第拾壱話

拾壱ノ壱


『トコヤミサアカス ソノウチサンジョウ』

 ヒガシ町でビラの文言を読めた者はほんの数人だった。

 暁とクーパー。ありとあらゆる言語を読める〈良い古本屋〉。そして人形屋だ。人形屋はキリエからカタカナとひらがな、少しの漢字を教わっていた。

「そのうち」という曖昧さが、ヒガシ町の不安に拍車をかけている。

 明日なのか、10年後なのか。なんのために来るのか。いったいなにものなのか。

 狐の子らはトコヤミサアカスのことは知らなくても、サーカスがどういうものかは知っていた。とはいえ、知っているだけで見たことはない。

 未知のものが、いつかこの町にやってくる。

 それは不安の先にある、恐怖を呼び起こすには充分だった。

 少なくとも二色刷りのビラからは、狐の子たちの知識にあるような、楽しさや面白さは感じられない。

 真綿で首を絞められているような日々は、半月ほど続いていた。誰もが疲れ始めている。

 ただその日、わずかばかりの希望は芽生えた。お狐様の社の復旧が終わったのだ。

 そしてすでに、暁が嫁入りの意思を固めたことは、衆知の事実だった。暁が選んだ男は狐の子じゃなくて車じゃないか、大丈夫なのかという声もあるにはあったけれど。

 神前で祝言を挙げればすべてが変わる、かもしれない。

 この淀んだ空と張り詰めた空気も。

 暁がクーパーを選ぶということを、時計屋は当然のことながら知っていた。飴屋と鍵屋も早いうちからなんとなく察しがついていたようだ。

 無線屋は、意外に思った男のうちのひとりだった。

 自分が選ばれることはまったく期待していなかったけれど、とりあえず、クーパーはないだろうと思っていた。単純に、彼は車だからだ。しかし飴屋や鍵屋の話によれば、狐面こそ持っていないけれど、彼も一応狐の子らしい。

 無線屋が意外に思ったことはもうひとつあった。人形屋が異を唱えなかったこと。

 いろいろと融通が利かないところがある男だ。猛反対はしなくても、お小言のひとつやふたつは言うだろうと無線屋は思ったのに、人形屋は逆にふたりを祝福している様子だった。

 その人形屋は最近よく出歩くようになり、それに関しては、ヒガシ町の住民は安堵していた。無線屋のほうが引き篭もりがちになってしまっている。

 裏切った電器屋は組合によって始末された。妨害電波の話をすればこうなることはわかっていた。それでも、彼の死は無線屋の心に影を落とした。

 電器屋とは仲が良かった。よく呑んだし、頻繁に互いの店を行き来していた。彼が寝返る未来など、無線屋の頭の中にはこれっぽっちもなかった。

 気づかなかった。ちっとも知らなかった。

 自分には、知らないことが多すぎる。

 寒さに手をこすり合わせてから、無線屋はいちばん調子のいい無線機のスイッチに手を伸ばす。

 電器屋の死の数日後から、ようやく無線と向き合えるようになった。

 本当はまだ怖くてたまらない。伸ばした手の指先が震えるのは、寒さのためではない。あの声を……意味不明なつぶやきを聞きたくない。

 だが、組合の仕事はしなければ。これ以上仲間に迷惑をかけていられないし、これ以上仲間を失いたくない。

 それに……。

 暁がクーパーを選んだのなら……。

 長年焦がれる、ドーン・コーラスが聞こえるかもしれないから。

 妨害電波が消えたことは数日前に確認している。やはり電器屋が発していたようだ。

 スイッチを入れ、ヘッドホンをつける。ダイヤルを回す。

 CQ、CQ、CQ。

 DE、TK0FOX。

 無線屋はいつも心の中でそう繰り返しながら、ダイヤルを回し、目を半分開けて『気配』を探す。

 どこかべつの世界の、誰かの電波を受信することもある。余裕があるときや気が向いたとき、たまに応答した。無線を通して知らない誰かと話すとき、なぜか無線屋はつっかえずにすらすら喋ることができた。

 CQ、CQ、CQ。

 DE、TK0FOX。

 そんなコールサインは聞いたことがないと、電波の向こうの相手は戸惑う。それもそのはずだ。ここはどこの世界にも存在しない。

 チリッ、と音ではないものが無線屋の感覚に引っかかった。

 ダイヤルをその瞬間の位置に戻す。

 CQ――。

 心の中の声をつぐみ、無線屋は目を大きく開いた。

 聞こえる。

 音楽だ。

 ちょっと豪華な吹奏楽。賑やかで、楽しげで、なぜか勇ましさも感じさせるメロディライン。しかし……、その音程は、狂っている。音楽の裏側では、低い声のようなものが這いずり回っている。

 無線屋は無意識のうちにヘッドホンをむしり取っていた。聞きたくない。あの異様な呪文とはちがうものだが、これもまた充分異様だ。聴き続けていればまた頭がイカレるかもしれない。

 イカレる。

 そうだ、その言葉がぴったりだ。この音楽は完全にイカレていた。



 てってってれてれてってってーてっ、

『いあ』

 てってってれてれてってってーてっ、

『いあ』

 てってってーてっ、

 てってってーてっ、

『ドオーム=レヴ』

 てれれれれれれてってってんっ。



 胸騒ぎをおぼえた。

 飴屋は縁側から庭に出る。

 かつて、朝焼けと晴天と夕暮れを見たことがあった。

 しかし今の空は、その記憶のどれともちがう。

 飴屋はこんな空を見たことがなかった。袖の中に和鋏〈アトロポス〉の重みがあるのを確かめ、急ぎ足で通りに出る。

 大勢がぽかんと空を仰いでいた。

 建物の中にいた者も、飴屋と同じ感覚をおぼえたのだろう。続々と外に出てきている。

 空では、奇怪な色が渦巻いていた。空全体を覆う厚い雲は暗い紫色に染まっている。しかしヒガシ町の上空では、桃やら青やら緑やら灰やら、たくさんの色が渦を巻いているのだ。

 渦はいくつもあった。渦の中心だけは、真っ黒だ。しかしその中心の黒すら、いつもの夜空の黒とはちがう。あまりにも絶対的な黒。すべての光を呑み込む黒。

 空にかすかな稲妻が走る。巨大な機械の歯車が軋むような音が、渦の中心から落ちてきた。

 そして――渦が止まり、ものすごい勢いで、これまでとは逆の回転を始めた。

 サイレンが鳴り響いた。

 三度のサイレンが。

 無線屋が自分で『3番』と判断したのだ。

 だが、

「もう遅いな」

 飴屋は苦笑いをこぼす気にもならなかった。

 暁の祝言は間に合わなかった。今の状況を打破する策があるとすれば、彼女が天照大神の力をこの世に顕現させることだったが――社は壊されていた。先手を打たれたのだ。

 暁を責めても仕方がない。無理やり誰かに嫁がせたとして、日が昇るかどうかはあやしい。飴屋と鍵屋の経験上、日が昇るのは、天照が相思相愛の夫を選んだときに限られていた。

 暁は。この町のためではなく、自分だけのためでもなく。お狐様に婚姻を認めてもらえたら、きっと今回は日が昇った。

 でもそれは、間に合わなかった。

 3番のサイレンを聞いても、人びとは動かなかった。サイレンなどなくても、異常事態になったと判断できる。それなら、引き篭もるより、なにが起きるか見届けたいというところだろう。

 空の渦の中心から、虹色と黒が混ざり合う液体がどろどろと流れ始めた。

 そして――。

 無数の打楽器と吹奏楽器と打楽器がいっせいに鳴ったような、一秒にも満たない轟音が響きわたった。狐の子たちは驚き叫び、耳をふさいでよろめく。飴屋も思わず耳をふさぐところだった。

 それと同時に、激しい縦揺れがヒガシ町を襲った。

 地震と呼んでいいものなのかどうか。揺れはすぐに収まったのだ。まるで巨大な質量が空から降ってきて、地面に降り立ったかのような――。

「……!」

 実際、そのとおりだった。

 形容しがたい音、いや、咆哮が響いた。

「あれは――」

 飴屋は袖を動かす。するっ、と落ちる和鋏を受け止め、握りしめる。

「確か、『象』と云ったか――」

 象だった。

 咆哮と同時に聞こえる悲鳴。破壊音。

 痰が絡んでいるかのような、がらがらという哄笑。

 店舗や事由民を蹴散らしながら、目抜き通りを目指して突進してくるのは、飴屋の知識の中にあるものよりもはるかに大きな象だった。

 象牙は4本あり、ねじくれていた。その長い鼻の先は5つに裂け、黒い棘のような牙のようなものが生えている。目は大きな額の真ん中にもうひとつあった。第3の目は真ん丸で、血走っていた。ぎょろぎょろと忙しなく動いている。

 象は煤けたように黒ずんでいた。でも、着飾っている。チョークで化粧が施され、まるで絨毯のような豪奢な布と鞍を背負っている。化粧も布も鞍もだいぶ古いものなのか、かなり汚れていた。

 鞍のうえには、げらげら笑う黒人がひとり。男なのか女なのか、そのすらりとした体格からはわからない。頭には赤い布をかぶり、首の下のあたりで紐で縛っていた。

 布は破れている。破れ目からは、黒い顔が半分だけ覗いている。大きな口を開けて笑っている。その中の歯が異様に白い。

 ひゅうぱちっ。

 ひゅうばしっぱちっ。

 黒人は笑いながら長い鞭を振り回す。鞭は空中で唸り、象の鞍や布や牙に当たっては、大きな音を立てた。

 サーカス。

 そうか。

 あれはサーカスの猛獣遣いならぬ魔獣遣い。

 トコヤミサアカスの到来か。


『トコヤミサアカス イヨイヨカイマク』


 剥がれて落ちたビラの生き残りの文言は、そう変化している。飴屋には読めない。だが、文字が変わったということはわかる。

 後ろを向けば、町の東側と北側にも巨獣がいる。それは象よりもはるかに異様な風体をしていて、飴屋にもそれがなんという動物なのかさっぱりわからない。2体とも同じ魔獣であることは確かだ。

 まるで黒い樹が動いているように見える。太い枝のような触手が、醜く膨れ上がった胴体から何本も生え、曲がりくねっている。胴体からは3本の太い脚。脚には山羊めいた蹄が生えていた。

 胴体には、緑色の涎を垂れ流す、牙だらけの口が2つも3つもついている。縦についたりななめについたりしているその口は、ぱっくり開いた傷口のようにも見えた。

 どこからか、調子の外れた音楽が流れてくる。

 そしてときおり音楽の合いの手のように、濁った声が上がるのだ。


 てってってれてれてってってーてっ、

「いあ!」

 てってってれてれてってってーてっ、

「いあ!」

 てってってーてっ、

 てってってーてっ、

「ドオーム=レヴ!」

 てれれれれれれてってってんっ!


 そして音楽に合わせて人は殺され、合いの手のような悲鳴が上がる。


 てってってれてれてってってーてっ、

「ぎゃあ!」

 てってってれてれてってってーてっ、

「おあァ!」

 てってってーてっ、

 てってってーてっ、

「ヒぃあアァ!」

 てれれれれれれてってってんっ!


「ぅわぁああああああ!!」

 しかしそのときは、飴屋のすぐそばで悲鳴が上がった。

 隣の〈良い豆屋〉だ。戦闘能力はない。ざぷっという音が上がって、彼の頭が砕け散り、飴玉よりも大きな眼球が、飴屋の胸に当たって落ちた。

 倒れる豆屋の背後には、両手にバトンを持った男が立っていた。ふらふらしている。見れば男は、足も手も首も複雑骨折していて、全身がねじ曲がっているのだった。表情はわからない。薄っぺらい紙でできた仮面をかぶっているから。子供が作ったお面のように、仮面は輪ゴムで耳に固定している。

 なっはっはっはっ、と笑いながら、男は器用にバトンでジャグリングを始めた。バトンはどれも血まみれで、脳味噌や肉片が付着している。

 なっはっはははは・はっはっはーはっ、

 なっはっはははは・はっはっはーはっ!

 曲芸師は音楽に合わせて笑い出した。

 放り投げたバトンが空中で静止し、先端が飴屋に向けられた。

 どうするつもりかはよくわかる。

 飴屋は曲芸師を睨みつけながら、右手の鋏を閉じた。

「なっ」

 笑い声は途切れた。曲芸師の首が落ちる。バトンも落ちる。めちゃくちゃに折れ曲がった身体も倒れる。

 なんだ、と飴屋は拍子抜けした。こんなやつでも、首を刎ねられたら死ぬらしい。

 しかし。

 首を巡らせれば、あたりは大惨事。


 てってってれてれてってってーてっ、

「いあ!」

 てってってれてれてってってーてっ、

「いあ!」

 てってってーてっ、

 てってってーてっ、

「ドオーム=レヴ!」

 てれれれれれれてってってんっ!


 3体の巨大な獣が建物を蹂躙し、住民をぶちぶち引きちぎりながら口に頬張る。

 全身がねじ曲がった曲芸師は他に何人もいて、爆発する何かをところかまわず投げている。首の骨が折れた道化もいる。まるまると太っている。ねじくれた剣や巨大な鎌を振り回している。顔の表情が笑顔のままぴくりとも動いていないと思ったら、それは道化の化粧をした、安っぽいプラスチックの面なのだった。

 爆発。

 殺人。

 破壊。

 ふむ、と飴屋は息をつく。

「これはもうどうしようもなさそうだなあ」


 てってってれてれてってってーてっ、

「いあ!」

 てってってれてれてってってーてっ、

「いあ!」

 てってってーてっ、

 てってってーてっ、

「ドオーム=レヴ!」

 てれれれれれれてってってんっ!

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