第惨話

惨ノ壱


 双子のようにそっくりな女の子が、ふたり。

 日がだいぶ傾いた公園の砂場。

 女の子たちは、砂で謎めいた像を作ろうとしている。どこまでも高く細い山を作ろうとしては失敗している。乾いた砂を円柱状に固めようとしても、すぐに崩れてしまうのだ。

 どんぬ、どんぬ、どんぬ。

 遠くから、太鼓の音が聞こえる。

 ひゃららひゃららと、笛の音も。

 女の子たちは砂遊びに夢中だ。公園の横を通る花嫁行列にも気づかない。

 かちゃん、かちゃあん。

 それは器が割れる音。

 みんな狐面をかぶっている。美しく着飾る花嫁も、紋付き袴が凛々しい花婿も、白髪の仲人も、新しい夫婦の親たちも。みんなみんな、顔は白い狐面の下。

 祭り囃子の他に音はない。みんな黙ってぞろぞろと、公園の横を歩いていく。

 花嫁が、ちらと公園の砂場を見た。

 でも、女の子たちは気づかない。むなしく砂を積みつづける。

 唐突に、砂場に大きな影がさした。

 女の子たちはさっと顔を上げる。くりくりとした大きな目が印象的な、とてもかわいい顔立ちだった。真っ黒い髪の毛も同じくらいの長さに伸ばしている。でも、似てはいるが、双子ではない。

 女の子たちに影を落とすのは、ぬりかべのように大きな男。顔も服も真っ黒で、顔立ちはようとして知れない。影そのものが砂場の脇に立っている。

 影の男は何か言った。

 ただの唸り声のようだった。

 ぐにょん、とその両手が伸びる。ゴムのように、おもちゃのスライムのように。人間の手の動きではなかった。それは、片方の女の子の身体に巻きついて――。


『やめて! シキちゃんどこにつれてくの!? おじさんだれ!?』


『やめて! はなして! シキちゃんはなしてよぉ! やめっ――』


『ィぎゃああああああああああぁぁああああああぁぁぁぁぁああぁぁぁ!!』



 暁は目を覚ますと、左目の傷をこすった。汗でべとべとしていた。

 いやな夢をみた……。

 日常生活でストレスを感じると、たまにみることがある夢だった。たいてい、実際の記憶と虚構、幻想がいっしょくたになっている。今回の悪夢も、実際に起きたことはごく一部だった。

 しかしこの夢と付き合い始めてから、もう13年になる。いい加減慣れた。子供の頃は自分の悲鳴で目覚めたり、目覚めると同時に大泣きしたりしたものだ。

 ただ、無意識のうちに、多量の寝汗をかいてしまうのはどうしようもなかった。今回も、汗で身体が冷えてきて、ぞくぞくする。

 今が何時なのかわからない。部屋の中は夜の闇に落ちている。

 耳を澄ませてみると、外からかすかに雑踏が聞こえた。まだ昼間よりは静かなものだが、活動を始めているひともいるようだ。ということは、朝なのだろう。

 暁は眼帯を手に取ると、顔を洗うために部屋の外に出た。

「おっ、と」

 廊下で飴屋と鉢合わせになった。

 暁は反射的に左目を手で隠していた。

「お、おはよう。飴屋」

「ああ、おはよう」

「か、顔を洗いに……。えっと、今、何時……?」

「早朝だ」

「この国に『時間』はないの?」

「あるようだが、おれはあまり気にしないから時計がないんだ。――どうした、左目の古傷が疼くのか」

「えっ」

「悪いな。クーパーがここに運び込んでくれたときに、眼帯が外れて……おれたちはおまえさんの素顔を見てしまったよ。だが、隠したいなら隠すといい。おれも見ないようにする」

「…………」

 飴屋がようには見えない。一度まともに見られてしまったなら、もう隠しても意味はない。

 暁は観念した気持ちで、左目を覆う手をどけた。

「顔を洗ったら、朝めしにしよう」

「……うん」

 飴屋はそれ以上暁の傷痕に触れず、すっとすれ違った。暁もまた、洗面所に向かって歩き出していた。

 クーパーは初めて顔を合わせたときに、その目はどうしたと尋ねてきた。思わず聞いてしまったという感じだったし、実際何百回同じ質問をされたかわからないから、聞かれたこと自体はまったく気にしていない。

 でも、あのときは取り込み中だったのもあって「わけあり」で済ませられたが――。

 ここでしばらく〈組合〉の仕事を手伝ったり、飴屋たちの世話になったりするなら、どうしてこんな顔になってしまったかを話さなければならないだろう。

 まったく自分に非がない事情なのだ。話せば誰もが同情してくれた。それでも、自分からべらべら喋るような内容ではない。

 何より暁が気にしているのは、事情を知ったあとの人びとの態度が、明らかに変わることだった。蔑まれるわけではなく、避けられるわけでもない。でも……、空気が変わる。とても微妙な変化なのだが、それが暁は気に食わないのだった。

 まるで、暁に降りかかった不幸が伝染するのではないかと、本能的に怯えているかのような。

 ただの自意識過剰であったならどんなにいいか。

 とはいえ、この国は暁がもといた日本とはちがう。もしかしたら、彼らは事情を知ったあとも、変わらず接してくれるかもしれない。

 洗面台には鏡があった。石鹸は風呂場にあったものと同じで、洗うと実にさっぱりした。おまけに、はちみつのいい香りがする。

 鏡には、見れば誰もが息を呑むような傷痕が映っている。

 暁は眼帯でそれを隠し、居間に向かった。



 朝食を取ったあとは、昨日飴屋から聞かされていたとおり、町に出て〈組合〉の集金に付き合うことになった。昨日洗った制服はすっかり乾いていたので、暁はそれに着替えた。東京で暮らしていた頃は、暑いしムレるし窮屈だしであまり好きではなかった制服なのに、今は着ていると安心した。まだと繋がっている気がするのだ。

 真っ先に向かったのは仕立て屋だった。

 仕立て屋は飴屋のはす向かいにあり、徒歩一分もかからなかった。それでも、飴屋と連れ立って店を出ると、周囲の視線が次々と暁を貫いた。

 住民たちは店の前を掃除していたり、店内から商品を表に出したりと、この日の商売を始める準備をしていた。敵意は相変わらず感じられないものの、好奇心はむき出しだ。暁は少し居心地が悪かった。芸能人にでもなった気分だ。

〈天照〉がこの町にやってきたのは数年ぶりらしいし、なにやら重要な役割を果たさなければならない様子なので、ここでは実際芸能人に等しい存在なのかもしれないが。

 飴屋はすたすたと通りを横切り、何食わぬ顔で仕立て屋の前に立った。仕立て屋の店舗はレトロな洋風建築で、出入り口は茶色いドアだった。ドアにはプレートがかかっているが、暁には文字が読めない。恐らく『営業中』か『準備中』のどちらかを意味する言葉だろう。

 飴屋はちょっと首を傾けながら、そっとドアノブを回した。開いているかどうかわからないといった態度。ということは、プレートは『準備中』だったのか。

 ドアは開いたが、飴屋は少ししか開かなかった。

「仕立て屋。入っていいか?」

「あら、飴屋。看板が見えないのかい、まだ準備中――」

 奥から、つやのある声。しかし飴屋はかまわず中に入ったので、慌てて暁も彼に続いた。

 声の主は暁を見てぎょっとしていたが、暁もぎょっとしてしまった。仕立て屋は男性――なのだが……ちょっと濃いめの化粧をしていた。

 すらっとした細身の長身を、ダークグレーのスーツで包んでいた。髪はアップにしてまとめている。まるで女のように、片手で口を覆っていた。爪には真っ赤なマニキュアを塗っている。

 仕立て屋は……俗に言うオネエらしい。

 顔立ちはきれいでヒゲの剃り跡も目立たないが、やっぱり、ちょっと化粧が濃い。

 店内には洋服や生地が並んでいるが、和服も見受けられた。そして壁には、華やかな桃色のアラベスク模様で彩られた、狐面が掲げられていた。

「まあ……、天照?」

「そのまえに。仕立て屋、おまえさん今月の組合費を払ってないぜ。取り立てに来たぞ」

「あら。それはごめんなさい」

 仕立て屋はそそくさと古めかしいレジを開け、飴屋に紙幣を数枚手渡した。飴屋はそれを袖の中に入れながら、暁に視線を送る。

「確かに、こいつは天照だ。だが、完全に一張羅の状態でな。洋服を仕立ててやってほしい」

「天照のお洋服を? それは光栄だわ」

 仕立て屋は嬉しそうに笑うと、メジャーを手にして暁に近づいてきた。

「はじめまして、天照」

「……はじめまして。火野坂暁です」

「早速採寸させてもらうわ。……女のコにしては大きいわねぇ。これじゃ、古着屋に行っても着られる服があるかどうか……」

「見つからなかったさ」

「でしょうね」

 仕立て屋は、びいっとメジャーを引き出した。

 と。

 作業台の引き出しがひとりでに開き、メジャーがふたつ飛び出してきた。そのメジャーもまた見えない手によってめいっぱい引き出される。3つのメジャーは、棒立ちの暁のまわりを踊るように飛び回った。暁の採寸は、あっという間に終わってしまった。

「ちょっと肩幅もあるのねぇ。あと、足にもしっかり筋肉がついてる。運動が好き?」

「……はい」

「どういう服がほしいの? あたしはなんだって仕立てられるのよ。花嫁衣装もお手のもの」

 にっこり笑った仕立て屋の顔は、無邪気で、ちょっとかわいらしかった。

「こ、こういうのでいいです」

「こういうのぉ? これってあっちの学校の制服でしょ? あたしは着たことないけど、生地でわかるわ。これ、暑苦しくて窮屈じゃない?」

「ええと……」

「こいつには、これから組合の仕事を手伝ってもらうつもりだ。おれからの注文になっちまうが、丈夫で動きやすいのを頼む」

「まあ……」

 飴屋の言葉を聞いて、仕立て屋は少し眉をひそめた。クーパー同様、暁が組合の仕事をするということに賛同しかねるといった様子だ。しかし彼はそれ以上何も言わなかったし、すぐに固くなった表情をほぐした。

「わかったわ。丈夫で動きやすくてかわいいのを3着仕立ててあげる。お代は材料費だけでかまわないわよ、飴屋」

「おれに請求するのかい」

「当たり前でしょ。仕事の制服は雇い主が用意するものよ」

「あの」

「ん? なぁに?」

「かわいいのはちょっと」

 暁がためらいがちに注文をつけると、仕立て屋は笑った。

「そう。あなたはカッコいいのがいいのね? 任せてちょうだい」



 仕立て屋を出ると、暁の視界に緑色の車の姿が飛び込んできた。すでに見慣れた感のあるミニ・クーパーは、飴屋の店舗の前に停まっていた。

 どこからどう見ても英国紳士の男は車外に出ていて、にもたれかかり、プカプカ煙草をくゆらせていた。

「クーパー」

「おお。なんや、仕立て屋行っとったんか」

「暁に似合う洋服がいるからな。浴衣で組合の仕事をするのは、慣れていないときついだろう」

「ん……、せやな……」

「おまえさんも一着仕立ててもらったらどうだ? その深緑一着というのも味気ないじゃないか」

「深緑ゆうな。British racing greenや」

「うん?」

「ブリティッシュ! レーシング! グリィイインや! ただの深緑やないで。イングランドのナショナルカラーや。それに俺車やぞ。おいそれとエクステリア変えられへんねん」

「でも裸になれるじゃないか。ということは着替えられるだろう」

「脱げるんだ、服」

「なんで急にそこで反応すんねんおまえ。もー、俺の服のことは気にせんといてくれ。この色が俺のIdentityやねん」

「おまえさんは本当によく舌が回るなあ。ところで、暇かい、パーやん」

「ヒマや!」

「じゃあ、足になってくれ。組合費を集めて回りたいんだ。みんなに暁も紹介したいしな」

「ほいきた」

 クーパーがもたれていた背を離すと、車のドアが2つ同時に開き、助手席のシートが前に倒れた。

 暁が後部座席に乗ると、ドアはタクシーのようにひとりでに閉まった。

 助手席に座った飴屋が、懐から帳面を取り出す。

「ええと、近場は、と。うん、電器屋だな。おまえさんと仲のいい」

「仲ええっちゅうか話が合うだけやで」

「それを仲がいいと言うんじゃないか」

 車が走ったのはものの二分だ。本当に近場だった。

 暁が次に出会ったのは、〈良い電器屋〉だ。

 電器屋の狭い店内は電化製品で埋め尽くされていた。積み上げ方がかなり乱雑で、家電の山は今にも崩落しそうだ。

 飴屋が言ったとおり、この町にも電化製品はあった。……が、どれもかなり古く、昭和の時代のものに見える。そして、とても新品には見えなかった。くたびれた中古品ばかりで、本当に動くのかどうかもあやしい。いったい何に使う家電なのかというものも多い。

 要するに、ガラクタだ。ガラクタの山の中に机があり、電話と無線機とレジが置かれていた。ほとんど作業するスペースがなさそうだが、机に向かう電器屋の前には、分解している最中と思しき機械があった。

 しかし、こんなにも雑然としている店内にも、狐面はあった。

 暁たちが店内に入ると、電器屋が作業の手を止め、顔を上げた。

〈良い電器屋〉は30代後半の男だった。髪はぼさぼさ、丸顔で、ちょっと眠そうな目をしていた。特徴的なのは、その右目だ。怪我をしたばかりなのか、白いガーゼが貼られている。暁と同じ隻眼の状態だ。

 電器屋ははじめ、寝起きのような様子でぼんやりしていた。飴色の目はどんよりと濁っていて、無表情だった。何が起きたかわからないと言いたげでもあった。

「……あぁ? ……あぁ、飴屋に、クーパーに……ふへっ」

 電器屋は暁と目が合うと、気の抜けた笑い声を漏らした。

「誰だいこいつ」

「天照だよ」

「へっ、ふへっ、そうかい。へへ、だろうと思ったがやっぱりそうか。え、飴屋コノヤロ。今回はうまくやったみたいじゃねぇか」

「ああ。今回はうまくいった。クーパーが頑張ってくれたんだ」

「クーパーが? へへ、コノヤロ。おめぇちゃんと役にたってんじゃねぇか。え?」

 クーパーはにっこり笑って、帽子をちょいと上げた。

 電器屋はちょっと口が悪いし目が死んでいるように見えるが、これが彼のスタンダードのようだ。飴屋もクーパーも、彼の目のガーゼにすら突っ込まない。

「電器屋。今月の組合費を徴収しに来た」

「あっ? へへ、そうかい。オレ払ってなかったか。ふへ、そりゃ悪かったなぁ、へへへ」

「それと、今回の天照のこともよろしく頼むぜ。――そうだ、洗濯機はあるかい?」

「あっ? そりゃあるけどよ。おめぇんち水道通ってんのか? あと排水口あんのかよ、洗濯機用のよぉ」

「失礼だなあ。水道は引いているぞ。排水口は……たぶんないと思うが」

「ひへへっ、バカヤロ。じゃあ、洗濯機買う前に工事屋に金払うんだな。そもそもよ。おめぇんち電気通ってねぇだろ、え?」

「ああ金がかかるなあ。仕立て屋にもふんだくられそうだというのに」

「へっへっ、コノヤロ。金たんまり持ってんじゃねぇか、おめぇはよ。へへ。たまにはパアッと使えってんだバカヤロー」

「考えておこう」

 飴屋が帰るそぶりを見せたので、暁は電器屋にぺこりと頭を下げた。ひと言も彼と言葉を交わさずに終わると思っていた。

「おい、天照。おめぇオレとお揃いだなぁ、ふへへへっ」

 彼はにやにやしながら、右目のガーゼをつついた。

 暁が返答にこまっていると、電器屋はにやにやしたまま手元に目を落とし、機械の分解作業に戻ってしまった。



 次に向かったのは〈良い鍋屋〉の店だ。

 鍋屋というからには鍋を売っている店らしいのだが――店舗には、ふたつ出入り口があった。ひとつは開け放たれ、外にまで鍋のタワーがはみ出す雑然とした店舗に続いていたが、もうひとつは、こぎれいな居酒屋の出入り口のような黒い引き戸だった。

 飴屋は鍋の山を縫うようにして、ちょっと小汚い入り口のほうに向かっていった。が、中を軽く覗き込んだだけで、すぐに戻ってきた。

「なんや、まーたおらんのか」

「ああ。小料理屋のほうにいるかもしれん」

「もしかして、こっちの戸?」

「せや。こっちは鍋屋の小料理屋なんや」

「……なにそれ」

 鍋屋の小料理屋。個人名=屋号なせいで、なんだかややこしいことになっている。

「本業は鍋屋やねんけど、あいつ作るメシごっつうまいねん。みんなして褒めてたら、そのうち片手間に店始めてもうたんや」

「片手間というより、今はもう完全に……」

「せやなあ。組合の連中はしょっちゅうここでたむろしてんねん。お前もいっぺん食うとき」

「……おすすめは?」

「もつ鍋やな!」

「柳川だと思うが」

「あぁあれかぁ、捨てがたいなぁ」

「でも、暁は肉が好きなんだよな」

「ほんならもつ鍋か角煮やろ。なんや角煮食いたいときは予約しろゆうとったな」

「角煮……」

「お、食いたいんか」

「うん」

「じゃあ予約だな」

 飴屋は笑って、『鍋屋の小料理屋』の引き戸をからりと開けた。

 中は薄暗く、客はひとりもいない。まだ準備中らしい。あまり広い店ではなかった。無理やり建て増しして、鍋屋の店舗のとなりに取って付けたような様子だった。

 出汁の匂いがする。その匂いだけで、暁の口の中に唾がわいた。

 カウンターの中には、ふぐ柄の手ぬぐいを頭に巻いた男がひとりいて、寸胴鍋をかき回していた。口ヒゲを生やしており、眼光がするどい。目の色が金色だからよけいに目力が出るのかもしれない。ちょっとカタギではない雰囲気が漂う容姿だ。いや、超頑固なラーメン屋に見えなくもないが。

 もの言いたげな彼が口を開く前に、飴屋が先手を取った。

「ああ、鍋屋。準備中なのはわかっている。今月分の組合費を徴収しに来たんだ」

 鍋屋は納得した様子で、無言のまま何度かうなずいた。

「それと、天照のために角煮を作ってくれないか」

 鍋屋はここで初めて暁の存在に気づいたのか、目を丸くして暁を見つめた。数秒後、彼はちょいと暁に会釈した。

 ……ひと言も発しない。どうやら非常に寡黙な男らしい。

「今晩また来るから、用意してもらえるか?」

 鍋屋は首を横に振った。

「じゃあ明日だ」

 鍋屋は頷いた。

「下ごしらえに時間かかんねんなぁ? あれ」

 鍋屋は頷いた。

 それから彼はどこからか紙幣を取り出し、カウンターに置いた。暁はここで初めてこの国の金をちゃんと見ることができた。これがいくらで、どれくらいの価値があるのかはわからないが――日本の紙幣と大きさも雰囲気もほとんど変わらない。

 美しい九尾の狐と鳥居が朱色と灰色のインクで印刷されており、透かしも入っていた。もう片面は、まるで御札のようだった。字とも模様ともつかないものが描かれている。

 カウンターに置かれた紙幣は3枚だった。飴屋は厳密に枚数を確認することもなく、礼を言ってから袖の中に入れた。

 鍋屋は暁を一瞥すると、無言で顎をしゃくった。

「座れとさ。お近付きのしるしに、何かご馳走してくれるらしいぞ」

 飴屋が苦笑いして通訳してくれた。彼がそのままカウンターの席に座ったので、暁は鍋屋の正面の席に座った。

 メニューの類は見当たらない。壁にも貼り紙ひとつなかった。あったとしても暁には読めなかっただろうが、どんな料理を出しているのか、暁は少し気になった。

 鍋屋は一度も口を開かず、暁を見ることもなく、ちゃっちゃと手際よく調理を進めた。途中で、何を作っているかは暁にもわかった。

 じゅわっという音、漂ってくる匂い。そしてあっという間に完成する手軽さ。

 席についてからものの数分で暁の前に差し出されたのは、ふわふわのだし巻き卵だった。

「わぁ。いいの、食べても」

 鍋屋は目も合わさずにうなずき、割り箸を差し出してきた。

「おい、おれたちには?」

 卵焼きは3人がつついても充分な量だったが、鍋屋が箸を渡したのは暁だけ。飴屋が抗議すると、鍋屋は小さく舌打ちして飴屋を睨み、箸を2膳カウンターに放り投げた。

「なんやその態度もー」

「まあまあ。主役は暁なんだ」

「…………あきら?」

 鍋屋が初めて口を開いた。ぼそりとしたたったひと言。暁はだし巻き卵をつかむ手を止めた。

「男みたいな名前でしょ」

 鍋屋は迷ったようだが、結局頷いた。正直な男だ。

「火野坂暁。よろしく」

 鍋屋は暁の目を見て頷いた。

 暁はようやくだし巻き卵にありついた。

「……!」

 月並みな表現であることはわかっていたが、「こんなにおいしいだし巻き卵を食べたのは初めて」だった。ふわふわしていて、噛むと出汁があふれ出してくる。味つけはほんの少し濃いめで、ご飯がほしくなる。大人なら、「酒が進む」と言うだろう。暁が初めて知る風味が感じられた。この国にしかない香辛料でも入っているのだろうか。

 卵は黄身と白身が完全に混ざり合っていて、あざやかな黄色一色だった。

 これなら、切らずに棒状のまま出されても、3、4本は平らげられる。

「おいしい!」

「せやろ!」

「なんでおまえさんが自慢げなんだ」

「ほんとにおいしい。鍋しか売らないのはもったいないよ」

 暁がまっすぐ鍋屋を見てそう言うと、鍋屋は目を一瞬見開き、わずかに唇も開いた。しかし彼は何も言わず、暁から目をそらしてしまった。

「なーに赤くなってんのやおっさん」

「おまえさんだっておっさんじゃないか。いや自動車としてはじいさんなんだろう? ――よかったなあ、小料理屋」

「鍋屋」

 鍋屋は耳まで赤くなったままぼそりと訂正した。そこはどうしても譲れないようだ。

 飴屋とクーパーはだし巻き卵をひと切れずつ食べ、残りは暁に譲ってくれた。だし巻き卵がすべて暁の胃に収まるまで、5分とかからなかった。

「じゃあ、明日また来るからな」

 鍋屋は無言で暁たちを見送った。

 暁は今から鍋屋の角煮が楽しみで仕方なくなっていた。

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