拾死ノ弐


 時計が落ちていた。白いベルトにブリティッシュ・レーシング・グリーンのステッチ。クーパーが左手首にはめていたもの。人形屋はそれを踏み潰してしまった。

 その瞬間、

 一秒にも満たない刹那、世界が暗転した――ような気がしないでもない。

 それは飴屋が和鋏を閉じたときよりも短い暗転で、気のせいとしか思えない、ささいな出来事だった。

 が。

「……え!?」

 少年が心底驚愕した様子で、大声を上げた。

「!?」

 人形屋もたまげた。というより、わけがわからない、と言うべきか。

 およそ神とも思えない狂気じみたすがたは、いつのまにかのだ。

 いつのまにか?

 いや、あの刹那だろう。

 あの、一秒にも満たない瞬間に、何かがどうにかなったのだ。もしくは、だれかが何かをどうにかしたのかもしれない。残されたのがこの結果だ。

〈ドオーム=レヴ〉は消滅した。

 そして人形屋の〈俤〉も、いつのまにかひどく毀れて、暁のすぐそばに倒れ伏している。髪が――霧衣の髪が、ほとんどなくなってしまっている。人形屋は息も心臓も止まりそうになった。

 霧衣、というささやきが人形屋の口からこぼれそうになった、そのとき。

 ヒステリックな大声が上がった。

「なんで!? な、何が起きたんだ!? 嘘だろ、なんでッ!?」

 少年の叫び声には――絶望が混じっていた。驚きよりも深いところに、虚ろな絶望があった。

 空には見慣れた常夜が広がり、欠けた月が昇っていて、無数の星がまたたいている。涼しげな風がそよぎ、赤いススキを揺らす。奇妙な匂いはまったく感じられず、静かな草いきれだけが鼻腔をくすぐる。

 雨のように降り注いでいた、気味の悪い腕の塊も、ひとつも見当たらなかった。

 ただ……、何もかもなかったことになったわけではないようだ。

 すぐそばには、黒焦げのミニ・クーパーとスカイラインの残骸。

 地響きがしたかと思えば、人形屋の背後で八尾のシロギツネとクロギツネが同時に倒れた。

「……飴屋!」

 クロギツネは悶え苦しんでいる。生きながら毛と肉が焼かれる、ものすごい匂い。シロギツネの緋の火が、その身体にまとわりついているのだった。しばらくクロギツネは転げ回っていたが、二度と立ち上がることはなかった。

 シロギツネも同様だ。喉元を大きく抉られている。ごっそりと肉や血管を喰いちぎられていた。出血の勢いは弱い。血はほとんど出尽くしてしまったのだろう。自分ごとクロギツネを灼いたために、身体の白い毛並みは大部分が赤黒く焼け爛れていた。

 金色と飴色のオッドアイは人形屋や暁や少年をぼんやりと見つめた。どこに焦点を定めているのかわからない。でも、邪な神が消え失せたことは把握できたようだ。ゆっくりと目を閉じるさまは、満足げにも、安堵したようにも見えた。そして何より、眠たげだった。

 シロギツネの八尾はふぁさりと地面に落ち、ぴくりとも動かなくなった。

 人形屋は――束の間色を失った。いろいろなことが同時に起こりすぎだ。暁を護りたいし、〈俤〉にすがりつきたいし、少年を注視しなければならないし、神が突然いなくなったことはわけがわからないし、今は飴屋に駆け寄りたい気持ちまで生じた。

 そのときだ、少年の叫び声が、戸惑いから怒りや憎悪のものに変わったのは。

「クソがあああ! どこだ! どこだよ!? ぶっ殺してやる、天照ッ!!」

 また人形屋にとってわけのわからない事態になった。

 暁はすぐそこでへたり込んでいるのに、少年はその姿がまるで見えていない様子なのだ。口汚く罵りながら赤い本を振り回し、虚空に殴りかかっている。

 そう言えば、と人形屋は思い出した。

 飴屋がいつか、相手が子供だとわかったから対策はできた、と言っていた。具体的に何の要因によってのものなのか人形屋は知らないが、恐らく飴屋が手を回した結果、『子供』の少年には暁が見えなくなったのだろう。

 今暁に駆け寄ってはまずい。

 少年はめくらめっぽうに本や腕を振り回しているだけだが、いつ暁に本の角がぶつかるかわからない。

 人形屋の心に、炎が宿る。

 天照を護れ、と。

「おい!!」

 人形屋はするどく少年に呼びかけた。

 少年が振り返る。肩で息をしていた。赤い狐面越しでも、睨まれたのがわかる。何か言われる前に、人形屋は得意の皮肉を投げつけた。

「残念だったな。神とやらは貴様を見放したようだ」

「うるさいなッ!! それが息子に対する口の利き方かよ!!」

「どうして倅が父親に対してそんなにでかい態度を取れるんだ?」

「おまえの……! おまえのせいだって言っただろ!? おまえがキリエを護れなかったから、キリエとおれは!!」

「――母親を呼び捨てにするな。何様のつもりだ」

 声を落として凄めば、少年がわずかに怯んだように見えた。

 人形屋は、ついと人差し指を動かす。

 毀れてしまった〈俤〉は、人形屋が思ったようには動かなかった。が、腕だけはなんとか動き、人形屋の足下に向かって刀をひと振り投擲した。

 地面に突き立った刀を、人形屋は引き抜く。

「貴様が己の倅だというのなら……、己は親として責任を持たねばならんな」

「殺す気かよ?」

「ああ。大それた事をしてくれた」

「おまえが死ねばいいだろ!? 父親として責任を取るならさあ! そうするのが普通だろッ!」

「騒がしい。死ぬのが嫌なら、その本で神でも何でも喚び出してみたらどうだ。それに、得意の鋏はどうした?」

 少年が、ぶるぶる震えるほどに手に力を込める。

 そして、赤い本を地面に叩きつけた。

「鋏、鋏は、捨てた。あんなもの、ほんとは使いたくなかったんだ。反吐が出る……ッ」

 人形屋は、クーパーの目と胸に鋏が刺さったままだったのを思い出した。

 少年は、あれっきりだと思ったのだ。勝負はつくと確信し、「強力だから仕方なく使っていた」鋏を手放したのだ。人形屋は持ってこようと思ったのだが、彼には使えなかった。飴屋が鋏屋の武器を使えていたのは、単に『力』が桁違いに強かったからだ。8本もの尾を持つ狐の子だったから。

「使いたくないものを使ってまでやり遂げようとしたか。見上げた覚悟だ。――その本はいったいなんだ? 貴様の武器ではないのか?」

「これは古本屋で見つけただけだ。おれの3人目の育ての親の家で」

「……3人目?」

「そうだよ。最初の親は胴元。すぐ飽きられて〈悪い鋏屋〉に丸投げされた。父親なんてとても呼べないクソ野郎だ。飴屋が殺してくれなくても、おれが殺しただろうな」

〈悪い鋏屋〉は強敵だった。ニシ町組合の副組合長は伊達ではなかった。やっと倒したのが数年前。残虐な戦い方をする男だったが、私生活でもろくな男ではなかったのだろう。

 鋏屋が戦死したことで、少年の育ての親は〈悪い古本屋〉に変わったということか。

 キリエが産んだ子を放置もせずに、悪い狐の子たちがなぜ育てたのか――。

 人形屋の疑問には、少年がすぐに答えてくれた。

「さ、さんざん、おもちゃにされた。女がいないから。あいつらべつに男だって関係なかったんだ。女みたいに細くて、若くて、突っ込める穴があったら……」

「…………」

「ぷっ、ァはははは。ほぅら、おれってかわいそぉぉぉだろ! 同情する余地があるってやつ? こんだけのことしても許される過去があるってやつ! だはっくっっっだらねぇ! はははは、みんなおれが鋏とか花札使えるって知ったら手のひら返しやがって、『若』だってさ! ばっっっかじゃねぇ!? みぃんな殺してやったざまぁみろ! 世界はぶっ壊せなかったけどおれの勝ちだッ、そうだ――ロッ」

 ぼとん、と少年の右腕が落ちる。

「ふェ、いた

 ばつん、と左腕も落ちる。

「い、っ?」

 人形屋は動いていない。動く必要がなかった。

 少年の後ろには、暁がいる。だらりと手に提げた暫からは、少年の血が滴り落ちている。暁は少年を見下ろしていた。泣き腫らした隻眼にはほとんど何の感情も浮かんでいない。

 ひどく機械的で自動的な凶行は、怒りも憎悪も越えた境地から繰り出されたものだ。

 こうするのが当然であるという、呼吸のような二閃だった。

「天……照? おまえがやってんの? こ、れ……」

 暁は無言で刀を振り上げた。

 人形屋は止めなかった。暁がいくら少年を斬りつけても何も言わなかった。血が顔まで飛び散ってきても拭わなかったし、刀を手にしたまま動かなかった。少年がくずおれ、人形屋の金色の視線が下がる。

 仰向けに倒れた少年は、まだ生きていた。浅く斬り刻まれた身体はびくびく痙攣している。ほうっておいても長くはもたないだろう。

 しかし暁はそれでもやめなかった。

 黒焦げのミニ・クーパーの骸に近づくと、おもむろにワイパーに手を伸ばした。いつ外れてもおかしくない、ただぶら下がっているだけの状態になっていたワイパーをつかむ。ぱきんと、簡単に外れた。

 暁はそれを手に、少年のもとに戻る。見下ろす。膝をつく。

 赤い狐面を外した。

 その下の貌は、どの男のものでもなかった。人形屋に似ていて、胴元に似ていて、誰かに似ている。口からげぶげぶと血があふれている。真っ赤な瞳は泳いでいた。暁の姿を探しているのか――。

 暁はその左目に、ミニ・クーパーのワイパーを突き刺した。

 声変わりしたばかりの少年の、凄まじい悲鳴が上がった。

 ワイパーを突き刺した衝撃のためか――暁の制服の襟の下から、ぽとりと、白いものが落ちる。

 蟲だった。

 不可思議なお守り、〈とうもろこし畑の通行証〉の中に入っていた白い蟲。暁も、胴元も、ハコスカも知らないうちに、蟲は1匹だけ暁の服の中に逃げ込んでいたのだ。

 その瞬間、少年の片目に、突然暁の姿が入ったにちがいない。

 怒りも憎悪も通り越した、能面のように無表情な暁。血まみれで、髪も乱れ、たったひとつの目を泣き腫らした暁。ひと言も喋らず、ワイパーをズブズブグリグリと眼窩にねじ込み続ける暁。

 少年は悲鳴を上げた。

 恐怖の悲鳴だった。

 足をばたばたさせていたが、それは抵抗ではなく、ただ痛みと恐怖でもがいているだけだった。しまいには失禁した。暁は少年に馬乗りになっていた。両腕がなく、体格も華奢な少年が、彼女を振り落とせるはずもない。暁は無表情のまま、渾身の力でワイパーをねじ込んでいく。

 少年の悲鳴が止まった。

 ワイパーが脳に達したのだろう。両足の痙攣はすぐ収まり、彼はただの死体になった。

 暁はそれからも、しばらく少年にまたがったまま動かなかった。冷たくなるまで待っているかのように。

「…………」

 人形屋はようやく動いた。刀を捨て、静かに暁に近づく。そっと手を差し伸べる。暁はゆっくりと人形屋を見上げた。ほんの少し……ほんのちょっとだけ、その顔に表情が宿る。

 呆然とした表情が。

 暁は何か言おうとしたが、それよりも先に、まわりの様子がどんなものかようやく気づいたようだった。すぐそばには毀れた〈俤〉が転がっている。

 人形屋はその視線を追う。

 暁はのろのろ〈俤〉に近づく。

〈俤〉は角度のいたずらか、わずかに微笑んでいるように見えた。暁は人形屋を見上げた。人形屋はゆるりとかぶりを振っただけ。

 暁は次に、白い小山のような、もはや動かない白い化け狐に目をやった。細い息をつき、肩を落とす。うなだれる。

 人形屋はそっと、暁の傷ついていないほうの肩に手を置いた。

 暁はやがてその手につかまり、立ち上がった。

 まわりでは、虫たちがしんしんと鳴き始めていた。

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