拾ノ弐


 暁がぼうっとしているうちに、車はヒガシ町に戻って、時計屋に到着した。

 降りる前に、目だけを動かしてクーパーを見る。

 なんだかずるい、と思う。

 あんなことをしておいて、彼は平然と運転していたのだ。キスなんか慣れっこ、ただの挨拶といったふうで。車のくせに。自分も経験なんかないくせに。

 でも彼は、大人なのだ。暁はそれを思い知った。

 店内には時計屋がいて、煙草を吸いながら手元の懐中時計を見下ろしていた。暁とクーパーが店内に入ると、時計屋はさっと顔を上げた。

「時計屋。時計直ったか?」

「なんとも言えない。……無線屋ならこっちだ」

 時計屋は煙草を灰皿に突っ込んで立ち上がった。灰皿には暁が引くぐらいの量の吸い殻があった。机の中央にある懐中時計は裏蓋が開いている。

 これは……、時計、なのか。

 時計のようで時計ではないものに見えた。見たこともないムーヴメントなのだ。たくさんの青白いかがやきが見えた。まるで、ルビーではなくダイヤが使われているかのよう。

 それをじっくり眺める余裕はなかった。時計屋は2階の住居部分に暁とクーパーを案内した。

 無線屋は、ベッドのうえで膝を抱えて座っていた。ただでさえぎょろっとした目を大きく開いて、忙しなく動かしている。ひと目見たとき、「これはまだダメなんじゃないか」と暁は思った。が、無線屋の目は、しっかり暁をとらえた。黄色のような緑色のような、不思議な目の色は健在だった。

「あ、あ、暁……」

「無線屋。大丈夫?」

「こ、ここは、静かだ。だだ大丈夫」

 無線屋はこくこく細かく頷いた。

「いったい……、なにがあったの?」

 彼の様子を見ると聞くのはためらわれたが、仕方がない。暁が尋ねると、無線屋の目が泳いだ。膝を抱える手に力がこもる。

「無線が……電波が……妨害、されてる。く、クロギツネの……子の……気配が、わからなくなってる。へ、へんなのばっかり、き、聞こえるんだ。聞きたくない」

「いつから?」

「た、たぶん、ぼ妨害が始まったのは、あ、暁が来たときから、なのかも。でも、へんなのが、き聞こえるようになったのは、さ、最近だ。ほんとに最近だ」

「俺と暁も聞いたで。けったいな……呪文みたいなやつやろ」

 無線屋はまたこくこく頷いた。

「あれき、聞いてたら、よ、よくわかんなくなっ、てきて」

「せやろな。えらいことになってたで」

「でも、も、もっと嫌なことに、き、き、気づいた」

「……え?」

 無線屋は暁とクーパーに目を向けた。

「妨害電波。ヒガシ町のから、出てる」

 暁はクーパーと顔を見合わせた。クーパーはまるでこの世の終わりが来たかのような顔をしている。部屋の入り口には時計屋がいて、腕を組み、戸口に寄りかかっていた。無線屋からすでにこの話を聞いていたようだ。眉間にしわを寄せている。

「む、む、無線を……おれから無線を買ってったやつを、調べなきゃ」

「せやけど、そんなんぎょうさんおるやろ」

「電器屋」

 無線屋も顔をしかめ、虚空を睨んだ。その目の色が、じわりと金色寄りに変わっていく。

「電器屋、に、2ヶ月くらい前に、買ってった。それに、ここんとこ、誰も……あいつを見てない。お、おれも、しばらく会ってない」

「あ……」

 確かにそうだ。

 暁も、電器屋に最後に会ったのはいつだったか、はっきり思い出せなかった。

 そう考えてから、暁は嫌な気分になった。いっしょに鍋屋の小料理屋でわいわいと飲み食いした仲なのに、彼を疑わなければならないというこの状況。

 無線屋は膝と腕の中に顔をうずめ、時計屋はうんざりしたような、やりきれないような、そんな大きなため息をついた。

 暁やクーパーとともに部屋の外に出た時計屋は、そっとドアを閉めた。

「2ヶ月くらい前という話には、俺にも心当たりがある。天照……、暁が来る時間は、俺にもはっきりとはわからなかった。ものごとにが絡むと、〈世界の軌道〉が読みにくくなるんだ。ノイズが走るって言ったらわかるか? でも2ヶ月前に、そろそろ新しい天照が来そうだとわかった。正確な日時はわからないままだったが、俺は一応飴屋と鍵屋に報告したんだ。鍋屋の小料理屋でふたりが飲んでるときだった。確かそのとき、店には電器屋もいた。無線屋の話じゃ、電器屋が無線を買ったのは、そのすぐあとだ」

「……時計屋。ほんとに電器屋が妨害電波出してるの? 未来のこと、わかるんでしょ? 結果知ってるはずだよね?」

 暁は思いがけず、時計屋を詰問してしまった。言い方もきつくなってしまったかもしれない。時計屋がわずかにひるんだように見えた。彼は暁やクーパーから目をそらし、顔をしかめる。

「そんなに買いかぶるな、俺は神じゃない。知らないことやわからないことはたくさんあるし、首を刎ねられりゃ一巻の終わりだ。神に気に入られてるだけなんだ。お狐様とはちがう、もっとべつの、もっととほうもない神に……」

 彼はそれが不本意だと言わんばかりに、苦悩のにじむ声を絞り出した。

「ちがう次元がこの次元に干渉し始めてる。俺の時計も合わなくなった。……先のことはもうほとんどわからないと言っていい。こうなったら、俺がはっきり言えるのは、ってことだけだ」

「どういうこと?」

「俺は力を使うと世界を放り出される。またべつの世界にすっ飛んでっちまうんだ。だから……、俺はそれ以後の世界の軌道を知り得なくなる。……『結末』が近づくと、いつも、嫌な気分だ。俺が力を使うのはよっぽどのことが起きたときだし、俺はいつもものごとの本当の『結末』を知ることもできずに、べつの世界に行っちまう。世話になったやつらに、さよならも言えないまま」

「……時計屋」

「すまん。取り乱した」

 時計屋は冷静に、ただ愚痴をこぼしているだけのようだったが、実は取り乱していたらしい。滔々と話された内容はとほうもないものだった。暁は、自分ごときが彼に同情してはいけないと感じた。彼とは……がちがう。

 彼は神ではないと言うけれど、暁にとっては神にも等しい存在なのではないか。

 もとより彼とは奇妙な距離感があると思っていたが、ここまでのものだったとは。

「電器屋の軌道も結局は変えられなかった。知っていても俺は何もできない。俺がここで力を使えるのは一度だけだ。……もっととんでもないことが起きるときのために、俺は機会を取っておきたい。お前たちにとっても、そうしたほうがいいはずだと思う。……電器屋のこと、頼んでいいか?」

「……電器屋なんだね」

「ああ。『裏切り者』だ。あいつにもさよならは言えそうにないな。面白いやつだったのに……」

 はっきりと結論を告げられた。暁は固唾を呑み、時計屋は束の間唇を噛む。

「俺がこうすることで軌道が変われば、と思って、いつもあれこれ試してる。でも……結局はこうだ。俺が迷い込んだ世界の状況はどんどん悪くなって、俺はデウス・エクス・マキナになる。俺は……疫病神なのかもしれないな」

「……時計屋。そのときまで、いっしょにいて。……わたしがこういうふうに思うんだもの、あなたは疫病神なんかじゃないよ。それにわたし、あなたにさよならなんか言わない。そんな寂しいこと言いたくない」

 時計屋が目を大きく開いた。いつもどこか無気力なペールグリーンの双眸が、わずかながらもかがやきを増した。時計屋は暁をじっと見つめ、そのうち、耐えきれなくなったように目をそらす。

 すると、急に彼は暁の前を離れて、クーパーの肩に腕を回した。

「おい、クーパー、話がある」

「なんや急に」

「暁。男の話だ、気になるだろうが気にしないでくれ」

 暁がうなずくと、時計屋とクーパーはくるっと背を向けた。そして、時計屋はクーパーに何かこそこそ話し始めた。なんだか良からぬ入れ知恵をしているように見える。気にするなと言われても無理だったが、仕方がない。

 そのうち、クーパーが「えぇえ!?」と困惑したような声を上げて、ちらっと暁を見た。時計屋は眉をひそめて内緒話を続けた。クーパーはそれきり声も出さず、おとなしく相槌を打っていた。

 暁の目の前での男の内緒話はすぐに終わった。クーパーは気を取り直そうとするかのように咳払いをすると、暁の前に戻ってきた。顔には若干戸惑いの色がある。

「ほな暁行こか電器屋の店」

「…………うん」

 何の話、と聞きたくなったのをぐっとこらえる。時計屋もクーパーも真顔だ。

「気をつけてな」

 時計屋は言った。いつものようにぼそっとしたひと言だったが、その目は確かに自分たちを案じているのがわかって、暁は強くうなずいていた。

「ありがとう」



 空が暗くなっていた。満月と星が雲に隠れてしまったようだ。あんなにきれいだったのに。おまけに、窓を開けると、やけにつめたい風が吹き込んできた。

 電器屋に向かう途中で鍋屋に協力をあおいだ。彼は小料理屋を開けるところだったようだが、暁とクーパーの話を聞くと顔色を変えた。そして、文化鍋片手に無言でミニ・クーパーに乗り込んだ。

 電器屋は飴屋の近くだ。いったん飴屋の前に止まったが、店舗は閉まっていて、明かりは消えていた。鍵屋とともに町を奔走しているのだろう。

 クーパーが暁や鍋屋を見る。

 行くか。

 無言の問いかけに、暁はうなずく。

 飴屋から車で2分。電器屋もまた入り口を閉め切っていて、中は真っ暗だった。昭和の雰囲気が漂う、両開きのガラス戸。クーパーが声をかけながら何度か叩いたが、応答はない。鍵もかかっていた。

「しゃあないな」

 ぶるん、と彼の本体からエンジン音。クーパーの両腕に力がこもる。

 古めかしいドアの鍵はあっさり壊れ、外側に開いた。

「あ」

 鍋屋が声を上げ、クーパーの襟首をつかんで後ろに引っ張った。

「だあっ!?」

 小柄な紳士は軽々と鍋屋のそばに引き寄せられ、バランスを崩した。しかしそれと同時に、電器屋の入り口から、ものすごい音を立てて電化製品とガラクタの山が倒れてきた。

 まるでバリケードでも築いていたかのようだ。古びた電化製品は地面に叩きつけられ、あるいは重いものの下敷きになって、無残に壊れた。

 まわりの店ももう店じまいをしていてあたりは暗くなりつつあったが、今の音で次々に明かりがついていく。視線も集まってきた。

「出てくるな! 中におれ!」

 クーパーがホーンと同じくらいの大声を上げる。たくさんの窓際に近づいていた影が、さっと引っ込んだ。皆、緊急事態を悟るのは早い。

 ガラクタの山が崩れきったあとは、また、静けさが戻った。電器屋の中で動きがあるようにも見えない。

 が。

 ささやきのような音が一瞬聞こえた。

 ザザッ、ざっ、という、この音は――。

 無線だ。

 暁とクーパーは目配せする。自分の顔が一瞬で強張ったのが、暁にはわかった。

 クーパーが先に中に入った。

 店内が少しだけ明るくなった。積み上げられた電化製品のうち、テレビ類のスイッチが入ったのだ。ざあざあと砂嵐の音。あらゆる方向から聞こえてくる。白と黒と灰色にまたたく光が、雑然とした店内を照らす。

「うわ……なんや、これ――」

 クーパーが頭上をあおぎ、驚き呆れた声を漏らす。

 暁と鍋屋も、上を見てぽかんとした。開いた口がふさがらない。

 天井がなくなっている。電器屋は2階建てで、上は住居だったようだ。しかし店舗の天井が壊されて、吹き抜けになっていた。家電とガラクタの山は、2階の天井にまで到達するほどうずたかくそびえ立っていた。

 テレビやモニターから流れる砂嵐の音の中に、無線からの『声』が混じる。

 無線屋が、聞きたくないと言った声。

 暁も二度と聞きたくなかった。

『ぃあ』

『ぃぁ』

『あざとす』

『ばーくる』

『ぃあ』

「ドオーム=レヴ」

 肉声が混じった。

 暁は腰の暫を引き寄せる。

 ひひひっ、という笑い声。ひどくくぐもっていた。しかしその声は、電器屋のものに他ならない。

「電器屋!」

 クーパーの声は張り詰めていた。

 ガラクタの山の陰から、ゆらりと彼は現れた。

 炊飯ジャーをかぶり、汚れた作業着を着た彼が。

 首はななめに傾いている。炊飯ジャーをかぶっている。暁は自分の隻眼が信じられなかった。炊飯ジャーをかぶっているのだ。ガス式の、昭和の時代のものだ。それを見て、いったいなにをどう感じ、どんな声を上げたらいいのか。暁は混乱した。見ているこちらまで頭がおかしくなりそうだ。

「ひへへっ、おいおめぇらぁ、だぁめだろぉ。顔隠したらどうなんだよぉ、ふふへへっ」

 肩を揺らし、ぐらぐら首を揺らしながら、電器屋は笑った。

 

 それは、修理屋がニシ町でかつての仲間から投げつけられた言葉だ。

「あっ? なんだよ。顔隠さねぇのか。しょうがねぇなぁおいっ、コノヤロ!」

 修理屋が右手を振り上げた。電気式のランタンを持っている――暁がそれを認めた瞬間、目の前にクーパーが飛び出した。

 ばちん、と視界が真っ白に染まる。クーパーがうめいて後ろによろめいた。その身体に、ばちばちと青白い稲妻が走る。高圧電流か。

「クーパー!」

「俺はカミナリ平気や! 暁は外に出ろ! 鍋屋!」

 そうだ。

 暁は父に聞いたことがある。

 もし落雷が起きそうになったら、車の中に入れと。車に雷が落ちても、中の人間は安全だと。

 少し焦げ臭い匂いがする。ばあん、とまた屋内に稲妻。目がくらむ。これが電器屋の力なのか。鍋屋が文化鍋の蓋を開けた。異形の魚〈なべこわし〉が、3匹まとめて飛び出した。暁はなべこわしがどう動くか見届けず、クーパーに従って外に飛び出そうとした。

 稲妻。

 それはクーパーでも暁でも鍋屋でもなく、積み上がったガラクタを直撃した。ガラクタの山は煙と火花を上げながら倒壊し、出入り口をふさいでしまった。

「だはははっ! ふへっ、あぁバカヤロ、オレにケンカ売ろうってのか、えっ? ふへへへはっ! 逃がさねぇからな、顔を隠せってんだおいっえっコノヤロ!」

 振り返った暁が見た電器屋の身体には、ばちばちと龍のように白い稲妻が絡みついている。店内が青白く照らし出され、テレビやモニターの画面が激しく乱れる。

 あっ、と暁は驚いた。

 壁に掛かっている電器屋の狐面が――真っ黒だ。墨よりも、夜よりも、何よりも黒い。

「電器屋お前っ、寝返ったんか!」

「へっへ、おめぇ寝返っちゃだめだってんのか、あぁおいっコノヤロ!」

「ダメに決まっとるやろアホかあ自分!」

「顔隠せよおめぇはよぉ!」

 電器屋とはもはやまるで会話が成り立たなかった。稲妻が轟音を立てて飛び交う。が、ほとんどは吸い寄せられるようにしてクーパーを直撃した。本体が金属製だからだろうか、まるで避雷針だ。この場の誰よりも背が低いのに。

 鍋屋がぎろりと入り口をふさぐ家電とガラクタを睨んだ。軽く顎をしゃくれば、最も大きいなべこわしがすばやく空を泳ぎ、ガラクタの山に食らいついた。暁も唖然とするほどの食いっぷりだ。奇怪な巨大魚は、ばりばりと電化製品をむさぼり食い、あっという間に片づけてしまった。

「あぁコラッ! いあっ! 逃げんな! バッカヤロ!」

 電器屋がそれに気づき、大きく前に一歩踏み出す。

「――お前おもろいやつやったで。堪忍!」

 クーパーが小さくつぶやいたかと思うと、懐から〈クラブマン〉を抜き、立て続けに3発撃った。

 弾丸は電器屋の足と脇腹と胸に穴を開けた。電器屋は叫び声を上げて倒れた。掲げようとしていたランタンから放たれた電撃は、恐らく目測を失い、2階まで積み重なった家電の山に激突した。

 崩れる。

 ぶるん、とエンジン音が響き、暁は衝撃を感じた。

 クーパーに腰を抱えられたのだ。そのまま、時速60キロの速さで電器屋の外に飛び出していた。クーパーは鍋屋の腕もつかんでいた。

 さすがに着地に気を遣う余裕はなかったようだ。暁と鍋屋はけっこうな強さで地面に叩きつけられた。地面が揺れるほどの轟音が背後で上がる。電器屋のガラス戸が砕け散った。そして実際、電器屋は一瞬揺れた。

 静けさは一瞬だった。

「ふふへへへはははは! ドオーム=レヴが来るぞ! くるぞ! くるぞぉおおらあッバアッカヤロォォヲア!!」

 電撃が炸裂した。家電やガラクタを焦がし、吹き飛ばし、電器屋が中から飛び出してきた。その首は……頭は……ほとんど右肩にくっついている。首の骨が折れている。炊飯ジャーはもうかぶっていない。左目はまんまるに開いている。そして右目が。ガーゼに覆われていた右目。ガーゼは剥がれていた。眼窩からは、黒くて長くてびよびよした何かが垂れ下がっていた。その何かはよく見ると『手』だった。細くて長くて、7本の指がある手。わらわらと指を動かしている。

 指が。

 電器屋の右目から飛び出した黒い腕は。

 不意に空を指し示した。


『絶望をもって、〈外空ゲクウ〉より指し示す者をこの世に導け』


 カンテラを振り上げて襲いかかってきた電器屋を、横合いから突進してきたなべこわしが吹き飛ばした。なべこわしは尾びれで虚空を打つと、まるでここが水中であるかのように身をひるがえし、電器屋の右腕を喰いちぎった。

「だあああぁぁああ! いてぇぇえ、いいってぇじゃねぇかバカヤロォオオオ! ふへっ」

 とどめを刺したのは暁だった。

 暫で首を刎ねた。

 ちょん、と飛んだその首の右目では、黒い手が相変わらず空を指さしていた。

 電器屋の胴体はもう動かない。

 鍋屋もクーパーも、ほとんど同時にため息をついた。クーパーからはちょっと焦げ臭い匂いがする。スーツと帽子も少し煤けていた。

 なべこわしがすいっと泳ぎ、鍋屋の鍋の中に飛び込む。鍋屋は文化鍋の蓋を閉めたあと、あたりを見回し――

「なん……」

 珍しく、驚愕の声を上げた。

 暁もようやく気がついた。

 電器屋に突入する前と、あたりの様相は一変していた。

 ビラだ。町じゅうに、店の壁という壁に、べたべたとビラが貼られているのだ。本当に数えきれない枚数だった。1週間貼り続けても終わりそうにないくらいの枚数のビラが、ほんの数分電器屋で奮闘しているあいだに、ヒガシ町じゅうに貼り付けられている。

「……嘘やろ。なんや……なんなんや、いったい……?」

 クーパーも蒼い目をいっぱいに開いて凍りついていた。

 肌を刺すようなつめたい風が吹いた。ビラが何枚も剥がれ、虚空に舞う。一枚が鍋屋の足下にひらりと落ちた。鍋屋は拾おうともせず、むしろ汚いものから避けるように足を遠ざけ、顔をしかめる。

「読めん」

 彼はぼそりとつぶやいた。

「え……」

 暁はビラを見て、目を見開いた。顔を上げる。クーパーと目が合う。

 暁とクーパーには読めるのだ。その文字が。カタカナが。

 ビラは安っぽい二色刷りだった。水色のインクで、大きなピエロの顔がべったりと刷られている。そして藍色のインクで、こんな文言が印刷されているのだった。


『トコヤミサアカス ソノウチサンジョウ』

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