第拾死話

拾死ノ壱


 空は大きく引き裂かれた。

 幕を裂くような音は、世界中に響きわたった。

 裂け目の奥には蠢く黒い闇のようなものがある。そこから、が、伸びてきた。長い長い腕が、無数の腕が。どれも夜より深い黒色だ。指は7本ある。腕は空の裂け目のへりをつかみ、ぐいぐいと広げていった。

 そして、貌を隠した絶望は顕れた。

 どんな輪郭の身体であるのかわからない。どれほど大きいのかさえわからない。空のすべてが神であった。身体じゅうを腕が囲んでいる。それはまるで黒いぼろを身にまとっているようでもある。頭はぼろぼろの布をかぶっていた。布は赤から青へと色がグラデーションしている。風もないのに布が揺れるさまは、オーロラのよう。

 腕はありとあらゆる方向を指し示しながら、ありとあらゆる方向に回転していた。絵に描かれる太陽を模しているかのごとく。

 指し示す者、光を呑み込む者、外空ゲクウより誘われし者、蠢く無貌の闇。いずれの名もかれにふさわしく、またかれのすべてを言い表すには足りていない。

 それこそは、呪われし禁書『赤死せきしの地』に記述がある、〈ドオーム=レヴ〉であった。

 傷だらけの白狐が空を見上げた。そして、驚きのあまり固まった。白狐に組みつかんとしていた黒狐も異変を感じたか、空を見る。白狐とは対称的に、かれは、ただでさえ大きく裂けた口をにたりと歪めた。

 先に動いたのは黒狐だった。その凶悪なあぎとが、ガツリと白狐の喉笛に喰らいつく。血が雨のようにススキに降り注ぐ。赤いススキが赤く染まっていく。

 赤い狐面の少年は、巨大な狐たちの戦いに目もくれず、空を仰いで乾いた笑いを漏らしていた。

「やった。来た。マジで来た」

 少年はニシ町を出ていた。潰れたミニ・クーパーが宙を舞うのを見て、大急ぎで落下地点に向かった。大きく分厚い魔道書はやたらと重く、少年はひどく骨を折った。しかしミニ・クーパーが爆発してのを遠巻きに見物でき、暁の凄まじい悲鳴も聞けて、すっかり報われた気分だった。

 ……が。

 少年はあたりを見回し、舌打ちする。

「くそ、どこだ? 声は聞こえるのに」

 少年には相変わらず暁の姿が見えなかった。

 神は布をかぶった貌をめぐらせ、『太陽』を探している。祭司である少年がそれを指し示す必要があった。

 暁はクーパーのそばに行ったのか? だとしても、付喪神のかりそめの肉体は本体が死ぬと同時に消滅してしまうものなので、今は目印もない。声だけが頼りだ。

「暁ッ!!」

 と、そこに。

 思いがけず助けが現れた。

 それは暁にとっても、少年にとっても、助けとなりうるタイミングだった。

〈良い人形屋〉だ。息せき切って駆けてくる。彼らしくもなくひどく焦っていて、まわりが見えていない。空や神さえろくに見ていない。彼の金眼は、暁を見ていた。暁だけを見ていた。

「いあ、〈ドオーム=レヴ〉! 太陽は此処に在り!」

 少年は声を張り上げると、人形屋の視線の先を指さした。

 神が、振り向いた。

「〈キリエ〉! 暁を――」

 人形屋が走りながら手を前に伸ばしたとき、ばきっ、とその足下で音がした。

 わずかにつんのめって、思わず人形屋は振り返る。

 時計が落ちていた。白いベルトにブリティッシュ・レーシング・グリーンのステッチ。クーパーが左手首にはめていたもの。人形屋はそれを踏み潰してしまっ





「時計が止まった」









 時が止まった。

 炎さえも凍りついた。

 泣き叫ぶ暁も、振り返った人形屋も、喚びだされた人形〈俤〉も、その体勢のまま。

 八尾の白狐の傷口からしぶく血も空中で静止している。白狐はまさにやぶれかぶれで業火を喚ぼうとしていたらしく、尾のまわりに緋の火が生まれ出でる最中だった。

 ミニ・クーパーから立ちのぼる黒煙も止まっていた。

 黒煙を揺らす風も止まっていた。

 そして、貌を隠した神ドオーム=レヴさえ、その無数の腕を暁に伸ばした瞬間を固定されていた。腕は今にも暁の長い髪をつかもうとしていた。

 音もない。

 圧倒的な静寂の中を、ただひとり、ヒガシ町の時計屋だけが歩いていた。

 いつから現れ、どこを歩いてきたのか。それはドオーム=レヴにさえ認知できなかったのではないか。時計屋は時が凍りつく直前まで、崩壊を続けるヒガシ町の中にいた。しかし、彼がここにと思った瞬間、過去も現在も未来も書き換えられた。時を止めるとは、そういうことだ。止まった時の中で動いた事実は、時が動き出した瞬間に結果に結びつく。

 時計屋は今ここにいる。いつも無気力だったペールグリーンの瞳には、金色の光が浮かび上がっていた。

 貌も見えない神と、時計屋の目が合う。

 すると――がががぎぎぎ、と空間そのものが音を立てた。巨大な歯車が、力づくで回されようとしている。ドオーム=レヴの腕が……ほんの1ミリ動いた。時計屋は眉をひそめた。

「動くか。さすがは神様だ」

 時計屋は、時計を踏み潰して振り返っている最中の人形屋に目をやる。それから、喚ばれて現れた人形〈俤〉を。最後に、暁を見た。

 今まで見たことがないほどに、暁の顔は崩れていた。いつもの仏頂面はなんだったのか。あれは仮面だったのか。こんなにも、彼女は女だ。若い女。哀しみに押し潰されている。

 絶望している。

 時計屋は屈み込むと、暁の頭をくしゃりと撫でた。

 見ている者さえ泣きたくなってしまうような顔だ。時計屋も目をそむけてしまった。

「ごめんな。こうなることは薄々知ってたんだ。でも……教えられるか? こんな未来。結局また軌道を変えられなかった。俺は今デウス・エクス・マキナだ。ご都合主義が実体化しただけの存在だ。俺はどうすればよかったんだ……?」

 ぎぎしっ、と止められた時が軋む。神の指がまたミリ単位で動く。

 時計屋はそっと暁を抱き寄せて、神の手から遠ざける。

 そして、人形屋のほうを振り返った。

「人形屋。お前がこうするつもりだったのなら、かまわないよな?」

 時計屋は、〈俤〉の背を押した。

 のだ。

 愛した許嫁に似せた人形で、彼は暁を救うつもりだった。人形がどうなってしまうか、考える余裕はあっただろうか。時計屋の胸には罪悪感が宿った。このまま時が動けば……。いや、動く前に、この神ならば――。

 がきん、と空間が大きな音を立てた。凍りついた時がひずみ、神は動き出した。

 無数の手は〈俤〉をつかんだ。

〈俤〉の髪をつかんだ。

 時計屋は、ああ、とため息をついて苦笑いを漏らす。

「勘違いしやがって。髪のせいだな。そいつはお前に捧げられた『太陽』じゃないぜ、〈ドオーム=レヴ〉」

 髪には、魂が宿るという。

 神はかつての太陽を模した人形をつかみ、へし折り、破壊し始めた。髪をごっそりと引き抜いて、貌のほうに持っていく。布の下の、恐らくは口に、その髪の束を突っ込んだ。

 すべては、ゆっくりゆっくりと結果を生み出していった。時計屋の頬を汗が伝う。永遠に時を止められるわけではない。そもそも全力で時を止めているのに、神はその事実すら改変している。どんなに邪悪であっても、神は神だ。

 その神は今まさに、代償を受け取った。少なくとも神はそのつもりだ。

 ならば、次に神が起こす奇跡は――。


 あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛。


 神が吐息をつきながら貌を上げた。かぶっているオーロラめいた布が動き、神の口元が見え隠れする。

 あの貌を見てはいけない。

 見たら気が狂う。

 目の当たりにした世界は破滅する。

 神の何十本もの手が、貌を隠す布を剥ぎ取ろうとしていた。ゆっくり、ゆっくりと。時計屋が止める時を力づくで押し動かしながら。

「おい。世界が1個滅びちまうぞ、俺ごと。そろそろ助けに来てくれよ」

 時計屋はうんざりしたように両手を軽く広げた。



 空に響きわたる、アポカリプティック・サウンド。

 空のうえの唸り。世界の向こう側の唸り。

 空が刹那のうちに、金色に染まる。

〈ドオーム=レヴ〉が裂いた傷口も、いやな色合いのマーブリングに染められた空も、すべてが黄金色のスクリーン1枚に差し替えられる。

 黄金の向こう側から、真鍮色の巨大な蜂が、12ダース現れた。

 蜂は金属でできているようだった。複眼はたえず色を変え、翅のうえには幾何学的な模様や文字が浮かんでいる。

〈ドオーム=レヴ〉が硬直した。

 さすがの神も驚いたのだろうか。

 きっと蜂の正体を知っているのだろう。

「お前は派手に暴れすぎた。次元にも警察はいるんだぜ。お前、とっくの昔から指名手配中だよ。残念だったな」

 時計屋は貌のない神を指さした。

「二度と〈過去〉から出てくるな」


 ア゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!


 それは〈ドオーム=レヴ〉の悲鳴だった。

 常夜ノ国は、黄金色に染まる。

 無数の腕を持つ神は、12ダースの神によって、光の中に引きずり込まれた。常夜ノ国に降り注いだ腕の塊――ドオーム=レヴの忌まわしい落とし仔どもも、無風の中、ものすごい勢いで黄金色の向こうへ吸い込まれていく。

 黒い指の最後の一本が光に呑まれるまで、時計屋は見守っていた。神を連行したあとにも蜂は一部が戻ってきて、ヒガシ町の方角へ飛んでいった。そして、もがく黒い人影を捕らえては、黄金色の中に飛び込んでいく。

 トコヤミサアカスの団員の生き残りと思われた。彼らも『有罪』とみなされたのだろう。

 蜂の数匹が空中で静止し、お狐様のお社の小山のほうを見ていた。複眼の光を明滅させ、声を用いない方法でなにやら会話している様子だった。

 はるか昔、ここに流れ着いたシロギツネとクロギツネも、もともとこの世界にとっては異物に等しい。あるべき存在ではない。蜂の姿をした神々はそれを感じ取ったにちがいなかった。

 だが結局、お狐様は無視することにしたようだ。相談していた蜂数匹も、光の中に消えていった。

 時計屋は神々の行く末を見守るだけだった。彼にはそれしかできない。

 世界が崩壊の危機に直面したとき、時を止めて、自分に憑く神に采配を委ねる。

 それだけ。

 時計屋の能力はたったそれだけのものだ。

 自分自身に何かができるとは、これっぽっちも思えていなかった。何もかも神任せ。能力を使えるのは終わりも終わりで、だいたいすべて取り返しがつかなくなったあと。自分自身は無力なのだと、時計屋はいつも自分が情けなくなる。

 がっくり身体から力が抜けるのは、能力を使った反動か、それとも無力感からなのか――。

 膝をつきそうになった時計屋の前に、蜂の姿をした機械仕掛けの神が一柱現れた。

 12ダースの蜂とは微妙に色合いや意匠がちがう。身体もひとまわり大きい。誰しも、ひと目でかれが『王』だとわかるだろう。蜂を率いていた蜂なのだと。

「……時間か」

 時計屋がため息混じりに尋ねると、蜂の王はうなずいた。

「俺は今度はどこに吹っ飛んでくんだ?」

 蜂の王は首を傾げた。

 やれやれ、と時計屋はかぶりを振る。

 ゆっくり屈み込むと、彼は暁の耳の近くに挨拶の口づけを残した。

「お前たちに会えてよかった。久しぶりに、本気で助けたいと思うくらいの隣人だった。のお前たちを、俺は知らない。絶望したままなのか……それとも、希望をみつけられるのか……ぜんぶお前たち次第だ。ごめんな。無責任で」

 時計屋はまた、暁の頭を撫でた。



「さよなら、暁」



 時は動き出した。





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