35話 交渉の行方
さて、ここでいったん話を過去に戻すことにしよう。
それはミラバ邸に来る直前。3人で語られた、ルカキスによる説得の場面である。
ただ、時間軸をずらしてまで、ここにそのエピソードを挿入することに何か意図があったのか? そう問われれば、その答えはどちらとも言える。
あったようでもあるし、無かったようでもある。
なぜこのような形になってしまったのか?
今となっては誰にもその答えは分からない。しかし、ただ1つ言えるのは、このエピソードが今後時間軸通りに構成し直されることはないということである。
◆◆◆
ミラバ・ゲッソに連れられ屋敷に着いたルカキスは、そこでもう1人連れ合いがいることを伝え、ロボと一緒に引き返した。
そして、待っていたカリューのもとに戻ると、こう切り出したのだった。
「カリュー、悪いが予定変更だ」
「どうしたんだ、ルカキス?」
「ロボを買いたいという、じーさんが現れた」
そう話すルカキスの横で、ロボは無言のままムクれている。そこに疑問を覚えながら、カリューが問い返した。
「ロボを買いたい?……いったい何の話をしているんだ?」
「悪いが詳しく打ち合わせている時間はない。じーさんを待たせてるんだ。とにかく一緒に来てくれ」
そう迫るルカキスの性急な態度に、カリューは不信感を抱いた。
「行くのはいいが、何をしに行くんだ? まさかロボを売る話をしに行くと言うんじゃないだろうな?」
そこに、すかさずロボが割って入った。
「そのまさかをしに行くつもりなんだ! この野郎はよー!」
非難めいた口調から、ロボが納得していないのは明らかだった。
しかし、ルカキスにも平素は感じられない違和感がある。カリューは努めて冷静に疑問を口にした。
「ルカキス、何のためにそんなことをするんだ? ロボも了承してないじゃないか」
「いや、ロボの了解は取ってある――」
「取ってあるって、オレは納得したわけじゃねー! お前が任せとけの一点張りでゴリ押ししようとするから――」
カリューは興奮するロボを宥めて落ち着かせると、もう一度質問を繰り返した。
「ルカキス、いったいどういうつもりなんだ? まさかお前、金だけ受け取って相手を騙すつもりなんじゃ――」
「大丈夫だ、カリュー。俺もそこまでの悪人じゃない。交渉の場を利用して、多少の便宜を図ってもらうつもりではいるが、相手を騙すつもりなんて毛頭ない。……当然、ロボを売る気もないがな」
言い終え、ニコリと笑みを浮かべるルカキス。
このルカキスの発言は、この時点では概ね事実と言えた。
確かに、相手が相当な資産家なのは、屋敷を目にしたルカキスも気づいていたし、金に目が眩みそうにもなっていた。
ただ、それでも本来の目的を見失うには至っていなかった。カリ・ユガに向かうなら、戦力となるロボが必要なことはルカキスにも分かっていたからだ。
しかし、ロボの市場価格は知っておきたい。いや、市場より上回った値段になるかもしれなかったが、とにかく売ればいくらになるのか?
ルカキスは先々ロボが役に立たず、自分が被った損失を回収できないと判断した時、代替策としての売却価値を把握しておきたかったのだ。
そして、交渉の場を設けるのは顔繋ぎの意味合いも含まれる。需要を知っておき、いざ供給する際に事がスムーズに運ぶように。
今回、交渉が成立しなくても、その可能性があると匂わせながら交渉を終えることができれば。ルカキスが交渉に臨む理由はそんなところにあったのである…………この時点では。
しかし、今はそうではない。
少し話は逸れるが、ルカキスは今本気でロボを売却することを考えていた。
その原因は、他ならぬアントリッネの存在である。
たかだか女のために仲間を売るのか?
そういう意見もあるかもしれないが、情欲はそれほど単純な問題ではない。
それがために人は人を裏切り、傷つけ、あまつさえ命を奪う。それは人の備えるスキルに於いて、人生を大きく狂わせるファクターの1つなのだ。
しかも、情欲はそれほど簡単に御しきれるものではなく、しばしばそれにのめり込ませ、良心にさえ打ち勝って正常な判断を阻害する。
ルカキスの抱く思いは、アントリッネと接した時間の短さから考えても、それを補完する要素は何もなく、純然たる情欲と言って差し支えないものだった。
しかし、純粋で剥き出しの欲望だからこそ、若すぎるルカキスには制御が難しい。経験の乏しいルカキスは燃え盛る炎の消し方を知らず、ただ自ら薪をくべ続けるばかりである。
それを助長するアントリッネという存在もまた、ルカキスにとっては最悪であり、災厄でもあった。
アントリッネの保有する魔性は、ルカキスのようなひよっ子が到底抗えるものではない。
しかし、それを理解していたからこそ、ミラバ・ゲッソはわざわざルカキスにアントリッネをあてがったのである。
そこにはミラバ・ゲッソの誤算もあったが、目論見が外れたわけではなかった。なぜならルカキスからは、ロボを売らないという選択肢が完全に失われていたからだ。
人生とは、いつどこで歯車が狂うか分からない。そして、情欲絡みの失敗は、取り返しのつかないものになることが多い。
それに翻弄されがちな肉食系男性諸氏並びに女性諸氏の方々に、この後ルカキスの辿る顛末が何かのお役に立てば幸いである。
……脱線が過ぎたので、話を戻そう。
ルカキスはロボを売る気がないと言う。
それでいて交渉の席に着こうとする態度は、カリューには不誠実に感じられた。
そこをルカキスに追及した。
「売る気もないのにどうして相手を振り回すようなことをするんだ? それでは詐欺と同じじゃないか?」
そんなカリューの疑問を、ルカキスが鼻で笑った。
「フフッ、カリューよ。お前には伝えていなかったが、相手は商人なんだ。つまり、これは素人同士のやり取りじゃない。もはやビジネスと呼んでいい話なんだ!」
「…………」
「俺に売る気がないのはじーさんも分かってる。その上でじーさんは交渉を持ちかけてきた。なぜなら、じーさんにとって俺の気持ちは関係ないからだ。相手に売る気がなかったとしても、それを意のままに、望みのままに操るのがビジネスだ! 商売人の力量だ! 俺に100%ロボを売る気がなくても、未来の出来事に100%はない。そこが俺を交渉の席につかせる理由であり、じーさんがつけ入ることのできる僅かな隙だ。だが、同時にそれは俺がエサとして食いつかせている部分でもあるんだが、じーさんはそこに気づいていない。俺を何も知らない素人と侮っている。だからこそ俺は必ず勝てる! その確信があるから、俺は交渉に臨むことを決めたんだ!」
そう熱弁するルカキス。
しかし、カリューはその内容に、今いちピンと来ていない様子だった。
「……つまり、ルカキス。お前はロボを売る気があるということか?」
それを聞いたロボも、黙ってはいなかった。
「なにー!? そうなのか、ネオ・ルカキス! てめー、話が違うじゃねーかっ!」
この2人の反応に、ルカキスは思わず脱力していた。
「いや……お前たちはいったい何を聞いてるんだ? 俺は100%ロボを売るつもりがないと言っただろうが?」
「だが、未来は決まっていないとも言った」
「そうだ、そうだ! そこを説明しやがれ!」
1つ大きく息を吐いたルカキスは、赤子に諭すつもりで話し始めた。
「あのなあ……分割して話をとらえるから意味の分からないところが出てくるんだ。論旨をちゃんと理解して、纏まった話として受け止めろ!」
そう2人を叱責してから、ルカキスは認識の甘い部分を補足した。
「いいか? 俺にロボを売る気は全くない! だが、それなのに交渉の席に着くのをカリューが詐欺だと言うから、俺は未来の話を持ち出して相手の可能性がゼロでないことを証明しただけだ! しかし、俺にはロボを売る気がない。だから、勝算を持って交渉に当たることができる。要はそいうことなんだ。分かってくれたか?」
しかし、それでもカリューは納得しなかった。
「そもそも売る気がないなら、交渉の席に着く必要はないんじゃないのか? だったら、なぜそんな話になったんだ?」
その質問に、ルカキスは目を輝かせた。
「それは、相手に無償のカードを切らせるためだ」
「……無償のカード?」
「そうだ。カリュー、俺たちはこの町に何をしに来た?」
「何をしにって、ゲートへ向かうために馬車を手に入れたり――」
「そうだ! 俺たちはカリ・ユガへ向かうための準備にこの町を訪れた。馬車の手配だけじゃなく、野宿の疲れを癒すために宿もとりたいし、食事もしたい。その他諸々、準備には資金が必要だ。だがカリュー、勘違いするなよ? 俺は金を持ってないわけじゃはない。ただ、事実として金は使えば減ってしまう。この先、旅はいつまで続くか分からない。節約できるにこしたことはないんだ」
「…………」
「そんな時に降って湧いたのが、ロボを買いたいという今回の話だ。さっきも言ったが、俺にロボを売る気はさらさらない。しかし、交渉の場につけば、旅を続けるのに有利な条件が得られる可能性がある。相手は商人だ。格安か、交渉次第では、無償で宿や馬車なんかの提供が受けられるかもしれない……ロボを売らなくてもだ! そこは俺の腕の見せ所でもあるが、その点に関しては心配するな。俺に任せておけ」
この説明を聞いても、まだカリューは完全に納得していなかった。
「気が咎めるな。売り渡さないのに、相手から施しだけ受けるというのは……」
そう漏らすカリューの言葉に、ルカキスが反応した。
「何を言ってるんだカリュー? これはビジネスなんだ! そんなことを言っていたら、試食コーナーはどうなる? 食ったすべての商品を買わねばならなくなるじゃないか? だが、試食品を出す店側だって、それはあり得ないことだと分かっている。味に魅了されるか、されないか。試食の勝負ポイントはそこだけにあり、そこに自信があるからこそ、試食品が供されるんだ!」
力強くそう告げるルカキス。カリューの目を見据えながら演説は続いた。
「確かに、お前のように試食だけして購入しないことに、気が咎める気持ちは分からないでもない。店によっては、店員がそこに巧みにつけ込み、購入させられることもあるだろう。だが、それでも断られることがなければ試食は成り立たない。食ったら絶対買わねばならないなら、それは試食ではないからだ。そんなことは店も分かってる。それは駆け引きだからだ! それは1つのビジネスの形態だからだ!」
「…………」
「店側だって採算の取れないことはしない。たとえ断られることがあっても、その方法が継続しているのは、しないよりもした方が収益が上がるからだ! さっきも言ったが可能性はゼロじゃない。全く買う気なく試食したとしても、その味に感動すれば! もっと食べたいと感じれば! あの人にもこの味を届けたい……そう思わすことができれば! その気持ちは覆り、それは購買に繋がる!」
ルカキスはそう言い切ると、クールダウンしながら締めの言葉をつけ加えた。
「カリュー、ビジネスと善意をごっちゃにするな。別に相手はただで善くしてくれるわけじゃない。相手にも意図はあり、そこに勝算を見出しているからこそ動くんだ。今回俺が挑む相手はじーさんだ。歴戦の商人であり強敵であるのは間違いない。しかし、だからこそ何らかの施しを受けたとしても、そこを気に病む必要は全くない。俺にもメリットはあると思っているが、相手だってそう思ってる。その天秤がどちらに傾くかはフタを開けるまで分からない。カリュー、これはそういう戦いなんだよ」
ここまで説明されれば、さすがにカリューにも反論はなかった。
しかし、話を聞く限り、いくらルカキスにロボを売る気がなくても、それが覆る可能性はゼロではない。その点にカリューは不安を抱いていた。
だから、その決断をカリューはロボに委ねた。ロボがいいというなら自分はそれに従う。そんな思いで、カリューはロボに言葉をかけた。
「ロボ、お前はそれでいいのか?」
その問いに、ロボは微妙な表情を浮かべた。断ることが前提だったとしても、自分を売り買いする話にロボが同意したい筈がなかったからだ。
しかし、ロボは事情を知っていた。なぜルカキスがここまで熱く、この交渉に積極的なのかを。
ルカキスは金を持っていない。直前にいがみ合っていた時に、ロボはおそらく間違いのないルカキスの懐事情を探り当てていた。
それを補うために、ルカキスはさして乗り気でもない交渉に、やむにやまれず臨もうとしている。
カリューへの口ぶりから、その懐事情を知られたくないのだと理解していたロボは、ルカキスのプライドを守るのに協力してやりたいと思っていた。
結論として、ルカキスが自分を売り渡すことはあり得ない。金さえあれば、こんな話はルカキスだって蹴散らしていた……ロボにはそう思えたから。
だからロボは、自分自身の問題でありながら、最後の決断をルカキスに託すことにした。
そうすることで、本当の信頼関係を築けると思ったから。ここにいる3人が仲間だと心から実感したかったから。
「ネオ・ルカキスが大丈夫だって言ってんだ。……任せていいんだよな?」
前半を自分自身に、後半をルカキスに向けながら、そう告げるロボ。
そんな思いを託された当のルカキスは、満面の笑みを浮かべて強く頷いた。
「俺に任せておけ。決して悪いようにはしない」
信頼を得たものが発すべきこの言葉は、ルカキスが口にすることで、なぜか真逆の位置にその意味合いを変えたように感じられた。同時に霞がかったルカキスの瞳からは、より一層光が失われたような気がした。
そこに不安を感じながら、ロボとカリューの2人は交渉に臨むことを了承したのだった。
◆◆◆
そして、気づけば、交渉は概ね終盤へと差し掛かっていた。
しかし、どうにもおかしな方向に話は進んでおり、ルカキスの話していた旅に有利になる条件は何1つ語られていない。それどころか、このままではロボを売却することで話がまとまってしまう。
カリューはルカキスに伝えねばならない懸案も抱えており、このままではまずいと再び合図を送ったのだ。
だが、何を勘違いしたのか、カリューからの訴えをルカキスはそう受け止めなかった。
いや、ファーストインスピレーションは近い線をいっていたのだ。しかし、ルカキスはそれを曲解する。自分の欲望を成就させるために、深層心理が意図的にそれを歪めてしまったのだ。
そんなルカキスの思考の変遷は、こんな具合だった……
あと一歩で望みの結果が得られるという段になって、カリューからの合図。交渉がロボを売り渡す方向で進んでいることに、ついに気づかれたか。
くそぅ! 今なら最大限の譲歩を得られるのに……
だが、このまま無理に交渉を進めれば、2人が反乱を起こす可能性が高い。そこを調整するためにも、いったん仕切り直すのはやむを得ないか。
1度はそう判断したルカキスだったが、なぜかその結論に違和感を覚えた。
……いや。だが、待てよ? カリューは交渉が始まる前にも、俺に何かを訴えかけていた。確か、急を要する大事な話があるとかどうとか。あれは一体どういう意味だったんだ?
俺たち3人が話し合ってから交渉が始まるまでの間。その間に起こったことといえば美女の先導を受け、この部屋に案内されたことだけだ。
しかし、俺にとっては青天の
アントリッネ…………おおっ、アントリッッネッ!
そこへ想いを馳せるだけで、胸の奥に言い知れぬ心地よい痛みと締めつけを感じる。
だが、この心地良さはロボの犠牲の上に成り立つもの。そんなことは分かっている。分かっているし、それが正しくないことも俺は知っている…………だが!
だが、ロボを売り渡さなければ、この心地良さは地獄の苦しみに変化して、俺を蝕み続けることになる。
そんなの俺には耐えられない!
1度それを得た今となっては、もう後戻りはできないんだ……
結果としてロボを裏切ることにはなるが、それでロボが命を落とすことはない。
だが、俺からアントリッネを奪い取ることは、俺の死を意味する!
俺はもう、アントリッネ無しでは生きられない!
そんな存在へと変わり果ててしまったのだから……
この俺の純なる想い。人でないロボには理解できないだろうな。でも、ロボよりも遥かに人に近しいカリューなら、きっと分かってくれる筈だ。
カリューなら、きっと……きっと…………!?
いや、待て!
分かるどころか、カリューは俺と同じ想いを抱いているんじゃ~ないのか!?
交渉前に俺に告げてきた、カリューのあの思いつめた表情!
まさかっ!? カリューもまた、あいつを先導してきたあの美女に、惚れてしまったというのかっ!?
いやでも、2人同時にそんな出来事が起こるわけがない。だいいち時間が
……
だったら、俺はどうなんだ? 俺とアントリッネが共に過ごした時間は、入り口から応接室までというほんの僅かな道のり。カリューと全く同じ条件じゃないか!
そんな短い時間一緒にいただけで、俺は恋に落ちたんだ! それがカリューになかったと、どうして言える? いや、言えやしない!
カリューを先導してきた女だって飛び切りの美女だった。しかも、カリューに似合いでもあった。
――運命の出逢い――
まさか、あの短時間で2人同時に運命の出逢いが訪れていたなんて……
だからカリューは、交渉前に俺に告げたかったんだ!
何とかあの美女とお近づきになれる方法はないものかと、そんな条件を交渉に組み入れることはできないかと、俺に頼みたかったんだ!
そんなことも知らずに俺は……俺はカリューの頼みを無下に切り捨てた。
交渉を終えたあとでは、もはや手遅れになってしまうというのに……
だからこそ、あのタイミングでカリューは俺に告げてきたのに!
その後、交渉が始まった途端、カリューはさぞやショックを受けたことだろう。俺がいきなり、アントリッネを貰い受ける話が決まったことに。そして、うらやみながら交渉の行方を見つめていたに違いない。
だが、ここを逃せばあとはないというさっきのタイミングで、カリューはもう1度だけ俺に伝えてきた。
想いよ届け!
そんな思念に包まれたカリューのツンツンは、見事俺の思い違いを正し、軌道修正することに成功した。
……危なかった。もう少しでカリューの意図をはき違えるところだった。
俺に卓越した状況察知能力が備わっていなければ、決してこの見解に至ることはなかっただろう。間に合って本当に良かった。
交渉はほぼ終わっているが、今ならまだゴリ押しで条件を組み込むことは可能だ。ロボとカリューの2人に迷惑をかけることになると思っていただけに、カリューがこちら側についてくれたのは非常に心強い。
最初の耳打ちと先ほどのツンツン。そのどちらもが、できるだけロボに気づかれないよう配慮されていたことが、カリューの寝返りを裏づける。
愛とは至上のものであるが故に残酷でもある。今日起こったこの愛の物語を、俺とカリューはおそらく一生忘れることはないだろう。
ありがとう、ロボ。そして、さようなら……ロボ。
目を閉じ、拳を握りしめながら、ひとしきりそんな感慨に浸ったルカキスは、俄かに心のチャンネルを切り替えると、なぜかその顔に悪い笑みを浮かべていた。
フフンッ。それにしてもカリューの奴、堅物に見えて案外イケる口じゃないか。
改めて思うがセンスも悪くない。悪くないというか相当な美女だし、誰もがうらやむハイレベルな淑女でもある……まあ、俺の好みではないがな。
俺もチラッと女は見たが、あの女は可憐過ぎる。ピュア過ぎて穢れ無さ過ぎて、俺の欲望を刺激しない。だからといって、ミラバ・ゲッソが手をつけてない筈もないが、それでいてあの清純さを保っているんだとしたら、正に聖なる存在といえる。
そんな相手をどうこうするなど、俺にはとてもできそうにないが、何か禁忌を犯す変態的な快感がそこにはあるのかもしれん。
……まさか、カリューもそれ目的で!?
だとしたら、あの真面目そうな外見からは想像もできない、とんだムッツリ変態野郎じゃないか!?
カリューめ。ロボに気づかれるのを警戒しただけじゃなく、それがバレるのが恥ずかしくて、コソコソ動いていたのか。
まあしかし、人は誰しも変態だ。それがどこに出るかで侮蔑の対象となるかが決まる。
だが、安心しろカリュー。俺はお前のそんな性癖を知ったところで、お前を見下したりなんてしない……但し、俺はノーマルだけどな。
さてと。そうと分かればカリューと細かい点を打ち合わせたい。
勢いで結論を出しそうになっていたが、俺とカリューの意見が一致していたとしても、ロボが素直に言うこと聞くとは思えない。その辺りの方策を決めるためにも、ここは一旦結論を引き伸ばして、当初予定していた通りの行動を取るのが得策だろう。
しかし、もったいないな。ここで一気に決めれば、相当な金額提示を受けられるのは間違いなかったのに……
ルカキスは、最も高い効果を望める今の状況を放棄せねばならないことに、後ろ髪引かれる思いだった。
『契約はその場で決める』それは営業の鉄則だからである。
どんなに購買意欲を煽り、客をその気にさせたとしても、時間をあければ成約率は激減する。間違いないと思える場合でも、それは容易に覆ってしまうのだ。
ミラバ・ゲッソの場合、購入がキャンセルになることはないにしても、引き延ばせばやはりデメリットは生じる。もともと商売を生業としているミラバ・ゲッソはその道のプロであり、老獪でもあるからだ。
今はルカキスが有利に話を運んでいるが、時間を与えれば逆に自分が有利になる、ルカキスの思いもよらない策を講じてくる可能性が高い。だから、ルカキスは営業の基本に従い、ミラバ・ゲッソにこの場でハンコをつかせたかったのだ。
しかし、もしロボが暴走してしまい、交渉自体が無効となれば元も子もない。
アントリッネの話が出なければ、売り渡すつもりのなかったルカキスに、そのための準備がある筈もない。
結局ルカキスは利益が目減りするのを覚悟し、結論を引き延ばすことを選択したのだった。
「――ああ、ミラバ・ゲッソさん。僕から言い出しておいてアレなんですが、額も額だ。あなたもそう簡単に結論は出せないでしょう。どうです? 今日のところは、いったん僕らは引き上げ、明日もう1度交渉の場を設けるというのは?」
そのルカキスの提案に、予想通りミラバ・ゲッソは簡単に食いついて来た。
「おお、それは願ってもない! 私も出し渋るつもりはなかったが、なにぶん額が大きいので、色々と算段せねば答えが出ないと思っていたところだ。時間をもらえるなら、非常にありがたい」
「分かりました。では、そういうことにしましょう」
「すまない。恩にきるよ」
そう言って頭を下げるミラバ・ゲッソに、ルカキスはさりげない風を装ってこんな言葉を続けた。
「ところで……この町の宿屋を紹介していただけませんか? 僕たちは今日この町に立ち寄ったばかりで勝手を知りません。できればゆっくりとくつろげる、上質な所が良いのですが」
金も無いくせに、偉そうな口ぶりのルカキスである。
しかし、ルカキスのこの発言は、次にミラバ・ゲッソからかけられる言葉を予想してのものだった。
「おお、ならばこのまま家へ泊まられればよい! この町はそれなりに大きいとはいえやはり田舎町。君の条件にそえるような宿は存在しないだろう。しかし、我が屋敷ならパルナの最高級ホテルを超えるサービスを提供できる。食事の際には先ほど君たちを案内させた侍女に給仕もさせよう。アントリッネなどは既に譲り渡すことが決まった身。望むならそのまま部屋に連れて行って、一晩共に過ごして貰って構わない」
「なっ……」
――なんですって!?――
ミラバ・ゲッソの思わぬ提案に、ルカキスの意識はぶっ飛びそうになった。
そして、勝手に幻想世界に思考が歩みだそうとするのを、慌てて連れ戻さねばならなかった。
交渉はまだ終わっていない。ここでがっついてアントリッネにご執心なことを気づかれては、手痛いハンディキャップを負うことになる。それだけでなく、カリューと打ち合わせていない現状、そんな話を受ければ自棄になったカリューがロボと結託するおそれもある。
ルカキスは繰り返し『冷静になれ!』と念じ、何とか自分を取り戻した。
「な……何を、ご冗談を。そこまでの歓待を受ければ、交渉に手心を加えねばならなくなります。あまりに過剰な配慮は無用に願います」
「見透かされておりましたかな? ハッハッハッハ」
「ハッハッハッハ」
こうして、ルカキスたちはミラバ・ゲッソ邸で一晩過ごすことになったのだった。
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