第拾弐話

拾弐ノ壱


 酒の匂いが消えない。頭がぐらぐらする。少し動いただけで吐いてしまいそうだ。

 しかし、この意識のぐらつきが、酒によるものなのか物理的な揺れによるものなのか、それさえはっきりしない。目を閉じればすぐにでも、再びの眠りにつきそうだった。

 得気の気合でなんとかなるものだろうか。

 暁は隻眼をこじ開ける。

 ハコスカの中にいた。運転手はもちろんハコスカの人体部分で、助手席には胴元。自分のとなりには、赤い狐面の少年。

 拉致された。悪い夢であればとも思ったが、現実だった。

 わけのわからない色の空。わけのわからない音楽。わけのわからない怪物。なにがなんだかわからないうちに、ハコスカが乱入してきて、ミニ・クーパーに体当たりした。本体を痛めつけられてクーパーはほとんど動けなくなった。

 少年はそんなクーパーに何度も何度も鋏を突き立てて、

『おい、天照はどこだ? どこだよ! ポンコツ!』

 珍しく声を荒らげていた。

 暁はすぐそばにいたのに。

 暁はずっとクーパーの名前を叫んでいた。それなのに少年は暁の存在に気づいていないのだ。暁が少年の背中に暫の刃を浴びせかけようとしたときだった。

『菊に盃』

 背後で低い声がした。

 むせ返るほどに濃厚な、強い酒の香りが暁にまとわりついた。暁の腰からは力が抜けて、気がついたのが今。ハコスカの中。

 フロントガラスの向こうに明かりが見える。赤い提灯やガス燈、古びたオレンジ色の街灯の光。ヒガシ町の雰囲気とさほど変わりはない。修理屋からニシ町の話は聞いていた。もっとひどい廃墟やスラム街みたいなところだろうと暁は思い込んでいて、修理屋の話も信じられなかったけれど、彼は嘘をついていなかったようだ。

 とうとう、ニシ町に連れてこられてしまった。

 ここに来たときが、自分の終わり。

 クーパーは魂に代えても護ってくれると言った。最後に見た彼の目はあきらめていなかった。狐と同じかたちの瞳孔。いつもよりも強い燐光。少年たちへの憎悪は感じられなかった。それどころではない、といったふうで。

 暁を助けようとしてくれた。血まみれになりながら。身体もろくに動かないのに。

 自分がこれからどうなるのかはほとんどどうでもよくなっていた。クーパーの気持ちを考えると、……悔しい。悔しくて仕方がない。

 クーパーはきっと助けに来るだろう。だが、それをただ待っているだけではどうにもならない。以前も気合と根性だけを頼りに、自力で逃げた。その先で拾ってもらえた。今回もうまくいくかどうかはわからないが……、何もしないで喰われるわけにはいかない。

 キリエの二の舞もごめんだ。また人形屋のトラウマをほじくり返すことにもなってしまう。

 暁は表面上はおとなしくすることにした。そもそも、両腕を縛られている。これでは暫も抜けない。

 横目で隣の少年を見る。

 目が合った――ような気がしたが、気のせいだった。赤い狐面の目出し孔はかなり小さく、視線がどこにあるかもわからないのだが、どことなく彼が戸惑っているような雰囲気が感じ取れた。

 少年は毒々しい赤色の表紙の本を抱えている。百科事典ほどもある大きさと分厚さだ。表紙に刻印されたタイトルは、あの世の文字でもこの世の文字でもない。アラビア文字に似ているような気もする。やたらと曲線や点が多く、見ていると不安になってくる異様な文字だ。

 車が大きく揺れ、吐き気と頭痛に暁は顔をしかめた。

 ルームミラーでその表情の変化に気づいたか、胴元が身をよじって後ろを振り返る。髭に覆われた口元がゆったりと笑った。

。天照が目を覚ました」

「え?」

 少年は少し驚いた様子で暁のほうを見てきた。

 今、胴元が確かに、少年を〈若〉と呼んでいた。この少年にはまだ謎が多すぎる。いや、彼に近づけば近づくほど、謎が増えるようだ。

「本当に? なんか言ってる?」

 そしてまた謎が増えた。暁のほうを見て首を傾げながら、そんなことを言ったのだ。

「いや。儂らを睨みつけているだけだ」

「相変わらず気が強ェご様子で」

 これまでずっと黙っていたハコスカが口を開いた。ハンドルから手を離し、ラッキーストライクの箱から煙草を取り出しているところだった。呆れたような、馬鹿にしたような口ぶり。相変わらずなのはお互い様だ。

「今は、狐につままれたような顔をしているな」

「こっちもそういう顔してるんだけどね。……まあいいや。実感湧かないけど、いるってことにして説明しようかな」

 狐面の少年は顔を前に向けた。

「天照。なんでかはよくわかんないけど、今おれにはきみが見えてない。声も聞こえない」

「!」

「あのポンコツ車のお嫁さんになることに決めたんだってね。ご愁傷様」

「…………」

「単刀直入に言うよ。きみにはこれから、代償になってもらう」

 少年は、明らかに興奮を無理やり押し殺した声で話していた。彼はわくわくしているし、成功や勝利を確信している。

「普段どこの世界にいるのかはわからないけど、〈ドオーム=レヴ〉っていうすごい神様がいてね。そいつは、『太陽』や『光』や『希望』を代償に捧げることで、世界を滅ぼしてくれるんだ。複数の次元と時間に同時に出現できる神でさ、おれたちがこうしているあいだにも、どこかべつの世界をいくつも同時に滅ぼしてるんだよ。きっとそのうち、なにもかも、なにもかもを壊し尽くすんだ。ぜんぶの世界がドオーム=レヴに引き裂かれるんだ」

 ドオーム=レヴ。

 暁や無線屋やクーパーが忘れたかった謎の言葉のひとつ。それは呪文の一節でもなんでもなく、名詞だったようだ。異様な響きの、異常な力を持つ、神の名前。

 そんなものが『神』だとは、暁はとても考えたくなかった。お狐様といい、自分はまともな神と縁がないのだろうか。

 少年の独白はだんだんと熱を抑えきれなくなっていた。彼は妖しい本を抱く手に力を込める。

「空を見てごらんよ。ドオーム=レヴが近づいてる。でも、もっと濃い『絶望』が必要だ。ドオーム=レヴは絶望と闇そのものなんだよ。『目の前が真っ暗になる』って言うだろ? あれはドオーム=レヴなんだ。あいつに顔を隠されるってことなのさ。きみには絶望してもらわきゃ。準備は万端だ」

 少年の計画の中に、暁の意思は存在しない。

 身勝手という言葉ごときで彼のふるまいは表現できない。

 完全に……どうかしている。今語った内容のすべてに現実味がなく、冗談で言っているようにさえ聞こえた。まったく意味がわからないことも言っている。

 だが、胴元やハコスカという大人が協力している以上、ただのガキのお遊びではないのだろう。

「しかし、若。思ったよりも骨が折れそうな気がしてきた」

「……どういうこと?」

「天照は相変わらず儂らを睨めつけている。泣きも震えもしておらぬ。このむすめを絶望させるのは事だぞ」

 胴元はまた暁のほうに振り返り、面白そうににやりと笑った。

「なに言ってんの? 楽勝にきまってんじゃん。キリエよりひどい目に遭わせればいいんだから」

「ふむ? あの天照もややしばらくは正気を保っていたが」

「……うるさいなあ……! ドオーム=レヴはもうすぐそこまで来てるんだ。悠長なことしてらんないんだよ。みんなで中身が出るまでズコズコやればいいだけじゃないか。なんならおれが今ここでダルマにしとこうか? 見えないけど!」

「若。まあ落ち着け」

「ハコスカももっと派手にあのボロ車潰せばよかったのに」

「なんだよ今度はオレに八つ当たりかよ。こっちだってヘコんでんだぜ? がっつりキズもついたしよォ」

 ハコスカの声色はうんざりしていた。文句を言っているうちに痛みを思い出したのか、ハンドルから手を離して右の二の腕あたりをこする。そして、しゅうっと大量に紫煙を吐いた。彼はあまり少年のことをよく思っていないようだ。わかりやすい車だった。

「……呪文の詠唱はまだあと2時間は続けないと。屋敷の例の部屋に突っ込んどいて。ハコスカ、そこで止めてよ」

 少年はすっかり不機嫌になったようだ。ハコスカは忠誠心のかけらもない生返事をすると、少年が指し示した場所で停車した。

「ひとりで行くのか、若」

「べつについてこなくていいよ。せいぜい天照を逃がさないようにね。二度目はないから。はっきり言って」

 少年は捨て台詞を残すと、車を降りた。謎の赤い本を抱えて歩き去って行く。

 ハコスカはわざとらしく大きなため息をついた。

「いいのかよ、親分。オレは車だからいいけど、アンタがあんなガキに顎で使われるなんて、やっぱりおかしいぜ」

「儂は強い者に従う。それが若ければ言うことはなしだ。スカイライン、儂は老いた」

 胴元は静かにそう言うと、先に車から降りた。ハコスカはほんの数秒だが、黙って窓の向こうの胴元を見つめたまま動かなかった。煙草はただくゆらせるばかりの真顔だった。瞳の青い燐光がいちどまたたく。

 ほんの数秒でも、暁が見た彼のその面持ちは、かなり印象深いものだった。もしかしたら、こいつはただ横暴な車というわけではないのかもしれない。

 ハコスカは舌打ちすると、煙草を灰皿に突っ込んで車を降り、暁が座る側のドアを開けた。

 ねっとりとした、なんの匂いなのかわからない異臭が、空気の中に融けている。悪臭というほどではない。だが、なるべくなら嗅ぎたくない。なんとなく生理的に受け付けない匂い、と言えばいいだろうか。

 これがニシ町の匂いなのか。ヒガシ町の空気の根底には、暁が知らないスパイスのものか、ほんのりと甘くて香ばしい、不思議な匂いがあったのを思い出した。

 ニシ町に漂うのは、妙な匂いだけではない。

 奇怪な……ねじ曲がった……楽譜もないままいたずらに吹き鳴らしているような、笛の音。リズムなど度外視した、不規則な太鼓の音。そしてお経めいた陰鬱な詠唱。町全体が、黒く淀んだ歌を唄っているかのよう。

 ハコスカがしかめっ面で暁の二の腕をつかんできた。車内から引きずり出される。

 足は自由だ。ハコスカの向こうずねにローキックでも叩き込もうかと思ったが、やめておいた。だが、つかまれたときに反射的に抵抗してしまった。

 ハコスカは殴るでも罵るでもなく、面倒くさげに舌打ちして、暁を米俵みたいに担ぎ上げただけだった。クーパー以上の馬力を誇る車だ、暁などクッションくらいの重みにしか感じられないのかもしれない。

 ハコスカに担がれ、初めてまともに見たニシ町は――異常だった。

 だがきっと、もともとはこうではなかったのだろう。ここに住んでいた修理屋も、異常に気づいて寝返ったのだから。

 頭に何かしらかぶった男たちが、大きな通りの片側に背を向けてずらりと並び、身体をくねらせ、あるいは小刻みに震えながら、呪文を唱えているのだ。


 いあいあよぐそとほすもんにしてみちなるものよみちびきたまえみちびきたまえむぼうのとこやみさししめすものひかりをのみこむものおおいなるどおーむれぶをみちびきたまえよぐそとほすいあいあないあはそらそてふしゅくふくしたまえしゅくふくしたまえむぼうのとこやみさししめすものひかりをのみこむものおおいなるどおーむれぶをしゅくふくしたまえざいうえそうえかとけおそどおーむれぶうぇかと・けおそばーくるばーくるろろせとあどらドオーム=レヴ!

 ドオーム=レヴ!

 ドオーム=レヴ!


 あたまのなかみがゆがんでまがる。酒の匂いはもうほとんど感じないのに、意識がぐるぐるねじ曲がる。呪文と匂いをきいてみてかぎまわっているとあたまおかしくなりそうわらいだしそう泣きだしそうあたまがとける。溶けた中身がどろどろっとなって涙腺や耳の穴から流れ出すのだ、だから頭になにかかぶらないと。神様も無貌だから失礼だ!

「クソが」

 ハコスカが小さくつぶやいたのが聞こえた。担がれている暁にしか聞こえないほど、小さく。それは町の人びとや、このイカレた状況に毒づいたようだった。

 胴元が悠然と前を歩いている。暁が顔を上げると、長い髪のあいだから、立派な和風の屋敷が見えた。祖父の家を思い出させるたたずまいだ。

 大きく厳めしい数寄屋門の前に胴元が立つと、ひとりでに門が開いた。門から屋敷まで、よく手入れされた前庭がある。かなりの豪邸だ。

 赤い提灯と橙色の灯が照らし出す屋敷からは、通りで感じたような異常さは感じられない。壁も屋根も、庭に植えられた植物さえも黒いので、陰鬱な雰囲気ではある。だが、表に比べればはるかにましだ。

 玄関に着くと、戸はまたひとりでに開いた。

 黒い狐面をかぶり、黒い着物を着た細身の男が、ふたり正座をしていた。小姓めいたふたりは無言のまま、胴元に対して深々と頭を下げる。

「見張りは呼んだか」

「は。仰せの通り、漬物屋を」

 平伏したまま、男のひとりが胴元の質問に答えた。男の手の皮膚はなめらかで白く、顔が見えずとも彼が若者であることがわかる。

「ふうん。まあまともなヤツを呼んだじゃねェか」

「儀式の最中で喰われてはかなわぬからな」

 胴元は家に上がった。暁もハコスカに抱えられたまま屋敷の中に入る。

 ごくり。

 通りすぎるとき、黒い狐面の若者ふたりが、暁を見ながら生唾を呑み込む音が聞こえた。

 暁が放り込まれたのは、地下の薄暗い部屋だった。部屋の隅には仄白い光を放つ行灯がひとつある。しかしその光はあまりにも淡く、部屋の隅々は黒い闇に溶け込んでいた。

 ……いやな雰囲気が漂う部屋だ。どこがどう『嫌』なのかうまく説明できない、曖昧な不気味さがある。いかにも幽霊が出そう、と言えばいいのか。

 行灯のほかには何もない。窓もない。出入り口となる戸は、外側にかんぬきがあるようだ。鉄格子こそないが、ここは座敷牢のようなものか。

 暁はぴんときた。

 そして、いやな雰囲気の正体がつかめた。

 修理屋からおおまかな話を聞いている。キリエは胴元の屋敷に幽閉されていたと。16年前、キリエはここに閉じ込められ、1年ばかりを過ごしたにちがいない。

 敷かれた畳は、意外にも比較的新しい。この日のために取り替えておいたのだろうか。

 暁は部屋の中央に立ったまま、縛られた手首を動かした。がっちり縄で縛られている。皮膚がこすれて、忌々しい痛みがじわじわと広がってくる。

 胴元が近づいてきた。

 暁の目の前に立つと、彼は目を細め、ごくりと生唾を呑む。

「腰を抜かしもせぬか。かえって面白くなってきた」

 あっ、と思ったときには抱きすくめられていた。胴元の腕の感触はまるで岩のようにがっちりしていた。クーパーも意外と筋肉質だったけれど、それ以上だ。

 暁は無意識のうちに抵抗していた。好きでもない男の体温が密着してくるのは、たまらない不快感だ。おまけに胴元は暁の首筋で大きく鼻から息を吸い、匂いを嗅いだ。ぞっとする。

 暁は仕立て屋の手による制服もどきを着ていた。胴元の無骨な手が胸元に伸びてきて、ばりっ、と襟を開かれる。ボタンがひとつ飛び、リボンが外れた。

「やめっ……、あ゛アァッ!!」

 やめてと言おうとしたのに、暁の口からは勝手に絶叫がほとばしった。

 肩口に激痛。

 胴元が咬みついてきたのだ。めりめりと肉から音がする。ぶちぶちと肉から音がする。さすがに腰が抜けた。だが、胴元に強く抱きすくめられているから、倒れ込むこともできない。

 びヂィッ、と胴元の歯が肉ごと暁から離れた。胴元のオッドアイの中の瞳は、狐のものだ。唇も灰色の髭も真っ赤に染まっている。彼は理性をなくした獣の目で、暁を見ながら肉をにちにち咀嚼し、やがて飲み下した。

「脂がないな。軍鶏のようだ。すき焼きにでもしたいところだが……。ああ、旨い」

 胴元はうっとりした口ぶりでささやくと、暁の肩口から噴き出す血をすすった。満足そうにため息をつく。暁が鍋屋の料理に舌鼓を打つときと同じ。ただ、食べているものがちがうだけ。うまいものを喰ったあとの反応は、誰でも同じ。

「おーい。親分」

 そのとき、ハコスカの呆れた声が飛んできた。胴元がさっと暁の肩から口を離す。その瞳孔が丸く広がっていく。我に返ったようだ。このときばかりは、暁はハコスカに感謝した。

「それくらいにしといたほうがいいんじゃねェ? 骨にしちまったらどーすんだよ」

「…………」

 胴元はわずかに眉をひそめ、暁から手を離した。腰が抜けたままだったので、暁は畳の上に倒れてうめき声を上げる。肩が爆発したか、溶けているかのよう。痛い。熱い。視界の焦点が定まらない。

 胴元はぐいと手で口元を拭ったが、一度で拭いきれるような血の量ではなかった。真っ赤な唇と髭のまま、彼は不意に屈み込んだ。

「ほう。これはまた珍しいものを」

 胴元は暁が首から下げていたお守りを奪い取った。飴屋から、風呂に入っているときも身につけているようにと言われていたもの。ハコスカも好奇心むき出しで覗き込んできた。

「成る程、成る程」

「なにがなるほどなんだよ。ただのお守りじゃねェってことか?」

「左様。これは〈とうもろこし畑の通行証〉だ。身に着けると、『子供』から身を隠すことができる。この世のものではない」

「へぇ」

「若がこの天照を認識できなかったのはこのためだな」

 胴元はなんのためらいもなくお守りの中身を暴いた。

 中を見るな、と飴屋は言った。暁には、その理由がなんとなくわかった。

 お守りの中に入っていたのは、油紙に包まれた数匹の白い蟲だった。大きさは小指の先ほど。ぱらぱらと畳に落ちたときは乾燥していたが、そのうち身をよじり、無数の脚をばたばたさせると、慌てふためいた様子で走り始めた。

「うわキメェなんだこれ」

「スカイライン、殺せ」

「え!? 急に言うなよ!」

 ハコスカはどたどたと蟲を追いかけ、踏み潰していった。胴元も立ち上がり、近場にいた蟲をつまみ取ると、そのまま押し潰した。

「始末したか?」

「たぶん」

「天照は、お主と漬物屋で見張っておけ。儂は着替えてから若のもとへゆく」

「髭も洗っとけよ」

「ふん」

 胴元はもう暁を見ようともせず、部屋から出て行った。

 痛い。……痛い。いたい。

 それしか考えられなくなっているうちに、自然と唇も動いている。暁は、いたい、と小さく小さくささやいていた。いたい。

 全身を震わせながら、左手に意識を向かわせる。指は動いた。縛られているからどうにも確かめようがないが、腕もちゃんと上がるのだろうか。どれくらいの量の筋肉を喰いちぎられたのだろう。首を動かして傷口を見るのもままならない痛みだ。

 ハコスカはまた呆れたようなため息をついた。

「テメェ、それくらいで済むと思うなよ。そのままおとなしくしてろ、ゴリラ女」

 ハコスカはそう言い捨て、部屋を出て行った。

 暁は少し意外に思う。ハコスカの悪態に奇妙な翳りがあった。初めて会ったとき、あの車はひどく粗暴で、口を開けば品のない悪態が出てきていたのに、今は妙におとなしい。そんな気がする。

 こんなことは望んでいない、とでもいうような――。


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