第弐話

弐ノ壱


 すべて夢であればよかったのだが、暁が目覚めたのは自宅の寝室ではなかった。

 見知らぬ和室の中、知らない匂いのする布団の中だった。

 外は暗い。夜であるらしい。丸一日寝ていたのだろうか。暁は身体を起こした。枕元に、薄汚れた赤いボストンバッグと黒いリュックがあった。そして……、暫も。

 父方の実家を思い出す部屋。畳は清潔で、障子に張られた紙も白い。少し甘い匂いが漂っている。遠くから雑踏が聞こえる。町の真ん中であるらしい。

 ぼうっとしていると、足音と気配が近づいてきた。

 障子が開く。

「起きたか」

 知らない男だ。暁の身体と顔はほんの少し強張った。

 かなり上背がある。柿茶色の着流しに、緋色の半纏という和装だ。そして、盆を手にしていた。盆のうえの器からは、湯気が立ちのぼっている。男は静かに暁のかたわらに座った。

 盆を置くと、彼は行灯を引き寄せ、火をつけた。部屋の中は奇妙なくらいに明るくなった。蛍光灯の明かりをつけたのと同じくらいに。

 男の年の頃は30代なかば。少し癖のある髪はやや長く、もう少しで両目を覆い隠しそうだ。その双眸に見つめられたとき、暁ははっとした。

 男の左目は金色で、右目は飴色をしている。オッドアイだ――。

「腹が減っているだろう。まあ食え」

「……あなたは?」

「〈良い飴屋〉」

「……それが名前?」

「そういうことになっている。『飴屋』でかまわん。おまえさんは?」

「火野坂暁」

「あきら。そうかい、あきらか。いい名前だ。天照にぴったりじゃないか」

 良い飴屋は笑った。彼の口は大きめで、笑みを浮かべるともっと大きくなった。声は耳に快い低音だ。

 彼はあらためて、食事を暁にすすめてきた。器に盛られているのは粥だった。卵でとじられ、小口葱が散らされている。質素な料理だが、暁ののどはごくりと鳴った。どれくらいのあいだ自分がものを食べていないのか、もうわからない。空腹は耐えがたいものになっていた。

「……いただきます」

「おう。ゆっくり食えよ。がっつくと、はらわたが驚くぞ。――ああ、舌も」

「あっっついっ」

「遅かったか」

 粥は作りたてだったようで、暁は見事に舌を火傷した。飴屋はちょっと愉快そうに笑い、暁はかあっと頬が熱くなるのを感じた。

 ふたくちめは、これでもかというくらいにふうふう吹いて、慎重に口の中に運んだ。

 ふわりとやさしく広がる味。卵と米の風味。小口葱のアクセント。

 粥には小さなガラスのコップも添えられていた。中に入っている水は、冷たすぎず生温かくもなく、これまたやさしくまろやかだった。

 熱かったので慎重に食べたが、あまり量はなかったので、すぐに食べ終えてしまった。10杯くらいは食べられそうな気がする。それでも、だいぶ胃袋が落ち着いてくれた。

「町でいちばんクーパーに、おまえさんを急いで迎えに行ってもらったんだが、微妙に間に合わなかったようだな。残念だった」

「そんな。間に合ったよ」

「いや。間に合わなかったのさ。おまえさん、りんご飴を食ったんだろう?」

「それは……」

 あれを、「食べた」と言えるのならば。ほんのちょっと舐めただけだ。へんな味がしたから、それ以上味わう気にもならなかった。

「暁。よく聞け」

 飴屋の顔から、いつの間にか笑みが消えていた。

「おまえさんはもう、には戻れない」

「え」

のものを食った。その瞬間から、ここに迷い込んだいきものはこの世のものになってしまう。おまえさんは、〈常夜ノ国〉から、出られなくなった」

「……え……」

 冗談を言っているようには見えなかった。

 暁は唇が渇くのも忘れて、半分口を開けたまま、飴屋の顔を凝視するしかなかった。

 もう戻れない。東京にも。家にも。家族のもとにも。高校にも。わりと平凡な暮らしにも。スポーツに明け暮れていた日々にも。

 それは、火野坂暁が『死んだ』のと、何も変わらないのではないか。

 飴屋は暁がいた世界を「あの世」と呼んだ。それは、よく考えると、打ちのめされるような常識の反転だった。ここは、かつての暁にとっての「あの世」だった世界なのか。

 そんな馬鹿な話があってたまるか。

 ……でも。

 駅に戻ろうとしたとき、暁の行く手を阻んだのは底知れぬ深淵だった。あの崖を思い出すと、どういうわけか……本当に、自分がもとの世界から切り離されてしまったような気分になってくる。

 呆然とする暁に、飴屋はゆっくりと話した。

「できるだけ、の話になるが。おれたちは、あの世から人間が迷い込んできたら、とりあえず急いでかくまうことにしている。そして、飲まず食わずでこらえてもらいながら、選ばせるんだ。その人間に、ここで暮らすか、あの世に戻るかをな。たいていは戻りたがる。そういうときは、車掌に頼んで、あの世に運んでもらうのさ」

「車掌……。そう、わたし、電車に乗ってて……」

「ひどく心が参っていたり、あの世に絶望していたりすると、ここのお狐様が目をつける。今居る世を捨てるつもりなら、この世に来てもらってもいいよなという理屈さ」

「!」

「車掌は、お狐様が目をつけた人間を連れてくる。それがあいつの仕事だ。たいていの人間は戻りたがる――たいていの絶望は、いっときのものにすぎないから。そういうものだろう? 誰でもたまには落ち込むものさ」

「…………」

「だが、お狐様には、そんなことは関係ない。そこまで深くみえないし、わからない。おれたちとも、人間とも、考えかたの根っこがちがうんだ。おれたちはそれを知っているから、帰りたい人間は帰らせてやる。お狐様も『間違えちまった』と思うのか、大目にみてくれる。でも……、中には本当にあの世に嫌気がさしていて、こっちを永住の地に選ぶやつもいるんだ。おれたちはどっちでもかまわない。ここに住むなら歓迎もする。そういうときは、最初の食事を、それは豪勢にふるまってやるのさ」

 飴屋はそうして、何人も〈常夜ノ国〉に迎え入れたことがあるにちがいなかった。目を細め、なつかしそうに、最後のくだりを語った。

「でも、おまえさんは、〈天照〉だ」

「…………。その、天照、って。何度も聞いたけど……なんなの?」

「おんなだ」

「え?」

「若く、まばゆく、常夜を照らす、光のむすめ」

 飴屋は詠うように、低い声で語る。

「おれも含め、ヒガシ町の連中は、天照を護りたいと思っている。そしてニシ町の連中は、天照を喰いたいと思っているんだ」

 暁は隻眼を大きく開いた。

 そうだ。

 ニシ町の住人と思しき狂人どもの中には、暁を見て「うまそう」と言った者がいた。クーパーも、「喰われるぞ」と怒鳴った。

 ただ殺そうとしていたのではなかった。彼らなりの理由があって襲ってきたのだ。

 暁を、喰うために。

「選択の余地もなくここに留まることになっちまったおまえさんには同情する。おまえさんがここでのまでは、おれが世話をしようと思う。ここはヒガシ町だ――おまえさんを歓迎するやつばかりだが、ひとり歩きは控えたほうがいいんだ。ちょいと、わけありでな。もちろん、おまえさんがよければだが」

「それは……」

 暁は言葉に詰まった。

 考えるべきことが多すぎて、頭の中がすっかり混乱している。そんな暁を見て、飴屋はやんわりと笑みを大きくした。

「時間はたっぷりある。ゆっくり考えな」

 低くやさしい声に、暁がうなずきかけたときだった。

 ラッパの音。いや、車のホーンだ。

「ぅおーい、おはようさーん! 飴屋ー! おるかー!?」

 それから、聞き覚えのある声。飴屋は声が飛んできた方向に顔を向けると、苦笑いした。

「まったくあいつは、毎日毎日。よっぽどおまえさんが気に入ったとみえるぜ」

「毎日? ……わたし、もしかして何日も寝てた?」

「ああ。2日間、ぐっすりさ。――まあ、ちょうどよかった。今日はあいつに渡すものがあるからなあ」

 飴屋はちょっとだけ面倒くさそうに膝を立てた。

「おまえさん、立てるかい」

 そして、暁に手を差し伸べてきた。暁はその手を取るべきか迷ったが、ゆっくりと自力で立ち上がった。寝すぎたせいか少し頭が痛い。着ているものは制服のままだった。

 飴屋に続き、暁は廊下を歩く。飴屋はかなり姿勢が良かった。そして動作のひとつひとつがしゃんとしていて、粋だった。歌舞伎や狂言を生業としているかのように。

 進むごとに、甘い匂いが強くなっていく。そして飴屋が廊下の突き当たりの引き戸を開けた瞬間、暁は目を見張った。

 橙色の温かな光が満ちる、そこはまさしく『飴屋』であった。

 駄菓子屋に並んでいるような猫瓶がずらりと並ぶ一角がある。瓶の中には色とりどりの飴が詰まっていた。それと同じくらいに目を惹くのは、大小さまざまな飴細工が並ぶ一角だ。

 狐、狐、狐。狐が多いが、猫もいる。鯉と金魚に、犬に、鳥。鳳凰、龍、麒麟。飴でできたいきものたちが、棒のうえに乗っている。どれもかわいらしく、あるいは勇壮であり、今にも動き出しそうなほどに生き生きとしていた。これが本当に食べられるのかと思うほど。

 店の隅には二畳ほどの作業場があり、銀色の丸いタライが置かれていた。そばには、いくつかの和鋏がある。あれで、まだ熱いうちに飴を切るのだ。暁もテレビで見たことがあった。

 その作業場の後ろの壁には、白い狐面が掛かっていた。

 目のまわりの隈取りは、左目が金色、右目が飴色。飴屋のオッドアイを髣髴とさせる意匠だ。

「おお! おはようさん」

 店の入り口には、関西弁の小柄な紳士が立っていた。暁と目が合うと、彼は帽子を取って笑顔で挨拶してきた。誰もがつられて笑ってしまいそうな明るい笑顔だ。しかし、暁は笑うのが苦手で、頬がかすかに引きつりかけただけだった。

 ぺこり、とお辞儀する。その視界に、ぬっとたこ焼きが割り込んできた。

「食うか?」

「……なんでたこ焼き」

「えっ、たこ焼きうまいやろ!?」

「いや、おいしいけど、でも、なんで」

「食わんなら俺食うぞ」

 たこ焼きはさっと引っ込んだ。クーパーはむっとした顔で、たこ焼きをひとつ口の中に放り込んだ。湯気が上がっているのでできたて熱々とみえる。……が、クーパーは暑がりもせず平然としていた。

 暁が目をぱちくりしているあいだに、たこ焼きは2個3個とどんどん消えていく。

 飴屋は作業場でごそごそと何かを探していたが、顔を上げて間延びした声を上げた。

「あー。たこ焼きなあ。そいつの大好物なんだよ。四六時中ガソリンといっしょに食ってる」

「ガソリン!?」

「そら車やもん俺。ハイオク満タンにしてきたでー」

 車がたこ焼きを食べていること、紳士風の男がガソリンを飲むこと、そもそもなぜこいつは関西弁なのか、もはやどこからツッコミを入れるべきかわからない。

 たこ焼きはパックに全部で8個入っていた。それが4個になったところで、暁はクーパーに問答無用で押しつけられた。

「食えよ、腹減っとるやろ」

 声も笑顔も、ひどく優しかった。

 急に恥ずかしくなって、暁はクーパーの顔から目をそらす。

「……はい。ありがとうございます」

「けーごなんかいらんて。なあ飴屋」

「そうだなパーやん」

「パーやんゆーな。権利関係ややこしなるやろ。……なんやコレ」

 飴屋は作業場から木箱を持ってきて、クーパーに差し出していた。箱は黒檀でできているようだった。

「きのう鍵屋とお狐様に挨拶に行った。そのとき、おまえさんにこれをと」

「おきつねさんが?」

「ああ」

 クーパーは箱を受け取って蓋を開けた。

 暁も、クーパーも、息を呑んだ。

 中には銀色のリボルバーが入っていた。見てはいけないものを見たといったふうで、クーパーはすばやく蓋を閉めた。

「なんやコレ。なんやコレ!」

「大事なことだから合計3回言ったのか?」

「なんやコレて聞いとんねん!」

「うん、鉄砲というやつだよな、それは。ここいらでは珍しい武器だ」

「Colt Detective Specialやぞコレ!」

「うん?」

「コルト! ディテクティヴ! スペシャルや! アホウ! なんでおきつねさんが俺にリボルバー渡しよんねん!?」

「天照を無事に町に送り届けた褒美じゃないのか? いや、それで天照を護れということかもなあ」

 クーパーが言葉に詰まった。いくら大声を出されても、飴屋の態度は変わらなかった。飄々としたまま。あるいは、面白がっているかもしれない。

「クーパー、おまえさん、鉄砲は得意かい」

「……得意なわけないやろ。俺車やぞ……」

「でも、『名前』が思い浮かんだだろう?」

「…………」

 クーパーは口をへの字に曲げたあと、蓋をそっと開け、消え入りそうな声でささやいた。

「〈クラブマン〉」

 ぎらり、と箱の中で銃が一瞬かがやいた。そのかがやきを、暁は知っている。刀に暫と名づけたあの瞬間から、この光は暁のそばにあるのだ。店内を強く照らした光を見て、飴屋はほんのわずかに目を細めた。しかしクーパーはいっときも目をそらさず、食い入るように、少し忌々しそうに、銀色のリボルバーを見つめていた。

 クーパーは箱から銃を取り出した。暁も、テレビで見たことがあるような気がした。小ぶりな銃だが、クーパーの体格にはぴったりだ。

 やけに怖い顔で、クーパーは箱を飴屋に放り投げる。飴屋はうっすらと笑い、なんでもないことのように箱を受け止めた。

「飴屋、お前。なにが褒美や」

「うん?」

 飴屋は相槌も打たず、あるかなしかの笑みを浮かべて、クーパーを見つめ返していた。

「ようわかった。俺に責任取れちゅうことやな。俺は……間に合わへんかった」

 暁ははっとして、クーパーの横顔を見た。

『町でいちばんクーパーに、おまえさんを急いで迎えに行ってもらったんだが、微妙に間に合わなかったようだな。残念だった』

『そんな。間に合ったよ』

『いや。間に合わなかったのさ』

 飴屋とのやり取りを思い出す。

 飴屋は――そうは見えないが――クーパーを糾弾しているというのか。不可思議な誘惑に駆られたとはいえ、りんご飴を食べてしまったのは暁の『責任』だ。暁が自分で自分の尻ぬぐいをするならともかく、なぜ、クーパーが『責任』を問われねばならないのか。

 暁が何か言おうとしたとき、飴屋がくすりと苦笑いした。

「そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃないか」

「真面目な顔にもなるわ」

「おまえさんらしくないぜ。おまえさんにこにこしてたほうがええ男やぞ。……ほら、暁だって呆気に取られてるじゃないか」

「…………」

 クーパーはちらと暁を見ると、ため息をついて、銃を懐にしまった。

「そうそう、ちょうどいいから説明しておこう。お狐様からもらったものに名前をつけると、どんなところに置き忘れても、ようになる。便利だぞ」

「え。じゃあ、わたしの刀も?」

「ああ。ちょうどいい、呼んでみろ」

 まるで漫画の武器だ。なんだかちょっと恥ずかしい。

 暫は枕元に置きっぱなしのはずだ。飴屋とクーパーに見つめられながら、暁は唇を舐めた。

「〈暫〉」

 あまり大きな声は出さなかった。漫画でもあるまいし。

 しかし。

 暁の右側で光が弾けた。突然のことに目を閉じた次の瞬間、右手にずっしりと重みを感じる。目を開けると、自分の右手は暫の鞘をつかんでいた。

「――シバラク、か。洒落じゃあないが、しばらく歌舞伎を観てないなあ」

 飴屋は感慨深げに呟いた。

「暁。おまえさんには話さなけりゃならないことがまだまだたくさんある。おまえさんも、聞きたいだろう?」

「……はい。お願いします」

「敬語なんかよしな」

 クーパーと同じことを言って、飴屋は笑った。

「だが、その話はこれからいつでもできる。今はひとつ頼まれてくれ」

「なにをすればいいの?」

「〈良い鍵屋〉のところに行って、顔を見せてやってほしい。おまえさんが寝ているあいだ、ずっと心配していたんだ……クーパーと同じくらいな」

「良い鍵屋……」

「クーパー、送っていってやってくれ」

「なんや、お前は行かへんのか」

「ああ。ちょいと用事がある」

「わかった。――ほな、暁。行こか」

 クーパーはくるりと飴屋に背を向けた。なんだか、ちょっと、飴屋に怒っているような雰囲気を感じる。クーパーにならって店の出入り口のほうを見た暁は、びっくりした。

 人人人。

 男たちが何人も、ガラス戸の向こうから、飴屋の店舗の中を覗き込んでいたのだ。その目つきに悪意や敵意はなかった。興味津々といった様子だ。

 暁やクーパーと目が合ったとたん、彼らは全員「あっ」という顔をして、蜘蛛の子を散らすように姿を消した。

「なんやもーあいつら、ガキか!」

「仕方ないだろう、久しぶりの天照なんだ。3年……いや、4年ぶりか。まあ、悪気はないんだから、勘弁してやってくれ」

 やわらかな笑顔の飴屋に見送られ、暁はクーパーとともに店の外に出た。

 外は、夜だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

一部のAndroid端末では
フォント設定が反映されません。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

アカウントをお持ちの方はログイン

フォロー機能を活用しよう

カクヨムに登録して、気になる小説の更新を逃さずチェック!

アカウントをお持ちの方はログイン

フォロー機能を活用しよう

カクヨムに登録して、お気に入り作者の活動を追いかけよう!