拾弐ノ弐


 ハコスカが去ると、重苦しい沈黙が訪れた。どれだけ手首を動かしても、縄がゆるむ気配はない。はだけたままの胸元が寒い。

 時間の感覚がわからなくなっていた。時計屋からもらった腕時計はしているが、見られる状態ではない。

 しばらく黙ってうずくまっていた。肩の傷の痛みは、何もしなくてもじんじんと響く。肉を喰いちぎられたときの痛みは、左目を潰されたときに匹敵した。さすがにあの瞬間の激痛が持続しているわけではないが、消毒なり止血なりの手当てをしたくてたまらない。

 どこからか、あの笛と太鼓の音、そして呪文が漏れてきている……そんな気がする。

 聞きたくない。そのうち無線屋のようにわめき散らしてしまうかもしれない。あれを聞いているうちに無線屋はおかしくなったと言った。

 通りに並んでいたニシ町の狐の子たちは、皆おかしくなっている様子だった。ニシ町の中には、修理屋のように、現状を異常だと認められる者もいるのだろうか。

 ヒガシ町はどうなったのだろう。トコヤミサアカス。ビラはほとんどが撤去されたが、生き残りが酒屋の裏路地にあった。文言が変わっていた。「ソノウチサンジョウ」が「イヨイヨカイマク」に。

 クーパーはどうしているだろうか。エンジンさえ無事なら大丈夫なはずだが、こっぴどく痛めつけられて……。

 暁の頭の中は、とりとめのない考えでぐちゃぐちゃだった。

 少年は、絶望の神について語った。

 絶望を渇望していた。

 それなら、と。

 痛みの中で暁は決心する。

 ――絶望なんかしない。

 今まで護ってくれたヒガシ町の人びとのためにも。手を焼いてきたにちがいないけれど、18年育ててくれた両親のためにも。ここでわけのわからない神の生贄にされるわけにはいかない。

 暁は手首を力任せに動かした。荒目の縄が手首に食い込む。新たな熱い痛み。血が流れ始めたような感覚。いっそどちらか片方の手首をちぎってしまいたい。あるいは手の肉を削ぐか。

 手の肉を……。

 覚悟を決め、暫を喚ぼうとしたときだった。

 戸の外側で声がした。ハコスカと知らない男の声。ややあって戸が開き、ハコスカが中に入ってきた。

「よォ、思ってたよりずいぶんおとなしいじゃねェか」

 にやにやしている。どうせろくなことを考えていない。暁は彼を睨みつけた。

「フハッ、そんな見つめンなよ。照れるぜ」

「…………」

「テメェ、クーパーSと結婚するんだって?」

「……だからなに?」

「ハハ、驚いたってンだよ。車と結婚なんてなに考えてんだァ?」

「オ……、クーパーもあなたもただの車じゃない。狐の子よ」

「はぁ? そんなん聞いてねェぞ」

「お狐様の力でその身体ができてるんだから、狐の子といっしょなの。……クーパーはお稲荷さんに願掛けしたらああなって、ここに引きずり込まれた。あなたはちがうの?」

 ハコスカと親しく話などしたくなかったが、以前のように挑発したりこちらからいきなり仕掛けたりして怒らせても、状況が悪くなるだけだ。暁はそれなりに学習していた。暁はハコスカを睨みながらも、努めて冷静に話を続けた。

 クーパーの身の上話を聞かせると、ハコスカは口をへの字に曲げて、一瞬暁から目をそらした。

 図星だったか、当たらずとも遠からずと言ったところか。本当に、子供のようにわかりやすい車だ。

「そんなことよりよォ。テメェ、クーパーSとヤったのか?」

 しかし今度は、暁が口ごもる番だった。にやっ、とハコスカが下品かつ勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「お? ヤッたのか? おい? マジかよ? 車と? マジかテメェ? どうだった? アイツうめェのか? おい?」

「……好きなんだからいいでしょべつに。ほっといて」

「ハハッ、ヘ、こいつは面白ェや。ハハハ。じゃあよ、もう貫通してるんだし、いいよなァ?」

「ヤル気?」

「べつにお互い好きじゃなくてもできンだよ、それ」

 ハコスカはちらと後ろを振り返ってから、暁の前にかがんだ。……ヤンキー座りが妙に似合う。

 彼は暁に顔を近づけ、声を落とした。

「前にオレの後輪潰したり首チョンパしやがってくれたことは水に流してやるからよォ。取り引きしようぜ、天照」

「……?」

「一発ヤらせてくれたら、ここから出してやるよ」

「え」

 ハコスカはニタリと口元を歪めたが、目はどこか真剣だった。クーパーと同じ色、同じ光を持つ目。薄暗い部屋の中で、にじむように光っている。笑みが消えれば、ハコスカは真顔だった。

 持ちかけられた取り引きの内容は、暁が嫌悪してやまない類いのものだ。しかし、まさかこの車が自分の側につくなどと言い出すとは、まったく思いも寄らなかった。

「どういうつもり? 町を裏切るの?」

「オレはハナからキツネじゃねェ。……と、思ってたけどちがうんだったか? まァいい。裏切るもなにもあるかよ、オレはここが居心地よかったから勝手に住んでただけだ」

 ハコスカは鼻で笑った。

「あのガキに洗脳されて、町の連中はすっかりキチガイになっちまった。親分は正気っつーかまだマシなほうだが、あのガキに組合長譲って、計画にまで乗りやがった。親分はヒガシ町さえぶっ潰せればあとはどーでもいいんだよ。――オレはごめんだ。オレは人乗せてずっと走りてェのに、なんでガキの中二病に付き合って世界と心中しなきゃならねェんだ、ボケが!」

 そうか。

 ハコスカもクーパーと同じだ。

 どんな事情があってここに連れてこられたのかはわからないが、きっかけになったのは「人を乗せて走りたい」という気持ち。彼もクーパーもあくまで車。人のための道具。

 外にいる見張りに聞こえないよう、彼は声を落としていたが、声にも言葉にも強い意志が感じられた。

「オレはよ。金欠になったオーナーに売り飛ばされて、1000万の値がついた。誰が買うんだよこの不景気に、1000万もする50年前の車なんか。1000万出せるならみんなGT-Rかレクサスの新車買うわクソが! オレは2年ガレージの中で大事に大事に保管されてよ。頭おかしくなりそうだった。いっそ殺してくれって頼んだんだ、店のすぐそばのお稲荷サンに!」

「…………」

ニシ町こっちにつけば女犯れるって聞いたけど、女なんかろくに来やしねェ。やっと二人目が来たと思ったら、テメェみてェなゴリラときてる。親分はオレのこといい車だって言ってくれるから喜んで乗せてた。でも今はコレだよ。世界滅ぼそうとしてるんだぜ、バカじゃねェか!?」

「……で、そんなゴリラとヤリたいわけ?」

「なんだよ、気に障ったか? アァ?」

「……いいよ。好きにしたら」

「えっ」

「なにその『えっ』。あなたが持ちかけてきたんじゃない」

 暁はハコスカから目をそむけて、身じろぎした。

 本当は嫌だ。今すぐ暫で自害したいくらいだ。クーパー以外の男となんて。百歩譲っても、相手にするならヒガシ町の男だ。特にハコスカには以前ひどい目に遭わされているし、取り引きに身体を要求するなんて最低すぎる。

 でも、少年の台詞を思い出すかぎりだと、自分はこれからキリエ以上の仕打ちを受けるようだ。単独で脱出できる可能性はかなり低い。ここがニシ町のどのあたりにあるのかもわからず、ニシ町の出口もわからないのだ。少なくとも、ナビゲーターがいるに越したことはない。

 黙っていてもおもちゃにされてから殺されるなら、今、取り引きでおもちゃにされたほうがいくらかましだ。嫌で嫌でたまらないが、逃げるために暁は決意した。

 とはいえ、ハコスカは高確率で暁が突っぱねるものと思っていたようだ。ダメ元という心境での取り引きだったのか。

 ハコスカはちろりと舌なめずりした。

 ……この男が、約束を守るかどうかの保証はない。それも覚悟しておかなければならない。

 ――ごめん。オースティン。でもまたあなたに会いたいの。

 自分は、変わった。

 そう思った。

 以前ハコスカがいきなり身体目当てに迫ってきたときは、後先のことも考えずにキレたのに。今は自分の身体を利用しようとしている。初めては、好きな男にあげられたからというのもあるのだろうか。

 ――逃げるためにこんなことしたなんて知ったら、あなたは、怒るんだろうな……。

 それでもいい。

 もういちど会えるなら、それでも。

 ハコスカの匂いと気配が近づいてくる。暁はぎゅっと目を閉じた。煙草とガソリンの匂い。クーパーの匂いに似ている。

 手首に痛みが走った。ぶつっ、という音。ハコスカが縄を素手で引きちぎったようだ。

 そして、舌。

 首筋を舐められて、そのまま……。

 煙草とガソリンの味。クーパーのキスの味と似ているけれど、やっぱり、ちがう。舌と唇の動きも。温もりも。胸を揉まれている。嫌だ。早く終わってほしい。

 ハコスカの口が、暁の口から離れていった。

 その唇は次に、暁の耳元へ。低い声がささやく。

「……これでいいわ」

「え……?」

「もういい。満足だ。テメェはクーパーSのものだし……やっぱりオレは車なんだ……」

 ハコスカは立ち上がると、首をコキコキ鳴らしながら戸口に向かう。

「誰でもいいからシートに乗せて、思いっきり走れりゃそれでいいんだ。女となんかヤれなくてもいい。止まったまま世界と死ぬのはごめんだぜ。せっかくGTグランツーリスモに生まれたんだからよォ」

 つぶやくと、ハコスカは戸を叩いた。かんぬきが外れ、戸が開く。ハコスカは首を外に突き出した。

「よォ、漬物屋。終わったぜ。テメェもどうよ?」

「思ったより早いなお前。さすがスポーツカーだな」

「るせェバカ。ヤルなら早くしろ」

 漬物屋と喚ばれた男が中に入ってきた。銀色に光る目の、中年の男。すん、と部屋の匂いを嗅いで、彼はとろんとした目つきになった。

 次の瞬間、ハコスカが漬物屋の首にすばやく腕を回した。

 ぼぎッ、とその首が一瞬でちぎれ飛んだ。

 ハコスカは約束を守る気だ。ようやく暁は実感できた。蒼く光る目が暁をとらえる。彼は無言で顎をしゃくった。

 暁は小声で暫を喚び、ハコスカの後ろについていく。途中、ばったり男と出くわした。黒い狐面をかぶり、胴元にひれ伏していた、小姓のような男のひとりだ。狐面をかぶっているから玄関で見た男と同一人物であるかどうかさだかではないが。

 男は暁を見て驚いたにもかかわらず、ハコスカを咎めようとしない。立ち回りはそう得意ではないのか、体格に優れるハコスカを見上げて一歩後ずさった。

 ハコスカの横顔が、獰猛な笑みのかたちに歪む。その腕がさっと伸びて、男の髪の毛をつかむと、目にも止まらぬ速さで動いた。

 コキャッ、と儚い音。

 ハコスカはすぐそばのふすまを開け、首をへし折った男を中に投げ込んだ。そして早足で歩き出した。

 ハコスカの導きで外に出る。正面ではなく、裏口のようだ。簡素な門のそばにシルバーのスカイラインが止まっている。暁は、彼が横浜ナンバーだということをここで初めて知った。

 ボディには傷がつき、あちこち凹んでいる。車の体当たりというのは強力な攻撃だが、ある意味自爆だ。彼の服の下には痣なりすり傷なりができているのだろう。

 あたりに充満する不愉快な匂いは、いっそう強くなっていた。

「後ろ乗れ」

 エンジンがかかり、ドアがふたつひとりでに開く。乗り込もうとしたときだった。

 ベヂョッ、と車のそばになにかが落ちてきた。

 空から。

 黒ずんだ肉の塊のようなもの。

 それは、腕だ。ハコスカがへんな声を上げた。圧死したゴキブリでも見つけたかのような。暁も一気に気分が悪くなった。

 腕の塊。ねっとりとした黒い液体まみれの、人間の腕によく似た腕が、6本も7本も絡まり合って、いびつなボールを形成している。血管が浮き出ていて、脈動していた。指は5本だったり7本だったり。

 暁は、電器屋の眼窩から突き出していた腕を思い出した。

 腕の塊はぷるぷる震え始めたかと思うと、わらっ、と広がった。腕同士は融合していてばらばらにはならない。腕の1本1本が蟲の脚のよう。爪が剥がれている指もある。

 それを、いきものと呼んでいいのか。これはいったいなんなのか。ともかくそれは意思を持っているようだ。車ににじり寄ってくる。

 ベヂョッ。

 ボヂッ。

 べたっ。

 それと似たようなは、次から次へと空から降ってきた。どれも落下直後から数秒で蠢き出す。こんなものは見たくない。見るべきではない、とさえ思う。しかし、目が釘付けになってしまって離れない。

「があっキメェ! なんなんだコイツら! どうなっちまうんだよこの世界はよォ! ふざけんなキメェんだよ!」

 ハコスカは目を狐のものにしてひとしきりわめくと、今にも走り出しそうな勢いで車に乗り込んだ。彼の叫び声と行動が暁を現実に引き戻した。腕どもの動作はのろいが、確実に自分たちを目指している。暁はドアのそばにまで来ていたその腕の塊を蹴り飛ばすと、鳥肌に覆われた身体をスカイラインの中に滑り込ませた。

 蹴った腕は生温かかった。思わず叫び出したくなる。しかし、おかげで左肩の痛みも忘れられている。

 暁が乗り込むとドアは勝手に閉まり、ハコスカがギアをすばやく操作した。アクセルはベタ踏み。悲鳴のような音と煙を上げて、スカイラインは走り出した。

 ものすごい加速だ。エンジンの音も野太く、力強い。まるで獣の咆哮。クーパーよりも速い。暁にとっては、それがなんとなく悔しい。

 暁は自主的にシートベルトを締めた。

 ガツンドツンという音は、タイヤがあの腕の塊どもを轢き潰す音か。

 暁は空を見た。

 わけのわからない色はどこまでも広がっている。ここが常夜ノ国であるということを忘れてしまう。普段よりも少しだけ明るい。だがこの光は、かえって心を不安に染める。絶望を揺さぶり起こそうとしている。

 この世界は終わる。

 この世界は終わる。

 この世界は終わるのだ。

 暗い虹色に泡立つ空には、いくつもの裂け目ができ始めていた。空の傷口。腕の塊どもは、その向こうの暗黒から墜ちてきている。

 空の裂け目を見ようとすると、頭がくらくらした。なにかが……なにものかが、こちらをじっとうかがっているような気がしてくる。虎視眈々と狙っている。

 

 暁は視線を空から引き剥がす。視界がちかちかした。強い光を見たときのように。

 運転席のハコスカは舌打ちしたり悪態をついたりしながらも正確に運転している。この車はまさに彼の手足だ。めったなことでは運転ミスをしないのだろう。

 彼の左手のシフトさばきを見ていると、どうしてもクーパーを思い出してしまう。

 べつにハンドルやシフトレバーやペダルを人体部分で操作しなくても動けるのに、彼らはわざわざそうするのだ。気分の問題や、とクーパーは言っていた。しかしこの様子を見ていると、「わざわざ操作している」というより、「身体が勝手に操作している」ように見えなくもない。

「ハコスカ」

「アァ!? なんだよ!」

「クーパーとちゃんと話したことあるの?」

「あるにきまってンだろ! オレァ5年前にここに来てから半年くらいヒガシ町にいたからな!」

「え!?」

「オレは……、オレは、アイツっつーか、ミニ・クーパーっつー車は嫌いじゃねェッつーか、オイ、アイツには言うなよ! その……」

 ギャウッ、と車がそこでドリフトした。身体が転がりそうになって、暁は必死になってドアハンドルにしがみつく。

「エンジンを横置きにした自家用車はミニ・クーパーが初めてなんだよ! どういうことかわかるかテメェコラ!」

「わかんない!」

「BMCが作ってなくてもどっかが作ってたろうが! ミニ・クーパーは! 車の革命みてェなモンだ! オレは! 尊敬してるッ! ぶつけたこと謝っ……らなくてもいい、今のも忘れろいいなッ!」

「……!」

 テメェはクーパーのモンだ、と言ってハコスカはキス以上のことをするのをやめた。

 それなら、今回暁を拉致するとき、クーパーに車体の側面をぶつけてきたのも、仕方なくやったことなのか。

 この車にそんな感情があったのか。

「ねえ」

「テメェ今忙しいんだよ今度はなんだ!?」

「あのときいきなり斬りつけてごめん」

「アァ!? テメェッ……、気が散るだろうがバカッ!」

 車が一瞬あらぬ方向に曲がったが、すぐに立て直した。

 これは本当にもう黙っておいたほうがいいかもしれない。

 暁は車窓の外を見る。ものすごい勢いで街並みが後ろに流れていく。見知らぬ町だ。どこをどう走っているのか見当もつかない。本当に町の外に向かっているのかどうかも。

 男たちがいた。

 通りに沿って、ずらりと並んでいる。全員頭に何かかぶっている。きっと呪文を唱えている。

 だがそこでは、信じがたいことが他にも起きていた。

 例の腕の化物どもが、男たちを襲っているのだ。あっという間に通りすぎてしまうのではっきりとはわからないが――殺されている。喰われているのだろうか。腕の塊はそのいくつもの腕を広げ、男たちを力任せに引き裂いていた。

 男たちは――なんということか。

 抵抗していないのだ。

 突っ立ったまま、されるがまま。頭に何かしらかぶっているから、にじり寄る怪物が見えないというのもあるだろう。でも、誰もこの状況に気づいていないのはおかしい。隣の男が腕を引きちぎられても、突っ立っているのだ。通りの真ん中に背を向けて。

 さすがに暁は悲鳴を上げそうになった。

 恐怖からではない。もう、わけがわからなくて。

 どうん、と車が大きく揺れた。

 それは何か大きなものを轢いたためではなく、地面そのものが揺れたかのようだった。

 ハコスカが鬼の形相で振り向く。いつかクーパーは、車に乗っているとき、人体部分でどこを見ているかは関係ないと言っていた。前を向いていても後ろが見えるのだと。ハコスカも、振り返っているのにすばやくハンドルを動かして、前方の障害物を避けた。

 ちっ、と彼は大きく舌打ちした。

「『猪鹿蝶』『こいこい』……ってか」

 暁は振り返った。

 後ろから猛然と追いかけてくる、巨大な影がふたつ。

 猪鹿蝶。

 

 それは真っ黒い小山のような猪の化物と、樹を頭に生やしたかのような立派な角を持つ鹿の化け物だった。あたりに、黒い萩と紅葉と牡丹が散っている。

 胴元に感づかれたのだ。この爆音で疾走していれば、それも無理からぬ話だが。

 特に鹿の速さは驚くべきものだった。暁はハコスカの前のメーターを見る。時速140キロ。これだけ飛ばしているのに追いつかれそうだ。

「クソがッ、ざけんな! 日産が鹿をチギれないだァ? ふざけんなッ!!」

 ああ、町が。

 町が終わる。

 草原が見えてきた。

 虹色に歪む空の下、赤いススキが揺れている。

 ハコスカがブレーキを踏んだ。

 ゴムが焼ける匂い。

 スピン。

 勢いあまった鹿が、スカイラインを通り越して尻餅をつく。

 ぶぅおぅん、とエンジンが吼える。

 クラッチ。

「伏せてろ!!」

 ハコスカが叫びながらシフトをさばいた。

 アクセル。

 スピン。

 漆黒の鹿の脇腹に、車の側面をぶち当てる。衝撃。ガラスが割れる。暁の顔に血が飛んできた。ハコスカの。鹿が奇妙な声を上げた。

 クラッチ。

 ハコスカはまたあざやかにシフトをさばいた。

 犬歯を剥いて一瞬笑う。

 アクセル。

 タイヤは煙と悲鳴を上げる。

 スカイラインは、鹿ののどに突っ込んだ。ものすごい音がして、黒い霧がスカイラインを包む。鹿が――死んだようだ。

「……ッ、降りろ」

 大きく息をついてから、ハコスカが暁のほうを見て言った。こめかみからだらだらと流血している。

「ハコスカ、」

 暁が思わず身を乗り出したときだった。

 ハコスカは突然咳き込んだ。咳には黒煙と血が混じっていた。見れば、ボンネットが少しめくれ上がっていて、隙間から煙が立ちのぼっている。

「……クク、ああ、オーバーヒート……しやがって。このボロエンジンが……、ハハハ、ッ」

 それを聞いて、暁は認識を改めた。

 彼は丈夫な日本車だ。人体部分もクーパーよりは若く見えるし、体格もずっといい。けれど、48年も前に作られたことに変わりはない。こんなに急にぶっ飛ばしてはいけないだったのだ。

 でも今のハコスカは、なんだかとても嬉しそうで、楽しそうだった。

「こんなにマジで走ったの……久しぶりだったぜ。ああ、やっぱりこうして正解だったなァ。……テメェ、名前、なんつーんだった? 野郎みてェな名前だったよなァ?」

「暁」

「あァ、暁。そうだ。降りろや、暁。クーパーが迎えに来ンだろ……たぶん」

「ハコスカ」

「オレは日産スカイラインだよ、暁。どうよ、日産。よかったろォが?」

「……うん。スカイライン、ありがとう」

「早く行けって。楽しかったぜ、フハッ!」

「……ほんとにありがとう」

 暁はすばやく車を降りた。

 ススキが揺れる草原はすぐそこ。

 漆黒の猪もすぐそこにいた。

 死にかけたエンジンに無理やり火を入れる音。どルぅおおん、と銀色の獣の咆哮。

『あばよ!』

 スカイラインのブレーキランプが消え、走り出した。猪に向かって。

 暁は町の外に足と顔を向ける。走り出した。

 背後でものすごい音がした。鉄でできたものが潰れる音。

 もういちど、衝撃音。

 暁のはるか頭上を、銀色の……日産の……横浜ナンバーのスカイラインが、飛んでいった。グシャグシャに潰れていた。放物線を描くスカイラインは、町の外まで飛んでいき――地面に叩きつけられると同時に、爆発炎上した。


 びりゅッ、と頭上で音。

 虹色にうねる空の傷口がひろがる。


「――ッ」

 振り返らない。走り続ける。

 足音が近づいてくる。地面が揺れている。獣の息づかいが聞こえる。猪にちがいない。

 まわりから建物は消え、赤いススキが暁を囲んだ。

 ニシ町を脱出できた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

Androidでは正しく
設定できないことがあります。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

新規ユーザー登録無料