月ノ噺

語り部知らず【完】


 夜の草むらの中を、男がひとり、ためらいがちな足取りで歩いていた。しょっちゅう足を止めては、あたりを見回している。ここがいったいどこなのか、自分はどうして歩いているのか、何もわからないといった様子だった。

 真っ青な手袋をはめた手には、白い狐面。狐面の額には、謎めいた深緑色の文字の羅列が彫り込まれている。そして右目のまわりには蒼い隈取りが、左目のまわりには金色の隈取りが描かれていた。

 男はそれを大事そうに抱えて、ふらふら歩いているのだった。

 彼はまた足を止めた。

 すらりとした長躯にスリーピースを着て、山高帽をかぶった壮年の男。服も帽子も漆黒だが、帽子のリボンは赤く、スーツの襟にも赤いラインが入っている。男の右目は蒼、左目は金色。猫のオッドアイを髣髴とさせる双眸だった。髪は銀色の癖毛で、鼻が高く、肌は白い。顔立ちは俳優のように整っている。

 少し奇妙なのは、新品同様の洒落た山高帽に『In this Style 106 kon』と記されたタグがハットピンで留められているところだった。ひょっとしたら、彼は、〈帽子屋〉なのだろうか?

 そんな男の前に、赤い提灯が並ぶ街並みが現れていた。

 甘く香ばしい香りが風に乗っている。通りには、活気があふれているようだ。

 男は目をしばたたき、呆然と独りごちる。

「……なんでやろ。俺、この町知っとるわ」

 見た目は紳士風の白人なのに、彼の言葉には、どこかの地方の強い訛りがあった。

「ヒガシ町や――」

 そして彼は、微笑んだ。

 どうしてそこで笑いたくなったのか、胸にひろがる想いがなんなのか、はっきりとはわからない――そんな戸惑いを擁した、曖昧な微笑み。

 彼のうえ、町のうえには、満月が光る。

 ぞくりとするほど、美しい満月。

 男を見下ろすのは、月ばかりではない。

 月のした、小山のうえには、大きな大きな白い狐。9本もの尾を後光のように揺らす、オッドアイの美しい狐。かれは月といっしょに、町と男を静かに見守っていた。


(〈良い帽子屋〉)


「!」

 急に名前を呼ばれたかのように、山高帽の男は振り向く。

 小山のいただきに、彼は白い光を見ただろう。


(歓迎するぞ)


 白い狐は山からひと跳びしたかと思うと、消えた。

〈良い帽子屋〉は、猫のようにゆっくりとまばたきし、また、なぜ笑うのかわからないままに微笑んだ。



 綺麗なきれいな満月のよる、

 彼は常夜ノ国のヒガシ町にもどってきた。





〈了〉

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