこの地に召喚されたヴァンパイア・サンドワームは魔物である。レンピでも、おいそれと葬り去れる相手ではなかった。軽快に一回転しながら着地したレンピは、迷わず逃走を選んだ。
レンピが向かおうとしたのは西である。軍の警備を避けたとしても、東に向かえば木が密生する林にぶち当たってしまう。それよりも広い大地が続く西に逃げた方が回避しやすいと考えたからだ。
しかし、そちらに駆け出そうと振り返ったレンピは、そこでピタリと止まった。
レンピの目の前には突き出されたサーベルがあり、その切っ先が眼球に触れそうなくらいの至近距離にあったからだ。
「どこへ行くんだ、レンピ? お前が向かうのはこちらではない」
そう告げたベレッタは、サーベルで南東の林を指し示す。どうやら好き勝手に逃げるのは許されないようだった。
「にゃは……ニャッハハハハ、ベレッタ様! それを先に言っておいてください……よっ!?」
レンピの言葉尻に合わせて、足元に抵抗を感じたと思った時には、既にヴァンパイア・サンドワームが姿を現していた。それをまたもやレンピは間一髪、横飛びで躱したが、一緒にいたベレッタのことが気がかりだった。
まさかと思い周囲に意識を巡らせたレンピの耳に、その時、かなり離れた場所からサーベルを鞘に戻すチンという音が届いた。
「ですよね~」
自分が躱せたあの攻撃を、力量で遥かに凌ぐベレッタが避けられぬ筈もない。いらぬ心配だったと悟った時には、レンピは何かを被弾していた。
「ん?」
ぶつかった衝撃はあったが、ダメージと呼べるようなものはない。顔全体に水を浴びたような感触が残るその攻撃は、おそらくシャボン弾だったのではないかと思われた。
特に後遺症があるわけでもなく、レンピはベレッタの意図するであろう場所を目指して軽快に駆け出した。
獣化したレンピを捕らえるのは容易ではなく、ヴァンパイア・サンドワームの牙は2度、3度と空を切った。そんな相手の攻撃を横目に見ながら、レンピが楽勝風味を漂わせた途端、しかしそれは突然やってきた。
「な……何で……?」
何もない場所で足を絡ませ唐突に転んだレンピは、自分がなぜ転んだのかを完全に理解していた。
何なの……この眠け……
そ、そうか……さっきのシャボン……こういうことだったんだ……
何とか身を起こし、次のヴァンパイア・サンドワームの攻撃を躱したまではよかったが、強烈な眠気のせいでまともに走ることができない。それでもレンピは立ち止まらず、何度も頭を振りながら目的地へ進むのを止めなかった。
あと、もう少し……
ベレッタ様にひっぱたいてもらったら……目が覚めるかもしれないけど……
やっぱ、ダメか……
目が覚めるだけでは……終わらない……よね…………きっと。
逆に、永遠の眠りにつくことになる……
そんな思いに浸るレンピを、激痛が現実に引き戻した。
幸運にも致命傷は免れたが、ヴァンパイア・サンドワームは地表に姿を現すと同時に、鋭い牙でレンピの右足太ももを貫いていたのだ。
痛みを快楽に変えることのできるレンピだったが、誰にいたぶられても頓着しないわけではない。いわれなき相手にそれを許した事実が、激しい怒りとなって眠気を完全に吹き飛ばしていた。
ぐっ……こんなくだらない魔物に、ベレッタ様に捧げた私の身体を傷づけられてしまうなんて…………許せないっ!
がらにもなく憤怒にかられ、魔物を睨みつけたレンピ。それに対して、ヴァンパイア・サンドワームは地中に戻ろうとはせず、その場に留まったまま、突如ムチのようにしなる複数の触手を地上に伸ばした。
その内の2本を人の手のように体の前で構えると、シュシュシュッと何度か突き出し、まるでボクシングのシャドーのような仕草をしてみせた。
地中から襲い掛かかる、ワンパターンの攻撃しかないと思っていたレンピは、そのヴァンパイア・サンドワームの挑発に、さらなる怒りを覚えていた。
「そんなフニャフニャで柔らかそうな触手が私に通用するとでも? 舐められたもんですね。私は舐められるのは大好きですが、それでも――ピシッ」
その時、レンピの言葉を遮って、ヴァンパイア・サンドワームの触手が、おでこにクリーンヒットした。
「……フフ、人の話を遮ってまで攻撃してきた気持ちは分かります。その威力では、私を倒すのに手数が必要でしょうから。でも何発私に入れても――ピシッ」
そこでまたもや、触手がレンピのでこにヒットした。
「……フフ、人の話は最後まで聞くものだと、お母さんに教わらなかったのですか? たとえその攻撃を――ピシッ」
でこへの打撃はこれで3度目である。さすがのレンピも苛立ちを募らせたが、一言バシッと決めてからヴァンパイア・サンドワームをボコりたい。そんな思いが、レンピを突き動かしていた。
「何を思って、そんな効きもしない攻撃――ピシッ」
「……を繰り返してるのかは知りま――ピシッ」
「……せんが、そんな攻撃、食らえば――ピシッ」
「……食らうほど、ダメージではなく、私の――ピシッ」
「……怒りに変換されて蓄積し、私がパワーアップするだけ――ピシッ」
「……って、ええ加減にせんかいっ! この――っ!?」
ドガッ!
ついにぶちギレ、魔物を怒鳴りつけたレンピだったが、さあこれからギッタンギッタンにしてやる! と反撃に転じようとしたところで、ヴァンパイア・サンドワームの放つ強烈なボディブローが、腹に突き刺さった。
「……っく……がはっ!」
体をくの地に曲げ、そのまま地面に倒れこんでしまうレンピ。
執拗にでこを狙った魔物のピシピシ攻撃が、それほど威力の無いものだったことが、結果としてレンピを油断させた。
でこのみに意識を集中し、なんなら自ら突き出すぐらいの勢いで、一歩も引き下がらずに耐えていたレンピは、最後のでこピシの直後、完全に無防備だった腹に複数の触手を絡めて放たれたハイスピードの突きをまともに食らった。
無念にも、涙とヨダレを垂れ流しながら倒れたレンピの足に触手が絡まり、無造作に上空へと放り投げられる。無抵抗に空中を漂うレンピの着地点では、ヴァンパイア・サンドワームが牙をガシガシと打ち鳴らしていた。
ベ、ベレッタ様……申し訳ございません。
先立つ不幸をお許しください……
レンピがそんな思いを抱く中、ついにその体は巨大なハサミの中心に捕らえられたのだった。
◆◆◆
「――全く。及第にはほど遠いな。私の命に従えんのなら、お前は解雇だぞ?」
いつの間にか草木の中に横たえられていたレンピは、顔を覗き込みながらそう話しかけるベレッタの声を聞いた。途端に、何が起きたかを理解したレンピの胸には、謝罪の念が溢れた。
ああ。また私はベレッタ様に救われたのか。
私はいつも、ベレッタ様に助けられてばかりだ……
体力の消耗で獣化は既に解けていた。人に戻ったレンピの表情には、申し訳なさと感謝の入り交じったものが浮かんでいた。
そんなレンピの頭を、ベレッタが優しく微笑みながら撫でてやる。レンピは心地よさそうに身を任せながら、熱のこもった眼差しを返していた。
なんだか、良い場面のようにも見えるが、レンピは1つ重大ことを忘れている。あわや、命を失うところだった先ほどの状況が、いったい誰に仕組まれたものだったのかということを。
感謝もへったくれもない。目の前で笑っている存在こそが、すべてを仕組んだ黒幕であり、転位魔法で正義のヒーローよろしくレンピを救ったベレッタこそが、元々脅威をけしかけ、レンピを窮地に追い込んだ張本人なのだ。
だが、今ベレッタは慈しむようにレンピの頭を撫でており、レンピは恍惚の表情でそれに甘んじている。
……何かがおかしい。
しかし、その事実に気づく者はここにはいない。
そこへ地中を這い進み、後ればせながらやってきたヴァンパイア・サンドワームが合流する。
当然、ヴァンパイア・サンドワームの狙いはレンピである。レンピの寝ている真下まで忍び寄ると、そのまま牙を突き上げながら地上に躍り出た。
しかし、そこに2人の姿は既にない。ベレッタはレンピを伴い、少し離れた場所に転位していたからだ。
そして、レンピをその場に寝かせたまま、ヴァンパイア・サンドワームに振り返ったベレッタは、こんな言葉を口にした。
「貴様……よくも、私のレンピに酷い真似をしてくれたな?」
おいおい。
普通ならそう切り返すこの場面で、しかしヴァンパイア・サンドワームは何も答えない。当然だろう。魔物に言葉が通じる筈もないのだから。
「お前の犯した罪……命で償え」
一方的に罪を擦りつけられても、ヴァンパイア・サンドワームは言い返すこともできない。
そして、レンピはその様子を、頬を赤く染めて、ただうっとりと見つめている。
その状況下にあって、たとえヴァンパイア・サンドワームが言葉を交わせたとしても、ベレッタの正義は揺るがない。そんな現実が今まかり通っているのだ。
……何かがおかしい。
しかし、その事実に気づく者はここにはいない。
冤罪を被っていヴァンパイア・サンドワームに、被害者意識はなかったが、もし仮にヴァンパイア・サンドワームに感情があり、人と同じように会話できたとしたら? おそらくこう答えていただろう。
『いや、私あなたに呼び出されたんですけど!? 言いつけ通りちゃんとやってましたけどっ!?』
そんな理不尽な思いを抱くことがなかっただけ、ヴァンパイア・サンドワームは幸せだったのかもしれない。
ただ、ゆっくりと近づいてくるベレッタには、不穏なものを感じたのだろう。直ぐさま地中へ逃げ帰ろうと動いた。しかし、それをベレッタは許さなかった。
ギィギェェェ――ッッ!
辺りに鳴り響いた魔物の叫び。ヴァンパイア・サンドワームの腹には、ベレッタのサーベルが突き刺さっていた。その真横に立つベレッタは、サーベルが抜けないよう足で柄の部分を押さえつけている。愉しげな笑みを浮かべながら。
胴体に深々とサーベルが刺さっているせいで、ヴァンパイア・サンドワームは地中に戻れない。戻ろうとすれば、自ら体を斬り裂くことになるからだ。
それを理解するベレッタは、ヴァンパイア・サンドワームの横で、優しく体を撫で回していた。
「どこへ行くんだ? お前の行き先はさっき私が教えてやっただろう? フフ、だが心配するな。なぶることにかわりはないが、私は無抵抗な人形と遊ぶほど悪趣味ではない。ちゃんと私にも攻撃できるように、お前を狂わせてやるからな」
言いながらベレッタは、懐から出したナイフを自分の腕に突き立てる。そして、そのままヴァンパイア・サンドワームの頭上に転移して、血を浴びせかけた。
それはヴァンパイア系の魔物を呼び出す際、禁じ手とされている、術者が絶対に犯してはならない行為だった。
魔物は元来、使役の難しい召喚対象である。理性をほとんど持たず、瘴気から生じる破壊衝動に支配されているため、魔法使いとしての十分な素養と、魔物に怯えぬ胆力がなければ指向性を与えそこねてしまう。
それは魔物が術者に向かうことを意味しており、その危険度の高さが闇魔法の使い手が少ない理由の1つだった。
ただ、ヴァンパイア・サンドワームは血との関連づけができる分、制御は容易な方である。
一方で、対象の区別を与えられた血で行うため、怪我を負っている時に決して召喚してはいけないと言われているのが、ヴァンパイア系の魔物だった。
その禁忌をベレッタは自らの血を与えることで破った。自分に降り掛かる危険を省みず、魔物を枷から解き放ったのだ。
支配から逃れたヴァンパイア・サンドワームは、途端にベレッタを攻撃対象と認識する。いや、血を求めるように攻撃をしかけてくる。その時、頭上にいたベレッタに向けて鋭い牙が音を立てた。
しかし、ベレッタは既にそこにはいない。かがんでヴァンパイア・サンドワームの腹に突き刺さっていたサーベルを引き抜くと、口元に笑みを浮かべた。
「さて、ではそろそろお仕置きタイムを始めようか」
すぐ近くで繰り広げられているそんな様子を、レンピは目を閉じ、体を休ませながら、耳だけで感じとっていた。
平時でも聴覚に優れる狐人族レンピは、そうしながらでも、そこで起こっている光景が手に取るように分かる。レンピの耳には何かが切り裂かれ、或いは切り落とされる音が何度も届いた。
時折聞こえる魔物の鳴き声と、ベレッタの煽るようなセリフ。レンピはそれを鮮明に頭に思い描きながら『もう。ベレッタ様ったら、本当にサディスティックなんだから……』と、なぜか1人で興奮していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます